はげちゃんの世界

人々の役に立とうと夢をいだき、夢を追いかけてきた日々

第17章 タコ部屋で生き抜いた男

北海道土工業界はタコ部屋を除いては考えられず、戦争経済下の北海道第二期拓殖事業を支えた土台は年々2万人を数えたタコ人夫たちであった。タコ部屋で半生を過ごした高田玉吉の手記を古川善盛が編集した実録で、当時の世相と礎となられた方々を忍びたい。

1 高田玉吉の手記

 1-1 高田玉吉という人物

高田玉吉は明治41年3月3日に北海道小樽市で生まれた。小学5年生のときに喧嘩両成敗の罰として先生から一週間日記をつけるよう言われたが、それが嫌さに学校をやめてしまった。なだめすかした両親も根負けし小樽農産物検査所の給仕として雇われた。

検査所を辞めてから紙器製作所へ年期奉公に出たが、17歳の時に雑貨と海産物を商っていた父が死亡、2年後には飲食店を営む母親も、玉吉を長男とする6人の子どもを残して逝去した

昭和2年、全国に大恐慌の波がおしよせ、北海道では20年間に17億5,500万円を投じた「第二期拓殖計画」がスタートした年であった。玉吉のタコ部屋暮らしが始まったのは、それから3年後である。

ずぶの素人土工も5年もするとやがて名を知られた「兄ィ」になっていく。ある者は、同じ働くなら他人に負けまいと仕事一つにぶつかって親方に認められ、土工仲間からも信頼を得ているというタイプがあった。玉吉はこのタイプだった。

これとは対照的に度胸ひとつで殺されてもかまわんという覚悟で、ダハンをこいてヤキを入れられ(ごねて制裁を受け)、それを繰り返しているうちに名前を聞いただけで怖れられる存在になっていくというタイプもある。

もちろん仕事一つといってもタコ部屋という特殊な世界だけに「従順」とか「まじめ」とかいう意味とは少し違っており、ときには体を張って立ち向かうこともあり、逃亡もする。また、そうでなければ土工家業は務まらなかった

玉吉の「手記」は、昭和45年5月から書き始められ、昭和48年11月までの3年間に書かれたもので、元原稿は13冊のノートと100数十枚の罫紙にびっしりという量であった

タコ部屋は、かなり類型化したふたつのイメージのどちらかで語られてきた。一つは監禁・酷使・虐殺で、あらゆる手段をもって野獣のような棒頭が哀れな土工をいたぶる地獄絵図である。もうひとつは、酒色の誘惑で身を売る怠け者タコ人夫への侮蔑の目である。

巷に伝えられるタコ部屋のイメージには、誤りがないまでもかなりの極解がみられるようであり、この手記の要約が遠い思い出の記録であることと、玉吉が稼業人、つまり本職の土工夫であることを考えてお読みいただければ納得できるだろう

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 1-2 土工夫への道

母は亡くなる前に蓄えたお金を玉吉に渡すように遺言したが、叔父が直服したので酒の勢いで玉吉は叔父の家へ談判をしに行った。怒鳴り込んだまではいいのだが、逆に滅多打ちにされて半死半生で道路の真ん中へ叩きつけられた。

当時は労働者があぶれ、よほどの若者でなければ仕事にありつけない。町中の看板には「人夫至急入用、鉄道工事、炭鉱夫開墾道路人夫、〇〇組」と書かれていたが、屈強の若者でなければ採用されない。

周旋屋に「小樽でさえかったらどこでも良いから仕事を探してくれ」と頼み、「ほんとに兄ちゃん働くのか」と念を押されから、稲穂町の繁華街のどまん中にある堂々たる構えの店に連れていかれた。

その夜は薄暗い部屋に泊めてもらい、朝飯をご馳走になったが口が切れているのでやっと食べた。10時頃から人の出入りが激しくなり、検査の結果は玉吉の手や体つきでは人夫として不合格とされたが、無理に頼んで仲間に入れてもらった。

採用された者は契約書に借金額を書き入れ3ヶ月(普通は6ヶ月、この時は短期)の契約で前金は15円。10円かけてシャツや地下足袋、乗馬ズボンに脚絆、紺の腹掛けに白地の帯で支度を整えると、自分でもびっくりするほどいっぱしの土工姿が出来上がった。

翌朝6時に出発前の朝食の味噌汁はコイのぶつ切りである。これは縁起もので「早くコイコイ」という意味(逃亡でも満期でも現場から戻ってきたタコは再び周旋屋の稼ぎになる)だそうだった。

たとえタコに売られるにしても、医師の診断書と警察の点検をとって現地の買方へ行くのが決まりだが、そうでないのはヤミ取引になる。いわゆる「半ダコ部屋」と言い、これが一番恐ろしいと言われた

運悪く病死や虐殺、逃亡に失敗して殺されても、警察に届けていないのでそのまま無縁仏になる。玉吉もこの時は警察を通らず半ダコ部屋だった。玉吉を含めて人夫は14人、筋肉隆々たる入墨の兄ィ連中がほとんどだった。

親方の説明では、札幌の帝国製麻会社の付属工事で12月一杯で完了するという。組長と現場送りの幹部3人に引率され、警察の目に止まらないように近くの小樽駅をさけてハイヤーで小樽築港駅へ行き札幌駅へ向かった。

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2 茨戸川の川底掘り下げ

 2-1 鬼の河合との出会い

札幌駅に着くと交番の裏側を駆け足で通り過ぎ、石狩海道を北へ北へと歩き出した。帝国製麻会社を通り過ぎても幹部連中は何も言わない。足早でどんどん北へ急いだ。そのうち激しい雨が降り注ぎ、1時間半ほども走った頃に真新しい一軒家が見えてきた。

祭りの見世物小屋のようなバラック。小屋の前は4~5メートルほどの小川で、相当下流の方から泥上げがされている様子だった。追い立てられて小屋の中へ入るとどこもかしこも赤粘土だらけ。2~30人分の寝巻が板壁にぶら下がり粘土で赤く染まっている。

炊事場のほかには火の気のあるのは土間の中に一ヶ所、小屋の中には炊事係の男が一人だけである。組長と幹部連中のようすが次第に荒っぽくなり、「みんな濡れているものは今のうちに乾かせ、でないと後はどうにもならんぞ」と怒鳴りつける。

1時間もすると30人の土工夫が帰ってきた。土砂振りの中で整列、点呼、そして「入舎」の号令で小屋の中へ入ってくる。入ってきた土工夫たちの姿はこれが人間かと思う方が不思議なものだった。

その中にいた、犬の皮の袖なしを着て真っ黒に日焼けした目の光る、見るからに精悍そうな男がこの現場の担当幹部だった。「今帰ってきたものはまかないを解いて上がれ、濡れた物はすぐ乾かせ、いいか」。そして新参の14人を見た。

「本日の新入者は名前を呼ばれた順に、所持品をもって俺の前へでろ」。中には40人がいるのに、無人小屋のように咳払いする者もいない。玉吉が呼ばれたのは最後だった。5尺2寸(1m57cm)足らずで14.5貫(55Kg)しかない小男である。

「前田、手を見せろ!」。若い幹部が玉吉の手を見て「こんな手で現場の仕事ができると思ってるのか。お前の様なチビが3尺もある水底の土砂はねつけができるわけがない。命がいくらあってもたまらん、小樽へ帰れ」。組長に高田と前田は受け取れないという。

前田は玉吉と同様に小柄だった。佐藤組長は玉吉を睨みつけている。玉吉は土間に手を付かんばかりにして頼んだ。15円の前借金や飲み食いの代金は返す当てがない。現場の事業主で部屋の管理者である、カイゼル髭を蓄えた河合という大男が口を開いた。

北海道の土工界で知らぬ者のないこの男は、この世の鬼といった形相で「佐藤、その2人は特別に俺が拾ってやる、額面(15円)だけ置いていけ。何か陸の仕事でもやらせよう。小樽に連れ帰ったところでつぶしにもなるまい、どうだ」。

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 2-2 佐藤組の仕事

普通、周旋屋はタコ一人売ると3倍になる仕組みだが、佐藤組長は舌打ちしながらしぶしぶ承知して玉吉と前田はどうにかタコとしてパスした。若い幹部は新入者に号令をかけた。一つ。時計、発火物、貴重品は一切こちらで預かる。いる時は帳場に申し出ること。

二つ。国家には国法あり、一家には家風がある。当部屋には当部屋独特の習慣に基づき指導する。それから人夫一堂に向かって、一同注目。本日小樽方面よりお友達が14人来た。今まで同様に仲良くするように。玉吉はタコ部屋で過ごすことになった。

「起床!」何時か分からない。そこは真っ暗でランプが2つ灯っている。40数人が15分間で立ったままで食事をとり、大小便も早い者勝ちですます。河合親方は陸の仕事をさせると引き取ったのは口実で、みんなと一緒に川底の掘り下げ土工作業をさせた

10月の寒気の強い中で着の身着のまま地下足袋で川の中へ入り、昼になると川から上がり震えながら昼食を食べる。昼食時以外は川の中に入ったままである。全線長さ約6kmほどの川で、作業は1人で幅4m長さ5m、12時間の水中作業である。

幹部2人が馬上で見張り、馬の鞍には銃を付けて何時でも発砲できる。作業は単純だから力のある者が早く終える理屈だが、馬力だけでは無理。雨が降っても休むことなく作業は続行し早く終えた者は遅い者を応援し、10番までが1組になって部屋へ帰る。

1番上がり、2番上がりと赤い旗を立て10番までは優秀なものとして恩典があり、ある程度自由に話もできる。1番が酒、2~3番は菓子の賞品が出ても一人では食べない。みんなで分け合って明日の作業を助け合っていくことは言わず語らずである。

暗くなって部屋へ帰ると野天風呂で温まる。生乾きのズボンや地下足袋をまるめて枕にして寝ると、部屋の隙間から星が見える。家の事を思い出して目が熱くなることもあるが仕事から解放されて寝るのが一番、土人夫たちのこの世の極楽だった。

青々した水面を見るとぞっとするが、水の深いところほど土量が少ない。無我夢中の作業で20日くらいたつと、このチビ男が1番上がりを4~5回、あとはほとんど2~3番上がりという成績になった。足指は水虫、手の指は皮がむけてブヨブヨだった。

どんなにきつい水虫でも白ペンキで治った。不思議なことに、40数人の中から怪我人や病人はでなかった。一日ごとに日暮れが早くなり、仕事が順調に進んであと何kmのところまで来た頃には、作業が終わるとちようちんを点けて帰るようになった。

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 2-3 恐怖のヤキ入れ

川底さらいでコイやフナやウナギもとれる。1・2番上がりで赤旗を立てた者が2斗缶に30分もかからずに川魚を一杯ほどとる。コイの味噌汁やウナギのかば焼きを楽しむことができた。

玉吉も働き甲斐があって、上金(賃金から前借金や飯場代などを差し引いた残金)もつき、シャツや石鹸、タオルなども買ってもらえるようになった。朝夕めっきり寒くなり霜が降るようになってきたころである。

あるとき親方が、「カミノケ、貴さまよくやるな、その意気で頑張れよ。幹部も認めたぞ。今夜から俺のカンタロウ(酒の燗付け役)をやれ」。玉吉の髪の毛が長かったので付けられたあだ名がカミネケ、仕事で疲れているのに断ることができなかった。

また、若い幹部は「高田、貴さまはやっぱり土工などやったことがないな。だがよく頑張ったよ、俺も認める。オヤジの会社は豊平の河合組だ。その組長が自らの陣頭指揮だ。オヤジに目をかけられた者は高田お前一人だぞ」。世間は鬼ばかりではないと思った。

ところが考えられないことが持ち上がった。タコ部屋では「1枚1本」といって敷布団と掛布団一枚ずつに2人が寝る決まりだった。仕事を終えて夕食がすむと寝るまで1時間ほどある。濡れたものを乾かす者、水虫の手入れ、自慢話など楽しいひと時だった。

やがて臥寝用意の号令。布団を敷いてから点呼し異常なしで、明日の仕事の話があり床に就く。ふとんは2人一組だが、相棒の小林が敷布団を2枚持ってきた。びっくりしたが相手はいっぱしの兄ィ、玉吉は新米土工夫なので逆らうわけにはいかない。

30分ほど過ぎると、炊事係が「俺の布団がない」と騒ぎ出した。何度も言うので親方が怒りだして「週番、全員起床させろ」と叫んだ。炊事係が調べると「ありました。小林と高田です」。玉吉は親方の前へ平身低頭して謝ったが、その後は記憶にない。

水をかけられて土間に転がっていたようだ。翌朝、体のあちこちから血が噴き出て、目も片方と口は切れ、背中は火のように熱い。腕と足だけは無事だったが、鬼の河合の本領を発揮したのだろう、殴った凶器は焚火の薪だった。世話役が飛んできて救ってくれた

世話役と幹部が懸命に治療してくれたが、小林はみんなに言われてタオルで冷やすだけだった。ややしばらくして「高田起きてこい、小林もだ。親父が呼んでいる」と世話役に呼ばれ、「親父は根はいい人なんだがと」慰められながら奥の部屋へ向かった。

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 2-4 最初の脱走

親方は玉吉の姿を見かねたのか酒がさめたのか黙っている。世話役がどんぶりになみなみと酒を点いでくれたが、どうしても飲むことができずにまた親方の機嫌を損ねた。夜が更けてきたので寝ることにしたが、この体では仕事が出来ないと眠られない。

翌朝の作業で水中に飛び込んだが両の腕が言うことを効かない。時間は容赦なく過ぎるが玉吉の持ち場はそのままだった。馬上の2人は遠く離れ、監視の2人は作業の指導に余念がない。このままでは体がもたない。逃げよう!玉吉は水中から這い上がった

足には十分自信があった。南の方へ向かって一気に飛び出した。何が何でも走らなければと命がけだった。牧草の刈り込まれた後なので、見渡す限りの大平原である。どこから見ても人間が走っているのが見える。枯れたとうきび畑、体にぶつかると痛い枯草。

半里ほど先にサイロが見えて来たのでそれを目標に走った。突然銃声がしたので振り向くと、玉吉の後に続いて三人が駆けてくる。親しくしていた前田と斎藤、それに小林だった。銃声は続いていたが、しだいに遠のいて消えてしまった。

サイロに着いて牧草に潜り込み、息を凝らしてこの先どうするか考えていると三人が着いた。「齋藤さんこれはどういうことだ。4人も脱走するってひどいと思わんか。俺は体がだめになってきたから飛んだのだ。齋藤さん早まってくれたな」。

追手が来るのは目に見えている。ともかくここから早く立ち去らなければならない。不思議なことにこの農場に人影が見当たらない。いても出てこないのだろう。何しろ人間の姿でないような男が4人も飛び込んできたのだから。

また、西の方角へ向かって走ったが行けども行けども人家がない。どこをどう走っているのか分からないが、ひどく腹がすいていることに気づいた。食べるものは何もない。牧場の前に牛乳を出荷する集乳缶が並んでいた。一缶を四人で飲んだ。

ようやく腹が満杯になって西の方へ向かうと着いたのは手稲町だった。そこから線路伝いに歩いて夕方5時に小樽の町に入った。結局行くところがなく4人連れで佐藤組の厄介になった。佐藤組長は「高田どうした。恐ろしくヤキの入った体でないか」と驚いた。

とにかくここにいたら危険だからと、仁野の春さんという同業の店へ案内してくれた。仁野の春さんは三流どころの口入屋だが、その夜は下にも置かないもてなしで四人は安心したのか急に疲れが出て熟睡した。

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3 美唄炭鉱道路工事

 3-1 恐怖の半ダコ部屋

仁野の春さんは四人を引き取り「もう暮れも迫っているので売れ口がない。あまり勧めたくないが美唄の現場だけ一ヶ所ある」。若さはありがたいもので、三日目あたりで体は回復した。出発する日に小林が逃亡し、三人で小林の借金までかぶることになった。

仁野の春さんはもぐりの周旋屋のため警察に前借金詐欺として訴えることができない。とにかく美唄に着くと、組長は藤原新造、部屋は町外れのガード下の一軒家、元雑貨屋店か何かの跡らしいが、どう見てもこの中に25人も土工がいるとは思われない。

ここが恐ろしい半ダコ部屋などとは町内の人も警察もわかるはずがない。まさにカモフラジューで灯台下暗しである。朝は暗いうちに出勤し、夜は7時頃真っ暗になって入舎。特に規律が厳しく、生き地獄の監獄部屋だった。

仕事は美唄炭鉱の下請け。山を切り崩し、沢を埋め立てて道を着ける。木を倒して橋を架ける。その日の割り当て仕事はどんなに遅くなってもやりとげる。26時間ぶっと通しで休みないなしでやったときは自分の体でないような気がした。

4人ほど倒れるとむしろの上に寝かされ、2時間もすると幹部が蹴飛ばしてたたき起こしまた働かせる。大小便をするのも許可を受けなければいけない。ぐずぐずしていると幹部の怒号が飛んでくる。大便もスコップを盾にして傍らで済ませる。

スコップで土砂をはね上げるのに、自分で「いっちに」と号令をかける。大工工事をする男がわざと左手の親指を切り落として病院へ運び込まれ入院中に逃亡した。現場からの帰りに暗がりに紛れて逃亡する者もいた。益々厳しくなり3~4人がヤキを入れられる。

雪が積もると現場までは除雪作業で、2~30cmの積雪を1時間半ほどかけて蹴破って行く。雪はどんどん積もるが手袋は当たらない。少しでも手を休めると持っているもので滅多打ちされる。昼休みの他に休みはない。その日その日の食料は買いつないでいく。

あるとき、美唄駅でうろついていた2人の男をつれてきた。ところがタコ同様にこき使われるので暇願いを出した。幹部の一人でチョウセン政と呼ばれる男が、話しを終わりまで聞かずに脇にあったスコップで、いきなりところかまわず殴りつけた。

「誰も立つな。起った野郎はこの通りにしてやる。いいか、貴様たちもよく見ておけよ。ヤキというのはこういうように入れるのだ」。25人がいても神経が縮じまって誰も立ち上がらない。その時、玄関の戸が開いて2人の男が飛び込んできた。

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 3-2 ヤキが入り体がもたない

「やめろ!こらっ、何を乱暴している。藤原、出てこい」。男たちの大喝一斉、それまでニヤニヤしていた幹部たちはあわてて奥へ逃げ込んだ。男たちは警察の者だと名乗ると、チョウセン政を捕まえ手首に縄をかけた。「藤原、お前も本署へ行くぞ、支度をすれ」。

残った幹部が後を引き継ぎ「今か俺が担当する。幹部の一人や二人しょっ引かれても、あとから何人でも応援が来るからなめたら容赦しないぞ」。あの日は警察官の送別会の帰り道でたまたま通り合わせたということだった。

藤原は7日で出てきたがチョウセン政の姿はいつの間にか消え、あの2人もどうなったか分からない。後で調査に来ると云った警察官は一度も来ず、警察と業者とに何か割り切れないものを感じたそうだ。

人に負けまいと頑張っていたものの、この調子では体が参ってしまう。それと仁野の春さんに信用部屋とだまされたこと、現場も舎内も無警察同然なことがいつも頭から離れない。12月のある大雪の日に除雪作業で、幹部に指示された

「高田、誰か一人を連れて作業の先へ先へと行け。余った道具を持ってだぞ」。チャンスだ。「はい」と答えて「齋藤さん一緒に先へ行こう」。もっこに道具を入れて皆なより先へ行くのだが、逃亡するのだと思うと足元がガタガタする。齋藤さんはなにも知らない

三度目のカーブの下を見ると20Mほどの高さ、下は炭鉱の道路で長屋が見える。「斉藤さん行くぞ、もっこを投げろ」。齋藤さんはびっくりして一瞬立ちすくみ、玉吉は「斉藤さん」と叫びながら傾斜した雪の中に飛び込んでいた。齋藤さんも後を追った

大通りに出て齋藤さんと手を取り合うようにして下へ下へと走った。藤原の姿が目に入り、とっさに長屋の便所に飛び込んだ。やり過ごしてから一気に岩見沢方面へ向かい、夕方に岩見沢に入ったがさすがに腹ペコだった。前田は離れていたので連絡できなかった。

お焼き屋の前に来たとき玉吉は首に巻いていた唐草模様の風呂敷を出して、これとお焼きと交換してくれと頼んだ。おばさんは美唄から来たと聞いて「よくタコ部屋から逃げられたね。ふろしきはいらない」からと、売れ残りの20個を風呂敷にくるんでくれた

お礼を言って、また線路伝いに二人は札幌方面に向かって歩き始めた。斉藤さんは小樽へ向かい、玉吉はお焼き屋のおばさんに教えられた石崎さんという奇特な人がルンペンを無料で止めてくれるという、苗穂駅前の通りの奥にある施設へ向かった

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 3-3 地獄で仏に出会う

苗穂駅前の通りの奥にある施設を尋ねると、大広間に200人ぐらいが共同生活をしている。玄関の事務所で警官が簡単な取り調べを済ませ、生田総管理者の面接を受けてから生島班長に渡された。班は20人1組である。朝食はみそがゆを丼一杯だけ。

日中は電車か客車の中で過ごし、夕方になると板の間にゴザを敷いた大広間にみんなでゴロ寝。一番閉口したのはノミとシラミの襲撃で、風呂などはない。洗濯はしようと思えば立派な流し場があった。運動するのはいいが、空腹でめまいがした。

玉吉は着ているものを洗濯し、合間を見て便所掃除をした。収容者の中には大学出や元役人、倒産した商店主にサラリーマン、土方の親方や土工夫など様々だった。200人もいるので喧嘩あり泥棒ありで事件が絶えず、本署から毎日交代で警官が詰めていた。

12月の中頃に詰所へ呼ばれて、生田総管理者に「山鼻の奇特な人が働きたくとも職がない真面目な人を探している。行く気はないか。よければ2時に班長を通して事務所へ来い」といわれお礼を申し上げた

午後2時に事務所へ行くと、石塚さん、生田さん、班長に立ち合いの警官3人が待っていた。人選されたのは玉吉と中山、そしてもう一人。石塚に「もしお前に好きな商売をさせてやるという人がいたら、何をやりたい」と質問され「魚屋」と答えた。

「そうか、よほどつらい目に遭ってきたらしいな」。中山は真面目な仕事であれば何でもいいと答えたが、もう一人は「わしは親代々の土木屋でその他は何もできません。失敗はしましたが、またチャンスが来ると思っています」と辞退した。

班長に、頭を丸刈りにすることと持ち物をもって貸借のないようにきちんとしておくことなどの指示を受けた。翌朝8時に迎えの警官に連れられ、苗穂から電車で中央警察署へ行き、立派な一室で警部補と思われる警官と呉服屋の旦那風の人に会わされた

「この方が山本さんと言って、君たちのお世話をして下さる方だ。大勢の中から君たち2人が選ばれたのだ、まじめにお店のために働いてくれよ」。警部補の言葉を聞きながら、まるで夢でも見ているような気持だった。「私から特に頼みたいのは金の事だ。小遣いが

少ないとか、待遇が悪いとか文句をこねたり酒を飲んだりしないようにしてもらいたい。頑張って自分の家の一軒くらい持って、山鼻になくてはならない人たちになってもらいたい」と警部補に励まされた。

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 3-4 気のゆるみで夢は消え

バスに乗り南12条西11丁目の山本さん宅は「のとや」という屋号の呉服を扱っている店である。奥さんに挨拶し、番頭さんと女中さん1人にそれぞれ挨拶して、その夜は初めて畳の上に寝かせてもらった。翌朝7時に起き、除雪作業や家の周りの掃除をした。

「旦那、私たちにも何か仕事をさせて下さい」と頼んだ3日後、「あんたたちに土蔵を一棟あげよう」という。12坪ほどの古い土蔵だがまだまだ使える。土台上げをするから大工を頼みなさいと云ったが、私たちでやりますと答えると20円を渡した。

当時の大金である。材木屋へ行き、入用なだけリヤカーへ積んで戻り家ができた。青畳が入り、ストーブも取り付け、ガラス窓が二ヶ所で郵便局の窓口という出来栄え。旦那に頼んで屋根の上に「よろず便利屋」の看板も上げてもらった。

近所の警察医が名付け親となり「善行社」という名前でチラシを町内へ配った。大工、左官、土工、ストーブ取り付け、煙突掃除、便所掃除、よろず便利配達を賜ります。年寄と病人の家庭には無料で奉仕いたします。善行社、後援:警察医石塚正雄・山本呉服店

煙突掃除は一軒5銭だったが、お客が来過ぎてとても2人では回り切れない。旦那が心配して施設から3人を引き取って5人となった。それでも忙しい。そのうち旅館から布団5組、寝巻、座布団、丹前が10人分と山ほど貰い、その日のかせぎは旦那へ納めた

31日の12時まで目の回るような繁盛だった。金も大分入り、この分なら春まで仕事が切れる心配はないと有頂天になったのが自惚れだった。元旦の午前3時、旦那が借りてくれたバスで札幌神社に10人がお参りし、神社で御幣も買ってもらった。

「今年はあんたの念願がかなう年だ、春までに5人の家を建ててあげよう。今日はゆっくり休み、2日から大売出しだから頼みますよ」と云われて気を許したのが間違いだった。酒を二升貰い、冷で飲んだのでたちまち酔いが回る。5人で2升は瞬く間になくなった

もう1本欲しい。成田が店へ貰いに行ったが中々帰ってこない。そのうち酔っぱらって点々に勝手なことを言い出した。その様子を女中が覗いていった。成田が戻ってきて「高田さん、旦那がすぐ来るようにと言っている」。玉吉も相当酔っていたが店に行った。

「高田それがお前の本性か。酒をくらって大トラになって、そのザマは何だ。とても家には置いておけない。全員解散だ!」と、とてつもない大声で旦那に怒鳴られた。奥さんも酒飲みは御免だから出て行ってくださいといい、玉吉がいくら謝っても聞き入れない。

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 3-5 一等木馬人夫になるも

年始にきた石塚警察医も謝っているのだからと取りなしてくれたが、旦那は頑として応じない。酒は禍の元で、とんでもないことになった。皆に話すと誰もグウの音も出ない。そこへやってきた旦那が「苗穂にもどすから荷物をまとめろ。いまハイヤーが来る。」

無料宿泊所の玄関前で、班長を通して生田さんや石垣さんにお詫びし、謹慎してお叱りを待っていた。お二人はまるで自分の弟が帰ってきたかのように慰めてくれ、班長も11班のみんなも「元旦から帰ってきて目出度いよ」と温かく迎えてくれた。

2月の初めころ、小樽から20人ほど貰いにきたと募られて応募し、善行社の仲間だった学者の森さんと薬剤師の伊藤君と一緒に汽車で小樽へ向かった。入船町の宮下に着くと荷役人らしい男が15~6人がいる。その中に玉吉をじっと見ている男がいた。

美唄の藤原組の大工で、自分の指を切り落として病院から逃げ出した小川である。「よお高田、珍しいところであったな。どうした。俺もつまらんことをして肩輪になった。親指がないので半分の仕事しか出来ない。今夜は焼酎を俺が買うから飲んでくれよ」。

翌日小樽を出航し、樺太の上敷香まで原木積取りである。船腹の小さい部屋にせんべい布団ですし詰め、夜昼なしの重労働で時々仲間同士が仕事のことで喧嘩がある。4月半ばに小樽の宮下へ戻り、朝風呂へ入ってくると二階に酒の用意ができている

親方の宮下さんが「初航海とは驚いたな、本部から船長賞が来るぞ。それにお前に一等木馬人夫の手帳が出たよ。俺も鼻が高い」とまるで自分のことのような喜びようだった。ほとんどが三等級で、一等級を取れるのはよほど立ち回りの機敏な人でないと難しい。

帳場さんから特別手当として金一封20円をもらい、一等木馬人夫になると労賃も2倍以上になる。金が入ると、飲兵衛には盆と正月だ。さっそく皆に飲んでもらいながら、夜の更けるのも忘れて次の航海の事などを話し合った。

玉吉はこの仕事が嫌いだった。キリッとしたことがなく、生活があまりにもだらしがない。規則部屋(警察からの指示を守り、仕事をきちんと進めるタコ部屋)が理想だったようだ。宮下の二階で休むうちに、玉吉はまたもや周旋屋の佐藤組の暖簾をくぐった。

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4 波乱万丈の半生

タコ部屋とは北海道に特徴的な監獄部屋と呼ばれた土工部屋を指す。北海道鉄道敷設法施行や拓殖計画により、北海道の土木工事とそれに伴う土工夫の確保は容易ではなく、間に周旋屋が介在して活動した結果、前借金で縛り付ける飯場=タコ部屋が生まれた。

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 4-1 朱鞠内の鉄道工事

1931年4月から10月迄玉吉は藤田組で朱鞠内の鉄道工事現場で働いた。4月17日に朱鞠内の作業小屋に着くと60人ほどの土工夫がいた。監理者は川崎金蔵、世話役はアラレの清、幹部はマムシの政ほか6人、夜番は主任幹部の肩書のある獰猛な男。

朱鞠内は雪が電柱の中ほどまであり初めは毎日が除雪作業だった。作業の量は札幌や小樽の自由労働者の5倍以上で雪解けと同時に山の中腹から土運搬である。急傾斜でカーブのきつい往復200mほどの距離を、1トン積みトロッコで40回という小回り作業だ。

あまり仕事がきついので3ヶ月で8キロも痩せ、ただただ死に物狂いの毎日だった。ある夜の事、夜番が「高田、奥で親父さんと姉御がお呼びだ」と起こされ、奥へ行くと川崎夫妻が待っていた。私を見た姉御が「やっぱり、加賀屋の高田の息子だよ」といった。

玉吉の母親が加賀谷という小料理屋で、入船町の長州屋という小料理屋は川崎の母親がやっていた。川崎金蔵は長男で小さいころは一緒に遊んだ仲だった。管理者が昔馴染みであったが、鬼のような指導員と人間扱いしない残酷なやり方になじめなかった

仕事は進んだがあまり酷使された人夫が暴動を起こし、その影響で多少部屋内外が改革された。幹部はどんどん変わり、雨天休みや月に2回の公休もどうにか取れるようになった。人夫同士もはなしができるようになり、5ヶ月ぶりで人間に戻った感じがした。

10月20日に全線が開通し、機関車の先に日の丸がX型にひらめき万歳の声。部落の人はもちろん、他の町村からも人が集まり黒山の見物だった。そん時に遠くから見ているのが玉吉たち土工夫だった。その夕食にささやかながら祝い酒がふるまわれた。

翌日帳場から上金と解雇手当、小樽迄の旅費と川崎から特別手当の金一封をもらった。振り分け荷物で隣の駅まで約8キロの道。市街地で一軒の茶屋へ入った。45~6歳の話付きの女将さんと焼き立てのアキアジに舌鼓を打っていると酒がはかどってきた

そんなときに慣れ慣れしく寄ってきたのが水商売の女3人だった。筋向いの小料理屋に土工夫の坂田さんと河野さんが来ているという。先輩にご挨拶をしなければならない。止めるのを振り切り小料理屋へ行くと2人は支払いができずに旭川の周旋屋を待っている。

前金で50円を差し出して夜通し飲み、玉吉も周旋屋を待つはめになった。筋向いの小料理屋に行くなと引き留めてくれた茶屋の女将さんが、くれぐれも体を大事にするんだよと悲しそうな顔をしていた。

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 4-2 周旋屋の大場組

坂田と河野の兄ィと一緒に大場組へ行くと、試験もっこを担がされる。2人で40貫だから、ただの力で担げるものではない。一つの型があって、担ぐ時の腰の入れ具合を見れば一人前の土工かすぐわかる。これにパスすると初心者の仲間に入れてもらえる。

旭川の大場組は土建業者だったが、現場で人夫を酷使するのが嫌で周旋屋に鞍替えしたという。何々組の親方、何々土建会社の社長という人でももとは募集人夫で、大場兵太郎の世話になった人は多く、「大場を知らない者は偽者だ」と言われていた。

大葉組の女将は「大場のかあさん」と皆から親しまれ、初めて来た若者を見て素人であればタコ部屋へ行かせなかった。前金は貸さず、信用部屋を斡旋した。病人は治るまで面倒をみ、質の悪いものは相手が部屋の親分でも容赦しないという侠客肌の姉御だった

12月の大吹雪に奥士別の溜池工事現場で、前の晩寝る前に枕代わりにしていた1枚しかないメリヤスシャツが見つからない。盗られたことがばれると始末が悪いからとヤキが入る。盗ったものが見つかれば両方とも徹底的にヤキが入る。半袖1枚は玉吉だけ。

玉吉の持ち場は山の中腹でもっこ担ぎ。吹雪はだんだんひどくなり、昼食の時は寒さで震え上がる。幹部は見て見ぬふりをし、寒さと疲れで誰も口をきくものはない。仕事に気合を入れて寒さを防ぎ、目は四方へ配ってシャツを探した。

私にハッピを投げてよこした人がいた。小山田の小天狗という人で、この人の事は今でも忘れないという。吹雪の中での仕事が終わり臥寝のときに大幹部に呼ばれ、「お前の奮闘が親父さんの目に留まった。模範的な仕事ぶり特にメリヤスシャツ上下をくだされた。

これからもみんなの模範になるように頑張れよ」。新しいメリヤスシャツを戴いてくすぐったかった。もらったメリヤスシャツを翌朝着たが、体がほてって着ていられない。現場は組の都合で期限前に解雇になり、解雇手当2円50銭をもらって旭川にでた。

玉吉は大場組で知り合った前本と市中の屋根の雪下ろしの御用聞きを始めた。石炭会社から大角スコップを二丁失敬して大場組からロープともっこを借り、屋根に雪が積もっている家を見つけ、一軒一軒訪問して雪下ろしの御用を聞いて回った。

昼食時には食事を出してくれる家もあり、たいていは一軒2円50銭の手間賃で大きな旅館や屋敷だった。おかげで安い宿を見つけ、ほかほかの暖かい飯にもありつけた。大場の姉御も「お前たちは感心だ。中士幌の開削工事が始まるまで辛抱すれよ」と励ました。

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 4-3 十勝中士幌の道路開削工事

中士幌原野の奥地は1m以上の雪で、寒波が強く零下20℃前後まで気温が下がり、あたりに人家は見当たらない。募集人夫30人ほどの小さな部屋で、山小屋のような飯場という感じだった。ストーブはなく、焚火でほとんどの人夫は目をやられた。

大山を切り崩して2人1組でトロッコに積み込み、200mほどある捨て場まで急傾斜を運ぶ作業である。土砂積み込み作業が手早い組を先頭にして、幹部から気合をかけられながら10数台のトロッコが死に物狂いの作業である。

ある日の夕食後、朝日親方が「この仕事もどうやら先が見えてきた。それで一日も早く完成させるために稼働時間を伸ばす。朝夕1時間ずつガンバッテもらう。目途がつき次第雇用期間もある者もない者も即座に解雇する」。

それから10日ほど過ぎた朝に九名の名前が呼ばれて即日解雇されたが、札苗駅で大場帳場から「札内の現場が遅れているので応援に行くのだ」といわれて驚いた。タコは売られる前に行き先の現場は決められており、その現場だけの雇用契約である

証書には現場名と期間が書かれ、組の勝手で別の現場へ転売されることはない。町の駐在所の立ち合いで解雇の手続きをしたが、札内行は分からないという。汽車に乗った玉吉は「俺は帯広の警察へ行き土工専務巡査に話を聞いてもらう」は大声をあげた。

帯広の警察署の大きな部屋の中に20名の警官がいた。玉吉が机の前に立つと土工専務からいきなりびんたが飛んできた。「貴様か、昼日中に団体を組んで逃走したのわ。証書には中士幌及びその他となっているではないか。それでも何か言うことがあるか」。

玉吉は「あるから来たのです」と大声で答えて、いきさつを説明した。「解雇されて中士幌駅へ来てから札内行きと言われ、騙されたと分ったが駐在所ではラチが明かないので本署までやってきた。解雇手当と5円ほどの上金はもらっています」。

「それは本当だな」「他の8人にも聞いてください」「よしわかった。朝日と大塚を呼んで調べる。ところで札内の現場も急いでいるのだ応援してやれないか」「相談はしますが私は絶対いきません」「よし、お前だけは別でいい」。まるで部屋の用心棒だ。

みんなのところへ戻って「どうせ帯広まで来たんだ、仲で一晩遊んで札内へ行くか」。話しがまとまると3~4人の組員が来た。「寒かったろう、さっそく旅館へ行こう」ということで旅館について町の銭湯へ行き、久しぶりで人間並みの気分になった。

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 4-4 タコが上がっているので

藤原組へ顔を出すと、「仲へでも行ってゆっくりくつろいでくれ。多少の足は組で見るから」と言われ、旅館から2台の車で登沢町の女郎屋へ向かった。佐藤ら5人は大正楼、玉吉ら4人は衣江楼に分かれ、二階に上がってそれぞれの相方の女郎さんと落ち着いた。

酒を二升持ち込んで肉とネギを買い込み、女郎たちにも食べてもらおうと大鍋を持ってきてもらい家庭料理が出来上がった。女たちは砂糖などの調味料は一通り用意している。明日の事など考える気もなく、男踊りも飛びだして天国の晩餐会が始まった

酔いが回ると「俺たちは札苗の現場に行くのは嫌だ。大塚と朝日の親方にだまされたと思うと腹が立つ。何とかしてくれ」「他の5人に悪いが、俺たちは俺たちだ。組から呼び出しがあってもて店から出るなよ」。玉吉は自分だけが自由になるのは卑怯だと思った

それぞれが自分の部屋へ引き取って1時間後に部屋を見回ると異常はない。玉吉の部屋は一番広く調度品もある。玉吉の相方は米八というこの店の御職女郎だった。階下の方で11時頃にお客が2~3人上ったようで、相方の女郎が降りて行き挨拶をしている。

その言葉の中に「お兄さんすみませんが、今、タコが上がっているので下の部屋で我慢して」という言葉がはっきり聞こえた。酒に弱い女のようで、酔っていたのでつい土工をタコと言ったのだろうが、素知らぬふりをして手を叩き女を呼び戻した。

側へきた女にいきなり往復ビンタをくらわした。「土工は土工だ、タコとはなんだ」。突然暴れ出した客に女は仰天して転がるように逃げ足を滑らして階段から転げ落ちていった。「番頭を呼べッ」。声に寝ていた3人も飛び出してきた。番頭が駆けあがってきた。

いくらお客さんだからといっても、相手は女子ですよ。階段から突き落とすなぞとんでもない。怪我でもさせたらどうなるか、わかっているんでしょう。藤原組に連絡して話をつけてもらいます」。30前後の番頭はがたがた震えながらくってかかった。

「番ちゃんよ、お前さん一人で勝手なことをしゃべっているが、事の成り行きを調べてきたのか。男が女郎屋へ来るのは当たり前だ。そのお客に差別があるのか。商人は商人、大工は大工、みんな同じだろう。土工は土工だ。その土工をタコとは何んだ

タコが二階に上がっているからどうのこうのとあの女はしゃべっていたな。それでビンタを2つ3つとったのだ。部屋の壊れ物やその辺に散らかっている物は、自分がつまずいて倒したんだよ。階段から落ちたのも自分で足を滑らせて落ちたのさ」。

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 4-5 組の若い者になんか

話をしているうちに他の3人が部屋の中を片付けてくれた。番頭もどうやら事情が分かりすっかり態度が変わった。「そうでしたか面目もありません。どうか許してやってください」。下へ降りて女を連れてきた。女は玉吉の前に座らされて手をついて謝った

番頭だと思っていた人はこの店の若旦那だった。「お客さん、この子は田舎での百姓の娘で世間の事は何も知らない子なんです。どうか勘弁してやってください。お詫びにみなさんで飲みなおしてください」。女郎は涙を浮かべてじっと下を向いている

「その話はよそう。皆が土方を見るとタコというので、土方をタコと呼ぶのが当たり前と思っていたのだろう。無理もない。わかった。俺も別なことを考えていて気が立っていたのだ。つい乱暴してすまなかった」。女は玉吉のそばを離れずいつまでも座っている。

「一人で飲んで寝るから、下の客のところへ行けよ。明日は早いから行ってお前の務めを済ませてこい」と云ってもじっとして動かない。よくみると女郎の左手首がはれているようだ。「どうだ、痛むか。水で冷やせよ、大したことはない、すぐ直るよ」

酔いがまわってきたので眠ってしまった。6時頃に目覚めると女はそばでて寝ていた。気配に気づいて起き上がると手首を水で冷やしている。「まだ痛むか」と聞くと「私は田舎者で何もわからない女ですが、初めて男の人の気持ちがわかったようです

小父さんもずいぶん苦労された人ですね。男なんてみんないやらしいケダモノばかりと思っていました」といいながら泣いているようだった。4人の朝食を頼み、大正楼からの電話に「もし遅れたら先に行ってくれ」と返事をして切った。

衣江楼の前にタクシーが1台止まっている。決して車に乗るなよと云ったが、うまくまるめられたようで気が付くといつのまにか2人の姿が見えない。中村は「ちきしょう、やりやがったな」といきり立っている。玉吉も煮えくり返るほど腹が立ってきた。

「中村、二階から下りるなよ。用心棒が何人来ようとこうなったら意地だ、見ておれ」。女郎の米八は青い顔をしてぶるぶる震えながら、「お客さん、屋根伝いに梯子があるからそこから逃げてください」と、二人を必死で逃がそうとした

組の者が4人きて「高田を出せ」と怒鳴っている。「藤原のデクノボウ達、我と思う奴がいたら二階へ上がってこい。てめえたちも命を張っているんだろう、俺もどうでもいいんだ。束になって上がってこい」。米八は「早く逃げてください」と繰り返している

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 4-6 御職女郎の米八

「馬鹿野郎、俺の気持ちが女・子どもに分かるか。巻き添えを食ったらとんだことになるから、別な部屋へ行ってろ」としかりつけ、階段の上で浴衣一枚になり、幡随院長兵衛のようにふんばった。一歩でも階段に足をかけたら滅多打ちにしてやろう。

銚子を5~6本懐に入れて立ち向かう姿勢でいた。中村もきかない男で「腰抜けども、町のチンピラに何ができる」と大タンカを切ってる。そのうち人の気配がなくなり、米八に飯を頼むと「遊郭ではまだ早いから私が隠れて町まで行って買ってきます」。

半里もある町まで、足が速いから30分くらいで戻り、酒も買ってくるという。「俺たちにそんな金は持っていない。もう引き上げるから」と云っても米八はそれに答えず、モンペを履いてタオルで頬かむりをしてそそくさと出て行った。

中村の女郎さんも何かと世話を焼いてくれたが、若旦那はよほど答えたと見えて一度も二階へ上がっては来ない。それで助かった。女郎が勝手に外を出歩くなどできない規則である。40分後に肩で息をしながら戻ると、酒一升に魚と麺類などを買ってきた

このころ朝食ができて取りに来るようんとお婆ちゃんが知らせに来た。米八のはなしでは、近所に組員の姿等は見えなかったそうで、彼等もあきらめて引き上げたようだ。女郎屋も商売で、騒ぎが治まれ金の当てのない男二人をいつまでも置くわけにはいかない。

米八は私たちが持つから今晩の心配はしなくてもいい。募集人夫だけはやめてくれ、信用部屋もあることだからと心配してくれるが、酒が入ると気が大きくなる。「お前さんたちに負担をかけてのほほんとしていられるか。今夜はゆっくり遊ばせてもらうよ。」

中村と酒宴になりて飲んでいるうちに酔いつぶれてしまった。暗くなって目が覚めると米八が電気を付けてお茶を入れてくれた。帯広の「花の屋」にあたってみると仕事があるという。話が決まって藤原組へつれていかれた加藤と小林も合流した。

米八は22~3歳のおとなしい女だった。家を支えるために女郎になったそうで、毎月少しずつ送金しているのだと中村の相方が話していた。朝になると、米八は先に起きて酒の燗をつけていた。出かける時間になると、米八はそっと小さな包みを玉吉に渡した

包みの中にタオルと石鹸などの日用品が入っている。花の屋からの金は宿代や飲み代でチョンチョンになり、米八にだけ3円50銭の小遣いをやれた。花の屋から発つ時に「体を大切にしてまた来てください」と米八から電話があったが二度と会うことはなかった。

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 4-7 帯広の千代田堰堤工事

4人は札苗へ行かず帯広の周旋屋「花の屋」の世話で、十勝川の堰堤工事は帯広土木現業所の直轄工事、前金15円ではなしがまとまった。仲で一晩遊んでから花の屋へ向かう途中で、中村が市場へ飛び込んであっと言う間に姿を消した。

花の屋の親父は仕方がないと言ったが、あいつの前借金分は俺たち3人が被ることにした。3人が現場に着くともっこに切り込み砂利を約40貫詰め、それを担いで20mほどを20往復する試験もっこに合格した

千代田堰堤締め切りの仮設工事は進み、両側に土俵を重ねて丸太を3段に8番線で締め付けて縦に矢板を打ち込んだ。水が外に漏れないよう、土俵がぐらつかないようにする。だめな仕事をしようものならどやされる。

締め切りが終わるといよいよ通水式だ。本流の水が、恐ろしい勢いで土俵内に呑み込まれてくる。土俵が不気味な音を立てて引き締まっていく。1~2時間で次第に治まっていつもと同じ流れになり、人工河川ができた。

翌日から掘削工事が始まり、大工と鉄筋屋の舞台となった。大工の型枠据え付けが終わり次第、コンクリートミキサー車の活動始まる。片側の堰堤が完成すると、同じように反対側を締め切っていく。7月末に三脚にする丸太を伐り出す作業に出た。

相棒の神田と丸太伐りをしていると他の人たちと相当離れてしまった。神田が逃亡すると言い出しとめても無駄だった。玉吉が逃がした思われるのでしかたがない。2人は帯広へ向かって歩き始めた。玉吉の行き先は旭川、神田の行き先は釧路である。

帯広から線路伝いに旭川まで3日間、足に任せて無銭旅行だった。新得を過ぎると後ろから来たトラックに載せてもらい東鹿越で降り、歩いていると日が暮れて農家に泊めてもらった。翌朝秋まで働かないかと誘われ断ると朝食抜きで追い出された。

上富良野まで歩いて保線区の無人小屋に泊り、翌朝魚釣りをしていると高田という人にあれこれ尋ねられ家へ誘われ朝食をご馳走になった。そのうえ、握り飯を9個にそぼろとつけものをどっさりくれて、タバコの朝日5箱とお金を5円も添えてくれた

玉吉はお礼を申し上げながらありがたくて涙がこぼれれ、その風呂敷は肌身離さずお守りにしていた。12年ぶりに武田さんとさんと下川駅の待合室で再開した。まったくの偶然だったが、武田さんは玉吉の顔を覚えてはいなかった

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 4-8 玉吉の仕事歴

その後も玉吉は、様々な周旋屋から工事現場へタコとして売られ続けた。実録土工・玉吉タコ部屋半生記より、玉吉が重視した工事現場などを表にした。

期間工事現場現場管理周旋屋行動
自1930.10茨戸の川底掘り下げ河合組佐藤組逃亡
自1930.11美唄炭鉱道路工事藤原組西野組逃亡
自1930.12
至1930.12
苗穂の無料宿泊所生田・石塚石崎作市ルンペン暮らし
自1930.12
至1930.01
(山鼻のとや呉服店)土蔵改装のとや呉服店善行社運営
自1930.01
至1931.01
苗穂の無料宿泊所生田・石塚石崎作市ルンペン暮らし
自1931.02
至1931.10
材木積取船作業員稲穂町宮下生田一等級木場人夫
自1931.12
至1931.12
奥士別溜池工事寺尾組大場組
自1931.04
至1931.10
朱鞠内鉄道工事寺尾組大場組
自1932.04
至1932.07
十勝千代田堰堤工事土木現業所花の屋付き合い逃亡
自1932.01
至1932.04
十勝中士幌道路開削吉林組花の屋
自1932.07
至1933.09
旭川プール根掘作業鶴間組上居
自1932.10
至1934.04
永山橋脚復旧工事鶴間組鶴間
自1932.05
至1933.06
狩勝土砂崩れ復旧工事鶴間組鶴間
自1933.07
至1933.12
十勝上士幌鉄道工事鶴間組鶴間
自1933.12
至1934.05
十勝中士幌土地改良現場寺尾組子持ち酌婦
自1934.05
至1934.06
帯広高嶋水門工事宮坂組梅の屋の女郎
自1934.06
至1935.01
十勝大樹村日方川橋梁工事益子組
自1935.01
至1935.05
札苗バラス採取菊屋組花の屋
自1935.05
至1936.02
士別生製糖会社鉄道引込線鶴間組花の屋
自1936.03
至1937.09
上士別鉄道工事丹野組上居
自1936.10
至1937.03
赤平鉄道工事中村組花の屋
自1937.03
至1937.08
東神楽の河川工事鶴間組大場組逃亡
自1937.08
至1937.01
中佐呂間塚田組政屋
自1937.12
至1937.06
美幌飛行場地崎組
自1939.12
至1940.04
新歌志内炭鉱郊外作業成島組大場組逃亡
自1940.04
至1940.10
鴻舞金山のダム工事地崎組大場組
自1941.06
至1941.12
雨竜発電所ダム建設酒井組大場組
自1941.12
至1942.06
築別炭鉱山口組大場組
自1942.07
至1942.06
小樽・帯広渡辺組居候
自1942.07
至1942.12
計根別飛行場建設工事中井組吉村組
自1942.12
至1943.01
上川江卸水力発電所工事荒井組吉村組
自1943.01
至1944.02
大沢野松前線鉄道荒井組吉村組
自1944.03
至1944.06
落部鉄道工事荒井組吉村組
自1970
背腰の負傷で奥さんの看護を受けながら闘病生活を送っている。

戦争経済下の北海道第二期拓殖事業を支えた土台は、2万人を数えたタコ人夫たちだったと言っても過言ではない。1946年に札幌市真駒内の進駐軍土木工事現場でタコ部屋が見つかったのを機に解散させられたタコ部屋は289、土工夫13,663人という

全道一斉手入れによってタコ部屋制度は終わった。「行く先我が家で女郎が妻」玉吉がタコ部屋について語りながら、よく口にする言葉である。リックひとつが財産の「行く先我が家」家業から足を洗った玉吉は、まもなく結婚した。

土木下請けや役所の工手などをしたあと、札幌にできた建設工事現場で働いたが、鳶が誤って落とした足場丸太をを背中に受けて骨折したり、車の誘導員として排気ガスを吸い込んだりの無理がたたり健康を害して入院した

入院中に頼みの綱の組から解雇され、健康保険資格も取り上げられてしまい生活保護を受けながらの入院生活が続いた。1972年当時、妻ユキの看護をうけながら闘病生活を続けている

「実録 土工・玉吉 タコ部屋半生記」は1974年3月に第一刷が発行された。その後も再販され、書店をはじめ古書店やインターネットで購入可能である。ぜひ入手され、高田玉吉の波乱万丈の生涯を味わっていただきた。

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謝辞:文中に掲載しました写真は「実録 土工・玉吉 タコ部屋半生記」より転載しました。ありがとうございます。

参考文献:実録 土工・玉吉 タコ部屋半生記(高田玉吉、古川善盛編、太平出版社)ほか。