はげちゃんの世界

人々の役に立とうと夢をいだき、夢を追いかけてきた日々

第19章 ゆがめられた事実

外国では歴史をどのように捉え、教科書では日本をどのように教えているのかと興味を持っても語学に疎いため分からない。入手できた資料の中から誰もが興味のありそうなものご紹介した。

1 驚いた韓国の教科書

1982年大韓民国文教部発行の「高等学校国史」(上下二巻、『全訳世界の歴史教科書シリーズ31韓国』東北大学井上秀雄教授・桃山学院大学鄭早苗講師・訳、帝国書院)をテキストに、中部大学女子短期大学小中陽太郎教授の視点。

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 1-1 国と部族が入り混じる

韓国も最初に先史時代があり、これを「部族連盟体社会」と読んでいる。次に、高句麗(コグリヨ)・百済(ペクチエ)・新羅(シルラ)の三国時代が来る。やがて新羅が覇をとなえ、並行して渤海があらわれる。

渤海は滅亡した高句麗族が吉林省にやってきて、高句麗族と靺鞨族(マツカツゾク)を合わせて国を建て、国名を震(チン)としたがのちに渤海(パルヘ)とした。したがって中国東北部にできた高句麗族の支配する靺鞨族の国ということになる。

日本史では、外国はあくまでも文化と物の交流の場で、政治や軍事面で大勢の人が行ったり来たりした例は日本の軍隊を除いてほとんどない。大陸は、国と部族が入り混じっているので複雑である

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 1-2 神話が生きている

総論のつぎに現れるのが「檀君神話」である。韓国も北朝鮮も「檀君神話」を歴史の冒頭に持ってきている。神は天の子であるから、朝鮮の人たちの祖先は天から降りてきたことになる。天は住みにくかったのだろう。韓国の建国神話は熊(くま)だった。

彼等は自らを天の子と信じていた。そして、神の子桓雄(カンユウ)と熊の化身である女人との間に生まれた檀君王倹(タングンウァンコム)が、紀元前2333年に古朝鮮を建国したという檀君神話が誕生した。

わが民族は、人種的には黄色人種で言語学的にはアルタイル語系に属している。古くから、我が民族は一つの民族を形成し、農耕を基礎にして独自の文化を築いてきた。

日本の教科書では「日本人の人種的系譜については、身体的にも文化的にも、北方系と南方系の要素が認められる。日本語も、語法はアジア大陸のアルタイ語系に属すといわれるが、音韻や語彙には南方的要素も多く見られる。」という表現になる。

日本人は大陸系もいれば南方に島からもきているという雑種になる

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 1-3 春と秋の祭りがある

毎年種を蒔き終えた5月の節句と、穀物を収穫する10月に季節祭を催し神を祀った。

日本にも農耕民族としての風習である、春祭りと秋祭りが存在する。

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 1-4 法隆寺の壁画は韓国人の作

高句麗もまた日本文化に多く寄与した。高句麗の僧侶慧慈(フェジャ)は日本の聖徳太子の師であったし、曇微(タムジン)は儒教の五経と絵画を教え、神と墨の製造法も伝えた。日本が誇る法隆寺の金堂壁画も曇微の作と伝えられている] 。

日本の教科書では「8世紀初めにつくられたと考えられるが、インドのアジャンタの壁画とよく似ているので、その影響を受けたされている。

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 1-5 文化伝来図の相違

韓国史には、三国文化の日本伝播の地図がカラーで出ている。王厨新羅から敦賀への線があり、この流れは奈良・岡山に達している。一方、百済・伽耶からは博多・岡山へ続いている。

日本の文化伝来図は、遠く渤海から塔の長安に至るまで気宇壮大なものだが、国内の流れは小さくてよくわからない。日本の関心はどんなに遠くから来たかということらしい。

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 1-6 白村江の戦いはない

日本の教科書には「このころ朝鮮半島では新羅が統一にのりだし、66年に唐と協力してまず百済を滅ぼした。百済ではその後豪族が兵を集めて唐や新羅の軍に抵抗し、日本に救援を求めた。斉明天皇はこれに応じたが、朝鮮半島に渡った日本軍は、663年白村江の戦いで唐軍に破れて朝鮮から退いた。新羅は高句麗を滅ぼし676年には唐の勢力を追い出して朝鮮半島の統一を完成した。」とある。韓国の教科書では,

高句麗・百済の滅亡後、唐が新羅まで支配しようとしたため、新羅・唐戦争が起こるが新羅は唐の勢力を完全に追い出して三国を統一した。しかしこのとき、遼河流域と長白(チャンバク)山脈以北を失い、それ以降わが民族の領域は韓半島に局限された。

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 1-7 元冠は単なる台風のせい

高麗と講和した元は、次に日本を征討しようとして高麗軍を挑発した。そして忽敦(コットン)と高麗の金方慶(キンポウケイ)が指揮する高麗・元連合軍は九州の博多に向かったが、台風のために征討が実現せず、再び第二次の遠征を企てた。しかし、これも台風によって失敗に帰した

日本の教科書では「しかし、執権北条時宗はこれをしりぞけたので、元は高麗の軍勢をもあわせた約三万の兵で、1174年まず対馬・壱岐をおかしたあと、大挙して九州北部の博多湾に上陸した。

かねてより警戒していた幕府は九州地方に所領を持つ御家人を動員してこれを迎え討った。元軍の集団戦法やすぐれた兵器に対し、一騎討を戦法とする日本軍は苦戦に陥った。しかし、元軍も損害が多く、たまたま起こった大風雨にあってしりぞいた。

その後、幕府は再度の襲来に備えて、博多湾岸など九州北部の要地を御家人に警備させる異国警固番役を整備するとともに、博多湾ぞいに石造りの防塁を構築させた。南宋を滅ぼした元はふたたび我が国の征服をめざし、1281年朝鮮半島からの東路軍約4万と、中国本土からの江南軍約10万の二手に分かれ大軍をもって九州北部に迫った。しかし、博多湾岸への上陸を阻まれている間に暴風雨が起こって大損害を受け、再び敗退した。この二回にわたる元軍の襲来を元冠(蒙古襲来)という。

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 1-8 秀吉の朝鮮出兵は倭乱

1592年4月に約20万の倭軍が釜山(プサン)に上陸して壬辰倭乱(イムジンウェラン)が始まった。不意の大軍を迎えた釜山の兵士や人々は、僉使鄭撥(センイチョンパル)の指揮下で壮烈に戦ったが、ついに城が陥落してしまった。

このとき、全羅道の沿岸警備の責任を担っていたのが李舜臣(イスンシン)であった。彼はその一年前に全羅左水使に赴任して以来、倭軍の侵入に備えて亀甲船(コブクソン)をつくり、また戦艦と武器を警備して水軍を訓練させ、軍糧も貯蔵していた。

陸地の百姓たちと緊密な連絡を取りながら、敵の艦隊を閑山島(ハンサイド)前面の海に誘い込み敵を大破したが、これが閑山大捷(ハンサンテチョプ)である。

陸地と解錠の両面で再び惨敗した倭軍は戦意を喪失し敗走し始めた。朝鮮水軍は逃げる倭軍数百隻を露梁(ノリャン)海上でとらえ、最後の一撃を加えた。李舜臣はこの最後の戦闘で壮烈にも戦死した。これで7年にもおよぶ戦乱に終止符が打たれたのである。

倭乱で我々が勝利した最大の理由は、わが民族のもつ潜在的力量が優越していたためである。すなわち、官軍次元における国防能力はわが方が日本に遅れを取っていたが、全国民的次元での国防能力はわが方が日本よりすぐれていたのである。

戦争の勝敗を民族の優位性に結び付けるショービジネスは理解できるが、1598年8月に秀吉が病死したため、国内の政治情勢の悪化などに伴い対外戦争を続ける余裕がなくなったこともあり日本軍が撤退したことは無視している

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 1-9 朝鮮総督府は日本の大会社

憲兵警察統治は、世界に類例のない植民地統治政策であった。駐韓日本憲兵司令官が中央の刑務総監であり、書く道の憲兵隊長がその道の刑務部長であり、憲兵警察を全国の要所に配置して、武力でわが民族を抑圧した。

総督府が不法に強奪した土地は全農地の40%に達した。総督府はこの土地を東洋拓殖会社などに譲渡し、それを韓国に移住していた日本人に安い価格で払い下げた。

あらゆる産業は総督府によって庇護された日本人の会社が経営していたが、結局、朝鮮総連府自体が大きな事業体そのものであった。

ソウルのパコダ公園では、事前の計画どおり、ソウル市内の各級学校の男女学生と愛国市民が雲集し、そのなかで民族代表者によって独立宣言が朗読されると、彼らは市街地にくりだして万歳示威を展開した。

この事態に慌てた日本は、憲兵警官をはじめ、陸軍・海軍まで緊急に出動させ、平和的に示威し、正当な要求を掲げていた民衆を無差別に襲撃して殺傷したり、凶器で生命を奪ったり、人家や学校などの公共施設を放火・破壊するなど無慈悲な弾圧を続けた。
 日本緒官憲の手で多数の人々が殺傷され、投獄された者も5万余名にのぼり、家屋や学校・協会なども焼き払われた。

やがて光復軍(クァンポクグン)は生まれ、日本軍を相手に転戦する過程も日本では知られていない。代官独立軍による鳳梧洞戦闘と北路軍政署軍との青山里大捷などが書かれているが、日本の資料には見当たらない。

私が調べた文献とはずいぶん違っている点が多い。第3章失われた韓国史「朝鮮への鎮魂」に詳しく掲載した。このページへ戻るときは、ブラウザの戻るをクリックしてください。

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 1-10 日本の行為は民族抹殺政策

日本は漢民族を日本に同化させようとして、内鮮一体・日鮮同祖論・皇国臣民化などの虚妄なスローガンを出しながら、韓国語社会と韓国史教育を禁じた。また一方で皇国臣民の誓詞・球場遥拝・正午黙祷など彼等の迷信的行為まで強要し、これらを拒否すれば迫害された。

この民族抹殺政策に抵抗する学校は閉鎖され、また神社参拝を拒否したキリスト教信者の中には殉教者も出た。そのうち、創氏改名といってわれわれの姓名まで日本式氏名に変更するように強要された。

これも事実をゆがめている。第3章失われた韓国史の「貢女廃止への道程」に詳しく掲載した。このページへ戻るときは、ブラウザの戻るをクリックしてください。

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2 仰天の中国教科書

井沢元彦と金文学共著の「逆検定中国定教科書」、中国人に教えてあげたい本当の中国史(祥伝社)に次の「まえがき」がある。

「日本は歴史を歪曲するな!」
 中国政府や駐日大使、はては「反日デモ」の学生から、事あるごとに日本に対して浴びせられる罵声です。
 皆さんどう思われますか。(中略)
 この件に関しては誰はばかることなく、こう言い返しましょう。
「盗人猛々しいのはオマエのことだ!」
 もう少しおだやかな言い方を好むなら、
「中国にそんなことをいう資格はない。」と云いましょう。
 なぜなら、いわゆる世界の大国の中で、中国ほど歴史を歪曲し、それで国民を洗脳している国家はないからです。(中略)
 中国が自国の歴史教科書において、いかにインチキ・デタラメを教えているかを、中国で実際にこうした教育を受けていた金文学氏とともに、克明に分析したのがこの本です。

ひとつだけ例を挙げておきましょう。中国の文化大革命(1966~76年)という共産党が行った大虐殺における死者は最低2000万人と言われています。これは、日本中でも最も「親中派」といわれ「中国の代弁者」と言っても過言ではない朝日新聞社発行の現代用語集「知恵蔵」にすら載せられている数字(実際には7000万人が殺されたという説もある)です

ところが、中国の教科書には「70万人が迫害を受けた」としか書いてありません。迫害とは言うまでもなく「苦しめること」であって「殺すこと」ではありません。実際には最低でも2000万人殺したのに、教科書では「一人も殺していない」とウソをついているわけです。中国の歴史教科書というのは一事が万事この調子なのです

著者は、早稲田大学法学部卒業後TBS(東京放送局)に入局し、報道局放送記者時代に第28回江戸川乱歩賞を受賞され、歴史の原因と結果の因果関係から読み解く独自の史観に基づき、著述活動と講演活動で大きな反響を呼んでいる井沢元彦である。

そして共著者は、中華人民共和国吉林省長春市出身の韓国系三世で中国の重点大学である東北師範大学日本文学科卒業後に6年間講師を務められ、比較文化や文化人類学の著作多数で日中韓三ヶ国による執筆と講演活動で活躍されているで金文学である。

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 2-1 倭冠に関する記述

社会科の歴史で、中国沿岸を襲った日本人の海賊を倭冠と習い、海賊が海を渡って大陸までいける船を持っていたことに驚いた。中国の国定教科書にも倭冠に関する記述がある。

元朝末期と明朝の初期、日本の武士、商人と海賊は、常に中国沿岸地域で騒動を起こしました。沿岸の民衆たちはその被害にさんざん苦しめられ、彼らを倭冠と呼びました。明期の中期にに至り、倭冠の害は最もひどいものとなりました。

しかし、共産党が支配する以前の資料には別の記録が残されている。明の公式歴史書である明史日本伝には「大抵、真倭は十の三」とある。倭冠倭冠というけれど、日本人は全体の三割しかいないと記されている。

趙泰襄文集の「徐存翁に与うる書」にも、「びんの倭冠は十の三に止まるのみ。大抵は皆、びんの乱民なり。公に背き悪に党するの徒は、今だ終始し易からず」とあり、真倭は十の二~三、乱民、背中党悪の徒が十の七~八であったとしている。

鄭暁の「皇明四夷考」には、「1552年、倭冠の黄巌(浙江省)に入りしより、今に及ぶまで十年、江南北・江東の人は皆、倭奴に従う。大抵、賊中は皆、華人にして、倭奴は十の一~二に直る。」とあり、中国人が十の八~九であったとしている。

1552年の世宋五事を拾い読みすると「概ね倭夷を称すいえども、実は多くは平民なり。いずれにせよ倭人は十の一で、浙江省の寧波・紹興の人が十の五、福建省の泉州・福州の人が十の九である」としている。

今でいう防衛庁の高級官僚クラスの人の発言として「倭冠と結託して暴れている明兵、明の国の雑兵のほうが日本人よりも十倍残虐である」。同じく、責任ある立場の人の「日本人の賊にあうことより、中国人の官兵に遇うことのほうが恐ろしい」という発言記録も残されている。

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 2-2 チベットの独立を否定

明朝初年に明朝の順治帝がダライラマ五世を最大級の賓客として北京に迎えた。皇帝は「黄金宮」を立て、斜めに配した玉座を二つ用意した。ダライラマは弾圧を避けて国外に亡命したが、パンチェン六世はチベットに残ったため刑務所に19年間も投獄された。

明朝初年、西藏(チベット)のラマ首領ダライ五世は自ら北京を訪問し、皇帝に祝意を示しました。順治帝は接見し、ダライ五世に対し、公式に「ダライ=ラマ」という称号を下賜しました。

1774年、英国の植民者はテベット地方政府と独自に、いわゆる「通商条約」を締結しようともくろみました。パンチェン六世はそれを断固として拒否し、なおかつ厳粛に次のような声明を発しました。「チベットは中国の領土であり、すべての軍事事務は必ず中央政府の意見に従わなければならない」。これにより、英国植民者の野望を打ち壊し、祖国の統一を守りました。

中国の国定教科書に書いてある通りだとすれば、パンチェン六世が19年間も投獄されるはずはないのである。ここにもウソが書かれている。

康熙帝はもう一人のラマ教えの首領パンチェンに、パンチェン=エルダニの称号を与えた。

パンチェン=エルダニとは、サンスクリットで「偉大なる博士」という意味であり、ダライ五世が自分の師に対して経緯をもって贈った称号である。それがなぜ、康熙帝が与えた称号になるのか

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 2-3 日本の台湾出兵

明治4年11月27日、69名を乗せて宮古島から琉球王朝への年貢運搬船の一隻が強風に流されて台湾にたどり着いた。蛮族に54名が殺害されたため、日本政府は清国に沖縄の統治権を主張して沖縄住民への賠償を要求した。

清国は沖縄への日本統治権をあっさり認めながらも、「中国は台湾の領有権を有していない」と拒絶した。このため、明治7年4月に3600名の陸軍部隊を台湾へ派遣して蛮族を攻撃した。慌てた清国政府はようやく台湾への領土権を認めて要求をすべて呑んだ。

19世紀の60年代、アメリカは軍隊を派遣してロウキョウに上陸しました。台湾人民は勇敢に抵抗し侵略軍を撃退しました。以来アメリカは日本の台湾侵略を指示し、漁夫の利を得ようと企てました。19世紀の70年代、日本は軍隊を派遣してロウキョウに上陸しましたが、台湾の軍人と人民は必死に反撃し、日本軍は進退きわまりました。そこで英、米、フランスなどの諸国が「調停」に乗り出し、結果的に日本は中国から50万両巻き上げることで台湾撤退を飲みました

何と矛盾した記述だろう。進退きわまった日本軍が調停を受け入れ、勝っていた中国軍が賠償金を支払うなどということがあり得るだろうか。

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 2-4 日清戦争の曲解

中国は自分の周りの国々をすべて属国と考え、朝鮮を長い間圧迫し続けていた。日本はロシアに対する国防問題もあり、朝鮮は独立して近代国家になってほしいと願っていた。清国の圧迫がある限り独立は不可能なため、朝鮮を巡って日清戦争が起きた。

1894年、朝鮮で東学党の蜂起が勃発しました。朝鮮国王はその鎮圧のため清政府に出兵を要請しました。この機に乗じて日本も挑戦に軍隊を派遣しました。東学党の蜂起が平定され、清政府は中日両国が同時に朝鮮から撤退するよう提案しましたが、日本はその後も増兵を続け、中日戦争を計りました。

1894年7月、日本海軍は朝鮮の牙山港の豊島海上で中国の油槽船を襲撃しました。清政府は8月、日本に迫られる形で宣戦を布告しました。歴史ではこの戦争を甲午中日戦争と呼びます。

中国は朝鮮に対する非常な圧政者で、日本のように近代化することを全く望んでいないかった。当時の朝鮮では、近代化すべしという「独立党」と中国に従うという「事大党」が真っ二つに割れていた。

ソウルにある「独立門」は朝鮮がようやく中国から独立できたことを喜んで、日清戦争終結の翌年に建てられた記念碑で、日本からの独立を祝ったという中国人と同様の歴史歪曲が行われている。

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 2-5 韓国で英雄の安重根

一般的に、安重根は伊藤博文が一方的に朝鮮を支配したため暗殺したと伝わります。安重根が暗殺を計画したときはそう思っていたことは間違いないのですが、後に安重根は伊藤を殺したことを「私は間違ったことをした」と言って後悔していた

安重根は裁判の証言で「日本は日清戦争で我が挑戦の独立のために戦ってくれたじゃないか。それなのに伊藤博文はそれを併合という形で消そうとしている。だから許せなかったんだ」といったと言われている。

伊藤博文は日韓併合には反対の立場を取り、朝鮮の完全独立を望んでいた。しかも、朝鮮が日本と同じレベルで近代化し独立することを望んでいた。安重根は伊藤の意思を後から知って後悔したが、韓国では朝鮮を支配していた伊藤博文を暗殺した英雄として讃えられている。

1895年、清政府は李鴻章を対日和平交渉の最高大臣として派遣し、日本の首相伊藤博文と馬関(下関)で談判を行いました。その結果、中日(馬関条約)締結を強いられました。条約の主な内容は次の通りです。清政府は、遼東半島、台湾、澎湖列島を日本に割譲し、日本軍に軍費として銀2万両を賠償し、沙市、重慶、蘇州、杭州を開放して通商港とし、同時にこれら通商港における日本の工場などの建設を許可しました。馬関条約は中国の半植民地化をさらに強めました。

下関(馬関)条約の第一条に「清国は朝鮮国の完全無欠なる独立自主の国たることを確認する。因りて右独立自立を損害すべき朝鮮国より清国に対する貢献典礼等は、将来全くこれは廃止すべし。」

日本が朝鮮を中国から解放したのは間違いない事実だが、中国の教科書にも韓国の教科書にも書かれていない。韓国は現在の独立を美化するために、独立する前はすべて悪かったということにしておかないと国民をダマセナイのです

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 2-6 日本からの輸入語

江戸末期から明治にかけて日本人は西洋文化を輸入するため必死に西洋語を学んだ。しかし、意味が分かっても概念がないので当てはまる日本語がない。最初はカタカナで表現したが、漢語を使って意味が分かるように新しい言葉を苦心惨憺作り上げた。

中国も最初は西洋の言葉を中国語に訳そうと試みたが、結局は根付かなかった。日清戦争後に日本で学んだ中国からの留学生によって中国へ持ち込まれた言葉が広く受け入れられた。それだけ日本人が作った言葉の出来が良かったことになる。

元中国上海外国語大学の教授だった陳生保さんが「中国と日本、言葉・文学・文化」という論文を発表した。それによれば、近代に日本から輸入された言葉は約1000語あまり、そのほとんどが常用語として中国に定着しているそうだ。金文学によれば有名なものは

「経済・主義・哲学・科学」などで、「歴史・民族、国家、宗教、自然、侵略、手続、取締、取消、目的、代表、対価、献金、国際、基準、伝統、基地、学校、学生、警察、憲兵、検査官、写真、法治、哲学、出版、革命、思想、運動、企画、金融、交通、運命、広場、人民、意識、会報、信条、等々」である。

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 2-7 偽造文書も掲載

日中戦争の前段階として、満蒙征服計画とその経営について具体的な21項目が記された「田中メモランダム」というものがある。当時首相であった田中儀一が天皇に上奏したとされた文書だ。表題は「田中儀一上日皇之奏章」となっている。

我々は支那を征服したのだが、支那を征服するためにはまず満蒙を征服しなければならない。そして、世界を征服するために、まず支那を征服しなければならない。そのためにも、我々は満蒙の権利を手に入れなければならない。満蒙を根拠地にして貿易を行うという口実で支那の四百四州を征服することが可能である。さらに満蒙を橋頭堡とし、全支那の利益源を確保することが可能となる。

東京裁判でも問題になった文書だが、日本に限らず世界でもニセモノであることが定説となっている。このようなものを教科書に取り上げているのは中国だけである。表題を見ただけでも日本人はこのような表現はしないので、中国人による偽造と分かる。

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 2-8 敵後方の抗戦

中学の歴史教科書に「敵後方の抗戦」と題した箇所があり、思わず笑い出すような記述がみられる。

中国共産党はきわめて困難な条件のもとで、敵後方における抵抗戦を堅持し、日本侵略者に打撃を与えました

八路軍は新四軍とその他の抗日武装勢力は、極端に困難な状況下にあってゲリラ戦を展開しつづけ、進行する日本軍を次から次へと打ち破りました

日本軍と戦っていたのは国民党軍で、国民党軍の後方にいた共産党軍が日本軍に打撃を与えたり、次から次へと打ち破ることができるだろうか。正面から向かって言ったら敵わないから、後方で小規模なゲリラ戦を行ったということらしい。

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 2-9 起こりえない南京事件

中国の中学校の歴史教科書に、南京事件について次の記述がある。

日本侵略軍はいたるところで殺戮・強姦・剥奪を行い、極悪非道の限りを尽くしました。とくに、南京占領後は南京市民に対して血なまぐさい大虐殺を行い、天にも昇る大罪を犯しました。(中略)日本軍は、南京占領後、6週間のうちに徒手空拳の中国人民と、武器を捨てた中国兵士を虐殺し、その数は30万人以上に達しました。

日本軍は南京攻撃の三日前に「戦争するから市民は避難しなさい」とビラを撒き、多くの市民は日本軍が来る前に逃げていた。当時の南京の人口は90万人、日本軍の南京入場直後から逃げていた人が流入し、あっというまに20万から30万人になっている。

常識的に考えても、水や食料等の物資を売っている人々を殺したら軍隊は飢えてしまうだろう。何十万人の虐殺を行うのは中国的な発想で、彼等は敵を倒したのち皆殺しにしてまとめて埋める「京観(けいかん)」という習慣があり、日本もそうしたと思い込んだ。

日本には征服した都市の市民を虐殺する必要はなかった。日本が征服するのは自分たちの市場としたり活用することが目的だった。

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 2-10 あこがれは乾隆帝

井沢元彦は「中国人は侵略民族」で、次のように述べている。

清朝がなぜ「アジア東部の最大の国家になった」かというと、それは兵を送って占領したからです。乾隆帝というのは、その生涯に重度の対外遠征をしています。対外遠征というのは、要するに侵略です。

中国というのは、内戦で国内が混乱すれば多くの人民を殺して圧倒的な政府を作り、逆に国内が上手くまとまるとすぐに外征に乗り出し、外国を侵略するという大変好戦的な国家なのです。

また、乾隆帝の時代、清朝前期の領域については次のような書き方がされている。

清朝の前期、わが国土領域は、西はカラコルム山脈、西はバルハシ湖の北岸にまで至り、北はシベリア、東北は黒竜江省北部の外興安嶺と庫頁島(日本ではサハリン島・樺太と呼ぶ)まで至り、東南は台湾、およびその付属島である釣魚島(日本では尖閣諸島)、赤尾嶼(日本では大正島)に至り、南は難解諸島を包括する、アジア東部で最大の国となりました。

乾隆帝はその生涯に10度の対外遠征、要するに「侵略」をしている。中国というのは内戦で国内が混乱すれば多くの人民を殺して圧倒的な政府を作り、逆に国内がうまくまとまればすぐに外征に乗り出すという、外国を侵略するという抗戦的な国家である

そして、現代の皇帝ともいえる習近平は清朝の乾隆帝にあこがれ、アジア東部で最大の国家を目指している。第18章 現実を直視しよう「放置できない現状」で中国の覇権主義を参照願いたい。このページへ戻るときは、ブラウザの戻るをクリックしてください。

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3 木曾義仲の復権なる

木曽義仲は1184年1月20日、後白河法皇の密命によって頼朝が差し向けた範頼、義経の率いる数万騎の鎌倉の軍勢に敗れて琵琶湖畔の栗津ヶ原で討ち死にした。後白河法皇の院の御所である法住寺殿を焼き討ちしたとして賊軍にされ、朝敵や逆賊の汚名を被った

水戸光圀が編纂を命じた大日本史で、義仲は大日本史の俗に「叛臣伝」と言われている位置に組み入れられた。大日本史の編纂に当たった水戸藩の儒学者安積澹白は「大日本史算藪」の中で次のように述べている。

源義仲は、功を恃みて狼戻(残忍)で君を無とするの志を蓄ふ。…法住寺の乱、其の残虐を極め

水戸藩の安積澹白は1716年から大日本史の執筆に当たった。義仲の没後532年を経過していることから、参考にしたのは鎌倉時代になって書かれた「平家物語」や「源平盛衰記」と思われる。

木曾義仲は寿永2(1183)年7月28日、平家一門が都落ちをしたのを見届けてから戦火で都の人々を苦しめずに無血で京都へ入った。しかし、清盛の娘が産み賜った数え歳6歳の安徳天皇は、三種の神器と共に平家一門と共に西国へ赴かれつつあった。

7月30日の「吉記」には「京中の追捕物取り等すでに公卿家に及ぶ」とし、「京中の守護、義仲、院宣を奉し、これを支配す」として、入京した源氏一族が警備を分担し、義仲は都を大内裏、洛中、洛外の大別して守護の配置を決めている

京都守護を念頭に置いていた義仲が、我が軍勢の乱暴狼藉を黙認するだろうか。兼光の玉葉に「伝え聞く、今日七条河原に於いて、武士十余人の頸を切る云々」とあるのをみても、義仲は厳罰もって臨んでいたことが伺い知れる

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法住寺殿合戦の当日、右大臣九条兼光は日記「玉葉」に「義仲はこれ天の不徳の君をいさめる使いなり」と記している。不徳の君とは後白河法皇を指し「法皇嗜慾の乱世」とまで記している

義仲、忽ち国家を危うくし奉るべき理無し。ただ君、城白を構え兵を集め、衆の心をおどろかされるの条、専ら至愚の政なり。これ小人の計より出か。果たして以てこの乱あり。玉事の軽きこと、ぜひを論ずるに足らず。悲しむべし悲しむべし、と兼光は書き残している。

後白河法皇の権力が絶大でも、三種の神器なしで新しい天皇を立てることは皇祖天照大神をも無視した暴挙で、無効とされても致し方がない。比叡山の権僧正俊尭も「君主の位を継ぐには、先帝の嫡子が伝統を守って即位すべきである」と法皇を諭している。

天皇を十善(十悪を犯さない完全)の君として絶対視していた時代であっても、三種の神器を所持しない後白河法皇は天皇ではなく、天皇でない権力者を諫めたり抗しとしても朝敵や逆賊とは言い難い。安積澹白は大日本史に記した内容は真っ赤な嘘と言える。

平安時代末期の公家・吉田経房の日記『吉記』の写本に、自分は実際に見ていないが「後に聞く」として法住寺合戦の混乱を記している。

御所の四面、皆悉く放火、其の煙偏に御所中に充満。万人迷惑、義仲軍所々より破り入り、敵対するあたわず。法皇御輿に駕し、東を指して臨幸。参会の公卿十余人、或いは馬に鞍し、或いは匍這う四方へ逃走。雲客以下其の数を知らず。女房等多く以て裸形…

1月19日午の刻(午後0時頃)右大臣九条兼光は天に昇る黒煙を見た。日記「玉葉」に法住寺合戦を次のように伝えている。

申刻(午前4時)に及び官軍、悉く敗績、法皇を取り奉らり了んぬ。義仲の士卒等、歓喜限りなし。法皇を五条東洞院の摂政亭に渡す奉らり了んぬ。武士のほか、公卿侍臣、この矢に当たりて死傷の者、十余人と云々。夢か、夢にあらずか。魂魄退散、万事覚えず。およそ漢家本朝天下の乱逆、その数あるといえども、今度のごときの乱、未だあらず。義仲は、これ不徳の君を誡める使いなり。その身、滅亡。また以て忽然か。ただ宿業、恥ずべきか。悲しむべし、悲しむべし。

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九条兼光は1月20日の日記「玉葉」に木曾義仲の最後のもようを記している。

法皇及び祗候の輩、虎口をまぬがれる。実に三宝の冥助なり。凡そ日来、義仲の支度市中を焼き払い、北陸道に落つべしと。而して又、一家を焼かず、一人も損わず、独り身、梟首され了んぬ

義仲は家を焼かず、人を殺さずに一人首を斬られて頭部を木にさらされた。大津の義仲寺の片隅に、日本浪漫派を代表する保田與重郎の墓がある。保田は昭和12年10月に「コギト」第65号に発表した「木曾冠者」論の中で次のように説いている。

九条兼光が木曾を天の使者と断じたのは誠に目出度い批評であろう。

と讃えて、義仲の悲劇の原因を次のように説いている。

木曾の滅亡の下がきしたものは旧制度維持派の公卿たち院政派の人々である。院政派の最後のふみ止まりの実験のために、木曾はその人々の策略の上で滅ばされたのである。

義仲は剛直にして人情を解し、純情の人でありつつ、朝敵の悪名を得るような不幸な目に遭った。古来朝敵であって京都を50日以上保留したものはないというのが当時の世評であった。

それは木曾の性質が決して悪くないという民衆の一つの判断を示している。木曾の不幸はむしろ当時の院制派公卿の深刻な犠牲になったことである。

江戸時代中期の旗本で政治家であり朱子学者である新井白石は、読史余論で朝廷の権威が失墜したのは後白河法皇が「暗主」であり、後鳥羽上皇が「天下の君たらせ給ふべき器」でなかった結果であって、公家政治の衰退を招いた責任は朝廷の主権者の側にあったとしている

芥川龍之介は木曾義仲論で、権力の座にしがみついている後白河法皇が木曾義仲に対してクーデターを起こしたと述べている。

遂に義仲に対するクーデターは行はれたり。法皇は事実に於て、義仲に戦を挑み給へり。彼の前には唯、叛逆と滅亡との両路を存したり。燃ゆるが如くなる、血性の彼にして、焉ぞ手を袖して誅戮を待たむや。彼は憤然として意を決したり、あらず、意を決せざるべからざるに至れる也。

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これらの記録や先達の論を考察すると、木曾義仲は朝敵や逆賊ではなく、権力に固執していた後白河法皇を朝敵や逆賊と言わねばならないだろう

元禄7年10月12日、俳聖松尾芭蕉は大阪本願寺の花屋別宅にて逝去された。遺体は遺言によって大阪の義仲寺に運ばれ、木曾義仲の墓の隣に埋葬された。芭蕉の遺言は、

さて、骸は木曾塚に送るべし。ここは東西のちまた、さざ波よき渚なれば、生前の契り深かりしところなり。懐かしき友達のたずね寄らんも、頼りわずらはしからじ。

   義仲の寝覚めの山か月か月悲し
    木曾殿と背あはせする夜寒哉

松本利昭は詩人で作家である。1954年に少年写真新聞社を創業され日本詩教育研究所所長として活躍された。還暦を過ぎてから歴史小説を発表し、木曾義仲の研究については第一人者であり、義仲の名誉回復を叫ばれた。

松本利昭の小説は「悟空太閤記、虚器南北朝、信長の女、春日局、巴御前、木曾義仲」、芭蕉「越のほそ道」がある。

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参考文献:外国の教科書に日本はどう書かれているか(小中陽太郎、ごま書房)、逆検定中国定教科書(井沢元彦・金文学、祥伝社)、木曾義仲(松本利昭、光文社)、芭蕉「越のほそ道」(松本利昭、毎日新聞社)ほか。