はげちゃんの世界

人々の役に立とうと夢をいだき、夢を追いかけてきた日々

第14章 アサヒビールの挑戦

昭和55年頃は、大阪の居酒屋で「タイガースとアサビールは大阪の恥や」とまで言われていた。昭和60年に21年ぶりの優勝で阪神のカブは上がったがアサヒビールのシェアは10%を割り込み、サントリーに抜かれて最下位転落は時間の問題になっていた。

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1 赤い波から昇る朝日

 1-1 群雄割拠から

明治22年に朝日ビールの前身である「大阪麦酒会社」が設立された。明治39年に入ると札幌麦酒、大阪麦酒、日本麦酒の三社が合併し大日本麦酒が誕生した。明治40年にゼ・ジャパン・ブルワリー社の事業を引き継いで麒麟麦酒株式会社が発足した。

昭和24年に過度経済力集中排除法により大日本麦酒株式会社は二分割されて、日本麦酒と朝日麦酒となった。日本麦酒は「サッポロビール」と「ヱビスビール」の商標を継承し、朝日麦酒は「朝日ビール」と「ユニオンビール」の商標を継承した

この分割の結果、日本麦酒は東京を中心とする東日本にマーケットを展開し、朝日麦酒は大阪を中心とする西日本でマーケットを展開して、1954年から1960年まで日本のビール市場占有率で2位を維持していた。

分割時でのシェアは、日本麦酒が38.7%、朝日ビールは36.1%で、独自路線の麒麟ビールは25.3%だった。サッポロビールは北海道・東日本地区、ヱビスビールは東京、朝日ビールは西日本、ユニオンビールは名古屋と各ブランドは強い地域があった。

サッポロは北海道と東日本地区、エビスは東京地区、ユニオンは名古屋地区、朝日は大阪を中心とした西日本地域で強さを発揮しても、その地域以外ではまるで知名度はなかった。サッポロは西日本でまるで知名度がなく、朝日は東日本で全く知られていなかった

サッポロと朝日が分割で引き継いだ工場は、東日本と西日本に偏っていた。ビールがまだ高級品であった戦前は、料飲店などの業務用が需要の大半だった。戦後になると、一般家庭にもビールが普及したが、この需要の変化にサッポロと朝日は気付くのが遅れた。

サッポロと朝日のライバル意識は互いに足の引っ張り合い、ドロ試合を重ねている間に漁夫の利を得たのが麒麟ビールで、業務用に弱い麒麟は需要の変化を先取りする形で家庭用の開拓に全力投球し、我に返ったときにはトンビにアブラゲをさらわれた状態だった

昭和38年に寿屋がビール市場へサントリービールで参入し、社名も「寿屋」から「サントリー株式会社」へ名称を変更した。昭和39年に日本麦酒株式会社は社名をサッポロビール株式会社に変更した。

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 1-2 朝日の偉業

明治25年に「朝日ビール」の銘柄で発売したときのラベルはその後も長い間親しまれ続ける「波」に「朝日」のマークで、このマークには朝日ビールの創業の精神がこめられていた。

「日本(日いずる国・朝日)人の手で作った純国産ビールを(波に乗せるように)世界へ」という意味のようで、世界に通用するビール製造が目標だった。

万国博覧会などで最優秀賞をとり、努力の成果はめざましいものがあった。昭和26年11月に、日本で初めての果汁入り清涼飲料水のバヤリースオレンジを発売し、昭和33年9月に日本初の缶ビール「缶入り朝日」を発売した。

昭和39年3月には1口ビン生「朝日スタイニー」を発売、昭和43年6月に日付入り生ビール「朝日本生」を発売し、昭和44年6月に日本初のビール券を発売した。また、昭和46年6月に、日本初のアルミ缶入り生ビール「ミニ樽7」を発売した。

昭和54年にはミニ樽ブームに先鞭をつけた「ミニ樽3」を発売するなど朝日が必死で業界に先駆けようとしてきた姿勢がうかがえる。悲しいことにこのような努力も、ビールのシェア回復に歯止めをかけることができなかった。

メインバンクの住友銀行は朝日ビールの窮状を憂い、生え抜きの社員が育つまでとの条件で高橋吉隆副頭取を送り込んだ。高橋は元日本麦酒の社長の息子だったので社員の反発は少ないと思われたが、5年後の退任時にはシェアが13.5%まで落ちていた。

四代目の延命社長時代にビールのシェアが10%まで落ち込み、京都の医療法人に株を買い占められる事件が起きて旭化成と住友グループの協力で乗っ取りだけは防げたが、社内の動揺と朝日のイメージダウンは避けられなかった。

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 1-3 進路を定めよ

延命社長は病に倒れ、住友銀行は村井勉副頭取を顧問として送り込んだ。村井はなんの先入観も持たずにフラりと会社に現れては手当たり次第に社員を酒に誘った。一人ひとりの社員が何を考えているか本音を引き出し、そこから次にどんな手を打つか考えたのだ。

昭和34年の分割以来、朝日は1度も赤字決算をしたことがなかった。このため朝日の社内は屈折した空気が流れていた。「このままではいかん」という急進派、「下手に動かないほうが」という穏健派、「潰れるわけはないから」という無気力派が混在していた。

昭和57年3月に五代目社長に就任した村井は経営理念の策定を命じた。村井が強い共鳴を受けた「ジョンソンエンドジョンソン」の経理理論は、「顧客に対する責任」「従業員に対する責任」「地域社会に対する責任」「株主に対する責任」の四ヶ条だった。

全世界に140の子会社を持つ国籍企業で、国が違い風俗習慣が違い、言葉も違う子会社の社員が一つの目標に向かって生き生きと挑戦できるのは、その経営目標や会社の責務が具体的に明示され、社員の共感を得る優れた理念として表明されていたからだった。

村井の指示で経営理念の策定を受けた部長会構成員は、朝日の苦難の歴史を肌で感じてきた世代だった。議論百出で経営理念の走行ができるまでに4ヶ月、差し戻されること3度で、昭和57年7月に朝日ビールの憲法というべき経営理念が決定した。

経営理念は、全体を通して「わが社は、酒類、飲料、食品、薬品などの事業を通して国の内外を問わず、すべての人々の健康で豊かな性格文化の工場に役立ち、社会に貢献し、社会の信頼を得て発展する企業を目指す」という目標である

具体的に「消費者志向、品質志向、人間性尊重、労使協調、共存虚栄、社会的責任」の六項目を分かりやすい言葉で銘記し、理念だけが先走らないように社員たちの行動を規定する10項目からなる「行動規範」を設けた。

ソフトの部分が決まると次はハード部分である。「ビール対非ビール部門の構成比率を50対50にする。売上高を5年後に3千億円にする」目標を掲げた。この時点でのビール対非ビール部門の構成比率は65対35で、売上高は2千4百億円だった。

朝日の社内では、製造部門と営業部門の間に深い溝ができ、お互いが責任をなすり合っていた。管理職全員の合宿研修で共通のテーマで議論させ、みんなが同じ屋根の下で飯を食い、酒を飲み、風呂に入る日がたつうちに、次第にわだかまりが解消していった

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2 朝日はまた昇る

 2-1 錨を上げろ

コーポレート・アイデンティティは、企業文化を構築して特性や独自性を統一されたイメージやデザイン、またわかりやすいメッセージで発信し、社会と共有することで存在価値を高めていく企業戦略を指しCIと略称で呼ばれる。

昭和59年2月の経営会議で村井社長は各役員の意見を押さえてCIの導入を決断し、3月にCI導入実務委員会が発足した。CIの考え方を社内に啓蒙する、ブランド商品の特性を見直し統一性を計る、新しいマークのデザインを考える3グループが決まった

CIの考え方を社内に啓蒙するグループは各事業所を訪れて管理職にCI導入の説明をし、現場の管理職から吸い上げた問題点などを盛り込んで、全社員を対象としたアンケート調査を実施した。

現在最優先で解決しなければならない課題はの問いかけに、企業イメージの向上・経営管理職の意識改革・消費者ニーズへの対応強化・ブランドイメージの確立・販売担当者の質的強化・営業戦略の確立に対する回答が多かった。

改善しなければならない課題がわかっても、行動するには何から始めるべきか、どう解決すべきは分からなかったが、このアンケートで多くの社員が「このままではいかん」と考えていることがはっきりした

現在の朝日マークが社外でどのような評価を受けているか、専門家・一般消費者・社員等を対象に調査すると、統一シンボルの不在・イメージ伝達力の不足・デザインシステムの不備などが浮き彫りにされてきた。

様々な調査で、新製品ラッシュを既存のブランドで展開したり一部ブランド体型の乱れが指摘され、一般消費者調査で朝日ビールと各商品ブランドの結びつきが弱く、朝日ビールの商品であるという認識という認知度が低いと言う実態が把握された。

企業文化の革新に燃えているのは村井社長と実務委員会のメンバー、とりわけ課長以下の若手社員たちだったが、これまでの朝日では仮に素晴らしい企画やアイデアが出てきても実行段階でつぶれるケースが多かったのである。

朝日には行動意欲が実行になかなか結び付かないという企業体質があった。そうした場面を、古くから何度となく見てきていたる部長や役員クラスの大半は「ホンマにやるのかいな」と半信半疑だったようである。

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 2-2 大漁旗を掲げよ

現在のマークデザインの評価調査の結果で、一般消費者調査で朝日ビールと各商品ブランドの結びつきが弱く、朝日ビールの商品であるという認識という認知度が低いと言う実態が把握された事を受けて、社名とマークの検討が始まった。

現在の朝日マークは統一シンボルとして伝達力不足が指摘された。マークデザインをどうするかという議論にとどまらず、社名をどうするかという議論にまで発展した。会社が生まれ変わるには新しいマークが必要だ、とは入ってもと煮え切らない意見も出てきた。

社名は会社の事業実態を正確に表現するもので、朝日ビールは食品や薬品分野まで多角的に進出しているが、売り上げに占めるビールの構成比は7割近くで、ビールで生計を立てているといっても過言ではない状態だった。

朝日ビールという社名を変えれば消費者や販売者に伝わりにくさが起きる場合も考えられる。朝日ビールのマークを変えれば、関西地区で圧倒的に親しまれているので変えれば関西の顧客からそっぽを向かれる心配もあった。

社員アンケートの結果を踏まえて、CI導入実務委員会のグループ合同会議で、積極的推進派はぎりぎりの妥協案である「社名は変えずに新しいコーポレートブランドづくりを進める」という結論に合意した。

CI導入の論議が始まってから初めて「目に見える」ものが出てきた。理屈では解決できない「デザイン選定」という感覚的な決断を迫られ、「もし、選定を誤れば…」と経営陣はとまどい、悩み、苦しんだ。

新しい時代への朝日の対応、新しい朝日の心づくり、新しい朝日の体質づくりがグループごとに検討され、新しい朝日のイメージづくりが求められた。社名をアサヒにしてマークを変えるが、若手の圧倒的な支持を得て6対4の比率で上回った

昭和60年2月、4人のデザイナーによるプレゼンテーションの結果、最終的に日本デザイナーセンター社長の永井一正氏の作品が選ばれた。

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3 羅針盤を見よ

 3-1 消費者の味覚は

経営理論に制定された「消費者ニーズに沿った商品づくりに徹する」といテーゼにそって、昭和58年頃から新ビール開発へ向けての試験醸造が始まっていた。59年秋頃から5千人の消費者を対象とした大掛かりな嗜好・味覚調査が行われた

昭和60年に入って、CI委員会の中でもビールの味を見直すべきとの意見が出てきた。ビールの味を見直すためのプロジェクトチームが設置され、食品部長・生産本部長・マーケテイング部長・広報部長などがメンバーに選ばれた。

村井社長になってから朝日ビールのシェアは昭和57年に9.93%と創業以来初めて二桁を割り込み、翌58年に10%代に回復したが、59年には9.93%、60年9.62%とじり貧状態が続いていた。

一連のCI導入活動を眺めながら何か物足りなさを感じていた大阪支店次長の松井康雄が昭和60年8月にマーケテイング副部長に就任すると、このころから味の問題がにわかに加速された。

松井は営業政策の観点からCI計画に大きな渦を巻き起こした。「CIで会社を変身させようとするなら、この際、味も変えなきゃいかんのじゃないか」と言い出し、味の論議に一層の拍車をかけたことだった。

松井は研究所で新しいビール開発へ向けて試験醸造が行われていることも、マーケティング部の行った5千人の味覚調査のことも知っていた。そのうえで、CI委員会に波紋を投げかけたのだった。松井のマーケティング理論は明快だった

「朝日ビールのシェアが35年以上にわたって落ちてきたのは、一言とでいえばウチのビールに人気がないからだ。役員は『分割の後遺症で東日本に販売網を持てなかったからだ』とか、『サントリーに販売網を解したからだ』とか言うが、それは付帯的な理由だ。

本質的に人気がないから売れない。人気となにか。それは消費者の味覚に合っているかどうかだ。消費者は自分の味覚に合ってなければ、技術的にどんなに粋を凝らしたものでもマズイという。残念ながら朝日は消費者の味覚に合ったビールを作ってこなかった。」

松井の発言は単純明快だったが、自分たちは技術的にも品質的にも第一級のビールを作っているとの自負を持つ生産・開発部門の人たちにはカチンとくる発言である。ケンカ腰のマーケティング論争がCI委員会内で何度も繰り返された。

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 3-2 消費者は何を求める

マーケティング部の行った、5千人の嗜好・味覚調査の目的は驚くような理由だった。「お客さんというのは、ビールの味が分からないものだと思い込んでいたが、実際はそうじゃないのではないか

たとえ銘柄は飲み分けられなくても、うまいとかまずいとは分かるはずだ。現在の消費者がどんなビールを求めているのか、消費者にとってうまいビールとはどういうものかを調査してみよう」。この調査が新しいアサヒビールを生み出すきっかけとなった

他社のビールを混ぜて、ラベルを付けたり剥がしたりして実際に飲んでもらう対面調査で、若い世代を中心に大半の消費者が苦みだけでなく、味わいのコクとのど越しのキレを求めている事実だった。

この調査に携わった朝日の社員は意外な発見をした。キリンに代表される苦みの強い重い味のビールがうまさの規準だと思っていたが、必ずしもそうではなかった。「コクとキレを併せ持ったビールをつくれば絶対に売れる」と確信するに至った。

マーケティング部の提案は、研究・開発部はビール開発のコンセプトを根底から覆すものだった。部外の者が味に口を出すことはタブーとされていたが、研究・開発部はマーケティング部の提案をほぼ全面的に受け入れ新しいビールの開発をスタートさせた。

研究・開発部は理想のビールを造らなければ会社はダメになるとの危機感を持ち、営業部門はこの提案はお客様の声だと言う大義名分に支えられていた。しかし、コクとキレというのはビールをつくるうえで矛盾する概念だった

ビールは90%が水で4.5%がアルコール、0.5%が炭酸ガスで残り5%がエキス分である。エキス分が味を決める秘訣は原料の質と酵母の性質と働きに左右されるので、マーケティング部の注文にあった酵母を見つけ出さなければならない。

朝日ビールの研究所には「酵母バンク」があり、数百種類の酵母が保管されている。その中から選び出されたのが508号酵母である。酵母はおいしいビールができるか否かを決める極めて重要な役割を担っている。

コップ1杯のビールをつくるの約百億個の酵母が働くので、性質のちょっとした違いがビールの出来栄えを大きく左右してしまう。何度も試作品がつくられて営業部門の人たちが試飲し、様々な注文を付けながら改良という作業が続けられた

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 3-3 沈没の恐怖

酵母はビールの製造過程で発酵の主役となり、仕込み室でつくられた麦汁の糖分をアルコールと炭酸ガスに代え、同時にビールの味わいと風味の成分を生み出す。酵母の大きさは直径わずか5~10ミクロンという極めて性質がデリケートな微生物だ。

それぞれの設計品質に合わせて麦芽とホップなどの原料が選ばれ、独特の方法で仕込最後はの登場する主役が公募で、原料の持ち味を生かしてビールに「狙い通りの香りとコクを付け、キレを醸し出すのが酵母である。

コクとキレのあるビールの開発は営業塗門と割球開発部門が一体となって勧められたがそれを知っているのは村井社長と一握りの役員、部長クラスだけだった。あくまでも極秘のうちに作業は進められ、正式決定するまでは社内外に伏せておく必要があった

商品の中身を変えると言うことは大変なことだから社外秘というのは当然であり、敵を欺くためにはまず味方を欺かなければならない。妙な形で社内に漏れると社員や取引先の動揺を引き起こす。極秘で作業を進めていくことに一番気を使わなければならない。

その頃のマーケティング部では「いくら会社を変えようと言っても、単なるお化粧直しで会社は変わらない。具体的な変化事実を作り出さなければ。」「マークを変えるのもいい。しかし、それだけでは朝日の変身を消費者に伝えることにはならない。」

「朝日の場合、社会ともっと強力にコミュニケートできる媒体は商品だ。主力商品であるビールの味とラベルを変え、朝日の主張と心を消費者に知ってもらうべきではないか。」「いまこそ味とラベルを一新してマーケットの真ん中で勝負すべきだ。」

マーケティング部の意見にて、CI本部も「新しいビールを新しいラベルで」発売する方向へ傾いていった。しかし、CI本部がそう決めても、会社としての最終決定は常務以上で構成される最高意思決定機関である経営会議の決済を待たなければならない。

昭和60年9月21日土曜日、東京の朝日ビール本社12階会議室で常務以上の経営会議が開かれた。スケジュール的にギリギリのところまで来ている。前週の金曜日の経営会議で「味を変えること」について合意されたが、ラベルの変更は暗礁に乗り上げていた。

関西には古くからの朝日ファンがいる。彼らは今のままの朝日ビールの味とラベルでいいと言っている。もし、ここで味もラベルも変えてしまったら、こうした古くからの朝日ファンを失ってしまうのではないか。地元の支持層が消えることが恐怖だった。

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 3-4 船頭の決断

シェア10%の会社にとって30%近い関西地区は大切な市場である。逆に考えれば、強い関西地区でさえ30%そこそこのシェアしか持っていないということになる。味もラベルも変えないと言う現状維持でいいはずはなかった。

中條営業本部長が大声を上げた。「うちのマークは百年続いた歴史と伝統のあるマークだ。これを見れば誰だって朝日ビールだと言うことがすぐ分かる。そのマークを変えることは失敗したら立ち直れない。だから、みんなが慎重になることはわかる。

しかし、もう堂々巡りの議論をしていても仕方がないじゃないか」。村井社長はその発現を待っていたかのように「では、本部長はこのCIをやれというのか」と畳み込んだ。「ええ、現在のマークでは革新は不可能です。ラベルは変えるべきです。

新しいラベルについて消費者調査の結果も評判はいい。これで何とかいけるはずです」村井社長は次の言葉で会議を締めくくった。「たしかに味やラベルを変えることはみんな怖いだろう。しかし、この決断にはCIの成否、ひいては社運がかかっている

本社なり経営ボードがリーダーシップを発揮しなければ一歩も進まない。そのためにはやってみる価値を認めたならば、やり抜くんだという強い決意が必要である。それが経営というものだ。我々は経営者なのだから、いまこそ思い切ってやるべきである

ここまで追い込まれた以上は、背水の陣で全力を傾けてやると言う考えが必要でないのか。もし、失敗したらどうするのかという心配もあるだろう。その時は、会社を辞めてから謝ればいいじゃないか」。こうして経営会議において正式に決定された。

翌々日の支店長会議で村井社長は次のようなゲキを飛ばした。「古い組織には風化現象というのがある。それを打破するには組織の活性化が必要だ。そのためには新たな価値観が必要である。そう考えて我々は経営理念をつくった。

このままでは会社はあかんという危機感がみんなにあるだろう。しかし、まだ甘い。まだまだ君たちは眠っている。理論ばかりが先行して、手足が動いていない。ここまで追い込まれたら、かえって反攻のチャンスだ、と考えるべきである。

支店長はガタガタ理屈ばかり言わずに陣頭指揮をせよ。具体的に何をやっているのか、もっと機敏な対応が必要だ。組織の風通しがよくなければ、機敏な対応ができない。本社と支店が力を合わせれば必ずニューアサヒは復活する。私はそう確信している」。

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 3-5 新たなる出発

村井社長は来年の3月で68歳を迎える。社内の盛り上がりを感じた村井社長は就任してからの4年間を振り返り、味もラベルも変えるのだからこの際、若手の社長を迎えることを決意し、住友銀行で後輩の樋口廣太郎の姿を思い浮かべた。

気心は知れているし仕事はできる。俺が会長で樋口君が社長になれば会社はさらに発展するだろう。住友銀行の磯田頭取に樋口のもらい受けを頼むと、話はトントン拍子に進んで年内に村井会長と樋口社長の人事が内定した。

朝日ビールの仕事始めは1月6日だったが、樋口はその日から顧問として出社した。本来は3月の株主総会終了後に出社することになるが、それまでは待てないので指揮を執らせてくれと村井に顧問の肩書を付けてもらった。

樋口は経営会議にも出席し、社長としての発言もした。社内の事は樋口、対外的な仕事は村井と役割分担がはっきりし、二人の間に相当に強い信頼関係があるので二頭政治の心配は初めからなかった。

樋口は朝日ビールにくるまで「ビールの味を変える」ということをしらなかった。それを知らされた日から2日間、眠れぬ夜を過ごした。というのは、かってコカ・コーラがペプシ・コーラの攻勢に対抗して「味の変革宣言」を行い、味を変えたことがある

ところがそれが失敗し味を元へ戻した。コカ・コーラは失地回復に塗炭の苦しみを味わい、その窮状を樋口は目の当たりにしていた。樋口は、食品会社が味を変えることがどんなに危険なことか知っていたのである

すでに朝日ビールの方向は決まっていた。樋口は吹田工場の地下三階にある歴代社長ですら入ったことがない酵母の貯蔵室を訪れ、一日も早くうまいビールをつくってもらいたいと技術者を激励した。その数日後、樋口は感動的な光景を目にした。

新製品が2月中旬からの発売が決まり、技術部と営業部の部長以上がこれまでの慰労を兼ねてパーティを開き、樋口も招待された。会場へ入ると、今回の新ビール開発を通して技術屋と営業が心を割って話し合えたことがうれしいと男同士が抱き合って泣いていた

朝日ビールのCI導入がマスコミを通して世間に発表される前日の1月21日、対外発表に先立ち社内セレモニーが開かれた。各職場で新しい社章(バッジ)と名刺が配られたのち村井社長のメッセージが伝えられた。

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 3-6 帆を上げろ

「いままでは社内議論だったが、明日からは白日の下にさらされる。いまさらどうこうと細かいことは言わないが、これからは世間の我々アサヒマンを見る目も変わってくる。それを肝に銘じてもらいたい。」

翌日、マスコミにCI導入を発表すると同時に、全国紙、ブロック紙、地方紙などに全15段を使った企業の宣伝広告が掲載された。これは企業変身へ向けての高らかな社外宣伝であり、社内を一層駆り立てて行こうとの狙いもあった。

翌1月23日と24日は、全営業マンを対象にした「ビアコンべション」が行われた。通称「社内ハッスルパーティ」と呼ばれる営業マンたちの決起集会だったが、朝日ビールにとってはいままでにない大掛かりなものだった。

この日から3日後に、発売に先立ち全事業所一斉に新ビールの試飲会が実施された。全社員を対象とした試飲会は朝日ビールにとって異例中の異例だった。社員の立場ではなく、消費者の立場で飲む。自社のビールがうまいと気付けば自信につながる

社員試飲会を実施するにあたって、裏方さんたちがもっとも気を使ったのは秘密保持である。まだ新ビールは対外的に発表していないので、運搬と管理には十分注意して運ぶ時には目隠しをし、飲んだ後の空瓶や空き缶はきちんと回収して捨てずに保管した。

社外へ持ち出されると他社に知られてしまう。新ビールが対外的に公表されるのは2月3日である。この日から3日間、仙台を皮切りに全国五つの都市で特約店と問屋の販売課長以上の「ライブ・コミニュケーション・パーティ」と銘打った特約店会が開催された。

村井や樋口は「いままでは我々の努力不足で、朝日を応援して下さるみなさんのご期待になかなか添えなかった。しかし、これからは違う。この商品の発売をきっかけに朝日は生まれ変わります。どうか今後ともアサヒビールをよろしく。」と挨拶して回った。

準備するスタッフはほとんど3日間徹夜だった。発売前のビールを極秘でホテルへ持ち込み、パーティが始まるまでホテルの冷蔵庫で冷やしていおく。ぬるければ話にならず、冷えすぎてもいけない。スタッフは細かい温度管理もチェックしていた。

発売の日、ほとんどの販売店から前の朝日ビールは消えていた。「何もそこまでやらなくても」という酒販店からの意見もあったが、新しいビールの発売に合わせてアサヒビールは数億円かけて朝日ビールを市場から回収していた

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4 荒波を切り開け

 4-1 全国縦断イベント

広告を検討していたCI本部の杉浦は、電通の注文書に「味とラベルが新しくなったので消費者に飲んでもらいたい」とし、横に「コクがあってキレもあるビール」と書き添えた。消費者に認知してもらい、消費者に飲ませたいとの思いがみなぎっていたた。

電通から届いたコピーは「味もラベルも新しい コクがあるのにキレがある」。杉浦は広告で味を表現するのは難しいと悟った。商品に対する自信の裏付けとして、やはり消費者に飲んでもらわなければ伝わらない。そこで電通と相談してキャンペーンを提案した。

イベントカーに乗り込んだキャラバン隊が、桜前線に合わせて九州から北海道へと北上するという、前代未聞の全国縦断の大試飲キャンペーン作戦で、百万人の消費者に試飲させる案が承認された。キャンペーンの開始日は3月8日と決定した。

商用車2台を改造することになったが、自動車メーカーに相談すると「そんな特別仕様の車は造ったことがないから注文通りにはできない」と断られた。東京の三河島に医療機器の巡回車を造っている車体改造の専門会社を見つ、3ヶ月間で改造を依頼した。

九州の鹿児島かと熊本からスタートとすることが決まったが、試飲会を行う場所はできるだけ人通りがあって車を置けるスペースのあるところである。各地の支店を巻き込み、支店の意向を重視しながら場所の選定を行った。

路上で試飲会は出来ない。道路交通法にひっかかるからだ。保健所との問題、消防署との問題、警察署との問題、地元との問題などがあり、試飲会が開催できる場所はおのずと限られてくる。万全を期したつもりでもスタッフは頭を抱え込んだ。

試飲会用のパッケージに商品特性などの説明書を書き入れた135ミルリットルの特別試飲缶を用意し、地元のイベント会社に依頼しキャンペンガールとなる女子大生のアルバイトを募集し、容姿もさることながら明るく元気があることに重点が置かれた

6日夜までの予定の車改造が遅れ、フェリーの出発時間に間に合わなくなった。改造車は高速安定性が悪く高速道路の走行には向かない。間に合わせるためスタッフはほとんど一睡もせずに東名、名神、中国道をひた走り、目的地へ着くと泥のように眠りこけた。

初日の鹿児島と熊本は快晴だったが、試飲会が始まる頃に桜島の灰が降ってきた。発泡スチロールの入れ物に水と氷を入れてビール缶を冷やしていたがその中に灰が入る。あわててシートで覆ったが、洗った車も灰をかぶって黒く薄汚れてしまった。

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 4-2 荒れ狂う荒波

試飲会は土曜と日曜日に限定して行われ、専従スタッフのほかに本社からも応援に駆け付けつけ、試飲会が終わると応援部隊は東京へ帰ると言う繰り返しだった。第一週を鹿児島と熊本でスタートしたキャラバン隊は、二周目の目的地である福岡と延岡へ向かった。

3月の天候は変わりやすい。午前中は快晴でも午後から雨になり小雪がちらつくこともある。キャンペーンガールのユニフォームは夏を想定した薄地で、下はミニスカートだった。想像以上に辛い仕事だったが、道行く人の同情を誘い足を止める効果もあった

試飲会は土曜と日曜日のためキャンペーン車の駐車場が必要になる。運転スタッフは現地に車を置いて東京へ戻り、次回の試飲会の終了に合わせて現地へ赴き次期開催地まで走行して東京へ戻る。予算内で納めるために無料の駐車場を探すのが苦労の種だった

スタッフが試飲会の10日ほど前に現地の保健所に許可をもらいに行くと「試飲缶の栓を開けるなら、スタッフ全員の検便をしたうえでないと許可は出せない。栓を開けないのなら検便の必要はない」と言われた。

ビール会社が試飲会などで消費者にビールを飲ませる場合、ビンや缶を栓を開けないままで消費者に手渡すことはできない。コップに注ぐなり、栓を開けて渡さなければならない。これは「ビールに関する公正取引規約」で決められていることだった。

ある都市での試飲会はAデパート前だった。元気な声で試飲会を始めると、朝日と親しいBデーパートから「なぜうちの前でやらないんだ」とクレームがついた。Bデパート前は法的にひっかる問題があり、地元諸官庁から許可が下りなかったのである。

現場の責任者が必死になってその事情をBデパート側に説明したが、納得せずに「すぐ中止しなければアサヒビールとの今後の取引を考えなおす」と言い出した。取り敢えず中止するとAデパートから苦情が出たが、苦肉の策で中止の理由を保健所の不許可にした

デパート前での試飲会はデパート側の許可を取り、ビール会社との接点を持つ酒類担当部への挨拶が必要である。挨拶が遅れたためにヘソを曲げる人もいるそうだ。「酔った客がデパートへ入るのは困る。栓を開けないで渡すなら考え直してもよい」と断った。

「酔っ払いが中に入って困るとおっしゃるが、135ミリの小さな缶一つですし、缶を開けなければデパートのなかに入ってロビーで飲む人が出てきます。そうなると、空き缶が散乱したりしてかえって迷惑をかけます」。杉浦の説得で無事試飲会が開催できた。

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 4-3 荒波に立ち向かえ

桜を追いかけて北上する「百万人大試飲キャンペーン」と併行して、全国各地の繁華街では簡易の特設会場を使って街頭試飲会が行われた。これと同時に、全国の酒販店の軒先では約一万軒を目標にしたアサヒマン総出の店頭試飲会が始まっていた。

一般的に試飲会と言えば、メーカーは企画と金を出すだけで実際の作業はイベント会社に頼みアルバイトが雇われることが多い。アサヒの店頭試飲会は、営業担当者だけではなく工場や生産現場で働く人や内勤の社員までが店頭に立った

めったに外で仕事をすることもなく、自宅と職場を往復するだけのアサヒビールの社員が、慣れない手つき、下手くそな説明で精いっぱいお客に応対する。消費者と肌で接することで、アサヒビールの社員は日を追って変化していった。

アサヒビール社員総出の店頭試飲会は全国いたるところで開催され、アサヒビールの社員は日増しに自信をつけ、酒販店のアサヒビールを見る目も変わっていった。そして、アサヒビールの運命を乗せた「コク・キレ」生ビールはジワリジワリ売れ始めた

3月28日に社長に就任した樋口は、29日と30日に経営会議のメンバーを都内のホテルに招集して合宿討議を開催した。最高幹部が合宿しながら討議することも、休日返上で9時から21時まで討議することもアサヒビール始まって以来初めての事だった。

ここ討議会では、「アサヒビールの経営戦略の問題点は何か・解決の方向はどうあるべきか」などが時間をかけて議論され、「アサヒビールの進むべき方向・経営陣の役割り」が合意された。会議慣れしている経営会議のメンバーも値を上げるハードなものだった。

アサヒビールの社長交代が発表された時、一部の特約店関係者の間で「せっかく村井さんがここまでやってきて、これからというときに」「村井さんのやってきたことは無駄になるのでは」といった不満やアサヒの将来を案ずる声が出されたことは事実である。

村井もそうだったが、樋口も人に安心感を与えるな魅力を持つ経営者であった。樋口は村井の打ってきた布石を十分に認めたうえで「準備は終わった。あとは実行あるのみ」と社員を鼓舞した。引き絞られて弓から矢は解き放されたのである

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 4-4 波頭の向こうに

昭和36年に3位になって以降シェア低下傾向が続き、昭和55年代前半から中盤は4位寸前の低迷期に陥った。昭和61年1月21日にアサヒビールは100年にわたって親しまれてきた「赤い波と朝日」のブランドマークを捨てた

白地にブルーの「ASAHI」というマークとなり名前も社章も変えた。大衆イメージ商品であるビールの業界で味やラベルの変革はタブーとされてきが、アサヒビールは主力商品である生ビールのフルモデルチェンジを行った

ビールは日光や振動に弱いうえに、古くなるほどまずくなるという性質がある。品質第一を考えて顧客にうまいビールを飲んでもらうには、できるだけ新しいビールを出荷しなければならない。

樋口はアサヒビール入りした直後の同業経営者の挨拶で、フレッシュ・ローテーションの大切さを教えられた。これまでのアサヒビールは「売れないから古い」「古いからまずい」「まずいから売れない」という悪循環を繰り返してきた

そこで樋口は、工場でできたビールは必ず20日以内に出荷させるようにした。また、流通段階では、小売店の店先で4ヶ月以上も眠っているビールは支店長に命じて即座に引き上げさせた。

樋口は社員たちに身を持って体験させるため、月一回行われるビルデーの日に、回収してきた古いビールと新しいビールを飲み比べさせた。出来立てのビールをまず飲んで、回収してきた古いビールを飲む。古いビールがいかにまずいか、味の差は歴然だった

これを繰り返していると、社員たちは「いままで自分たちだけが新しいうまいビールを飲んで、お客さんにこんなまずいビールを飲ませてきたのではないか」という反省が生まれた。樋口はここぞとばかり、会社をあげての「フレッシュ作戦」を指令した。

古いビールの回収はどうしても量販店に偏り、全国15万軒の酒類小売店までは実が届かない。社員一人ひとりが仕事の合間に小売店を回り、古いビールを見つけてその場で買い取るフレッシュ運動を展開することになった。

はじめのうちは会社がその費用を出していたが、「どうせ買ったビールは飲んむんだから」と次第に社員が身銭を切ってやるようになった。こうした活動は営業マンだけではなく、一般の内勤社員もやり始めた。

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5 努力は実を結ぶ

 5-1 さらなる味の追求

昭和61年の春先にコクとキレのあるビールを開発した技術者たちが、5千人の味覚調査結果をもう一度見直してみると、20代と30代の層が「サラットしてベタつかない」辛口のビールを望んでいることが分かった

若手の技術者たちは嗜好の変化に対応する商品を開発を進め、辛口のコンセプトに沿った試作品を6月に完成させた。経営会議に持ち込むと、この商品はまだ早いという理由で採用されなかった。ただし、今後の課題として引き続き研究せよとされた。

研究の続行を認められた若手開発者たちは一層味の開発に力を入れた。コーンスターチや米といった副原料の割合を高め、麦芽とホップの割合をギリギリまで減らした。このように麦芽の比率を下げて作ったビールは税法的で発泡酒と呼ばれる

そこで発泡酒にカテゴライズされるギリギリのラインまで麦芽比率を下げ、ビールのキリっとした味わいを残すことで、80年代前半までにはなかった味わいが誕生し、それが「ドライ」や「辛口」といった比喩により表現された

昭和62年に発売した「アサヒ生ビール(通称コクキレビール)」で30年ぶりにアサヒビールのシェアは1%回復した。これは社員の士気を上げるだけでなく、酒販店や飲食店から問合せの電話が多数入る様になった。

アサヒビールは62年9月末の時点で前年比31%増という驚異的な数字を示した。これは、明らかに一人ひとりの社員が、そして企業体質そのものが変わりつつあるからだろう。10月の経営会議に提出したビールはうまいとの評価を得て限定発売が決定した。

コクキレビールのヒットを経て翌年は次世代に向けた新商品、これまでになかった辛口というビールの新しいコンセプトを創り出し、1987年3月17日に「アサヒスーパードライ」が地域を関東地方に限定して発売された。

発売されたときに競争メーカーは「あんな軽いビールは売れないだろう」と酷評されたそうだが、発売と同時に大ヒット商品となりアサヒスーパードライの発売エリアも全国へと一気に拡大した。

差し戻されても自信と裏付けがあれば粘り強くチャレンジし続ける若手社員、それを中間段階でもみけさない管理職、若手の意見を十分い汲み上げてここというときには果敢に決断するトップ経営陣。立場の異なる三者三葉の在り方がアサヒの躍進につながった

ドライ戦争引き起こすほどのブームになり、1989年には1億ケースを突破した。そして1998年にアサヒビールは国内ビール市場でナンバーワン1企業として復活したのである。

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 5-2 神々は微笑んだ

スーパードライの新聞広告は、毎週末の土曜日を中心に3年間全ページ(一面)広告を156回続け、テレビスポットCMや新聞広告と雑誌を3本柱に、怒涛の宣伝で一気に知名度を押し上げた。

スーパードライの生産が追い付かず、工場で生産していた外国産ビールを緊急空輸して現在工場は「アサヒスーパードライの生産に特化しています!」や、「品薄でご迷惑をおかけして申し訳ございません!」と言った「お詫び広告」が何度も出された

1989年(平成元年)のアサヒビール創業100周年に1億函の出荷を達成した。ライバルのキリンビール1ヶ月だけ抜こうと試みたことがあった。そうすると、1ヶ月だけ勝った。1回超えてしまうと社員は次もできるのではないかと思うようになった。

キリンビールは2000年まで47年もの間継続してトップシェアを独占し、一時は市場シェア60%を超える勢いだった。ブラジル企業の3000億円買収に失敗して以来、元気を失って2010年以降は9年連続でアサヒにトップシェアを奪われている。

サントリーはビール事業に再進出したが長い暗黒期に入り、45年間も赤字にあえいでいた。2005年に「ザ・プレミアム・モルツ中瓶」でモンドセレクションの「ビール部門グループ1」で国産ビール製品初の最高金賞を受賞した。

それにより生産終了の可能性があったザ・プレミアム・モルツは見事に息を吹き返し、同年にサントリーが1963年のビール事業開始以来初となる「ビール部門の単年度黒字」を達成する要因になった。

大日本麦酒株式会社解体当時、市場シェアはサッポロビール(当時・日本麦酒)がトップだったが、かつて名門企業だったサッポロビールも今は見る影もない。強いて述べるとしたら「エビスビール」のブランド価値と、北海道での知名度くらいのものだろう。

国内市場シェアをみると、2018年のアサヒビールの国内シェアは1位で37.4%を占めた。次いで2位のキリンビールのシェアは34.4%、3位のサントリーのシェアは16.0%、4位のサッポロビールのシェアは11.4%となっている。

2016年の世界ランキングでアサヒは3.0%、キリンは2.2%、2017年の世界ランキングでアサヒは5.8%、キリンは1.5%となった。

アサヒビールは従来の経営理念を刷新して、2019年1月から新理念を制定して施行した。

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参考文献:アサヒビールホームページ、アサヒビールの挑戦(石山順也、日本能率協会)、北海道新聞、朝日新聞。