はげちゃんの世界

人々の役に立とうと夢をいだき、夢を追いかけてきた日々

第7章 歴史を正しく学ぼう

1 誇りを失った日本人

私たちが学んできた歴史は、大東亜戦争を全面的に否定するところから出発していた。日本は他国を侵略して多大な犠牲を強い、ありとあらゆる非道を行い人の道に外れた残虐なことを行ってきたとされ、大東亜戦争という言葉を使うこともはばかられていた。

戦争について多くの反省点はあるだろうが、今一度、日本人が歩んできた歴史を謙虚に学ぶべきではないだろうか。私たちは先の大戦を検証し、なぜ戦争になったのかを正しく知るべきである。戦争で日本の果たした役割や意味を正当に評価すべきである。

日本は戦争を起こした犯罪者であるという自虐史観を押し付けられ、いまだにそう主張する人々がいる。しかし、二十世紀の戦争の解釈が間違っているのではと多くの人々が気づき始めている。歴史の真実を今一度見つめなおしてみよう。

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司馬遼太郎氏が「老台北」と呼ばれた蔡焜燦(さいこんさん)氏は「台湾人と日本精神」で次のように訴えている。

自分の国をも愛せない人が、どうして他人や他の国の人々を愛せるだろうか。自らの祖先を敬い、親兄弟を愛し、そして、そうした人々が幸せに暮す祖国を愛してこそ、世界の人々を愛せるのだ
 日本の戦後教育のごとき、“反日教育”が生むものは、祖先への軽蔑と他人を憎悪する卑しさだけであり、決して愛する心を育まない。現代日本の青少年による凄惨な事件の数々や、教育現場の荒廃はこうした戦後教育の悲しい結末であろう。
 もっとも、歪曲した歴史観によって自国をさげすむことは、実に残念であるばかりか、そうした考えに正義感を覚える輩は、ただ“無知”としかみなされないことも肝に銘じて置く必要があろう
 近年、台湾でこれまでの国民党主導による反日教育が改められ、新しい歴史教科書「認識台湾」によって、日本統治時代を正しく評価する歴史教育が始まった。台湾におけるこうした教育は、将来のアジアの歴史観を大きく変えてゆくことだろう。
 ところが日本では、自虐史観という“虚構”が日本人から「自信」と「誇り」を奪い去り、日本国を世界の期待の声に応えることのできない“自信喪失国家”につくりかえてしまった感がある。しかし、それはアジア地域を不安定にさせているばかりか、世界の平和構築の障害となっているのである。
 台湾には、日本がいまこそ学ぶべき“正しい日本史”がある。どうぞ台湾に日本の正しい歴史を学び、自信と誇りを取り戻していただきたい。そして誇りある日本が、アジア地域の安定と平和を担う真のリーダーたらんことを願う。日本人よ胸を張りなさい!

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1994(平成6)年にマレーシアを訪れた当時の村山富市首相と土井たか子衆議院議長が、過去の戦争での謝罪を口にした。この時マレーシアのマハティール首相は「なぜ日本が50年前に起きた過去の戦争ことを、いまだに謝り続けるのか理解できない。」と返された。

日本は軍国主義が非生産的であることを理解して、その高い技術とエネルギーを貧者も金持ちも同じように快適に暮らせる社会の建設に注いできた。質を落とすことなくコストを削減することに成功し、かつては贅沢品だったものを誰でも利用できるようにしたのは日本人である。まさに魔法も使わずに、奇跡とも言える成果を創り出したのだ。

東アジア諸国でも立派にやっていけることを証明したのは日本である。そして他の東アジア諸国はあえて挑戦し、自分たちも他の世界各国も驚くような成功をとげた。東アジア人は、もはや劣等感にさいなまれることはなくなった。いまや日本の、そして自分たちの力を信じているし、実際にそれを証明してみせた

もし、日本なかりせば、世界は全く違う様相を呈していただろう。富める北側はますます富み、貧しい南側はますます貧しくなっていたと言っても過言ではない。北側のヨーロッパは永遠に世界を支配したことだろう

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日本の某代議士の「過ぐる大戦において、わが国は貴国に対しご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」という挨拶に対して、マレーシアのガザリー・シャフェー元外相は次のように答えている。

あの大戦で日本はよくやったではないですか。マレー人と同じ小さな躰の日本人が、大きなイギリス人を追い払ったではありませんか。その結果マレーシアは独立できたのです。大東亜戦争なくしては、マレーシアもシンガポールも、その他の東南アジア諸国の独立も考えられないんですよ?

日本のある学校の先生は「日本軍はマレー人を虐殺したに違いない。その事実を調べに来たのだ」と言っていました。私は驚きました。この国に来られた「日本軍はマレー人を一人も殺していません。」と私は答えてやりました。

日本軍が殺したのは、戦闘で闘った英軍やその英軍に協力した中国系の抗日ゲリラだけでした。私たちは、マレー半島を進撃してゆく日本軍に歓呼の声をあげました。敗れて逃げてゆく英軍を見た時に今まで感じたことのない興奮を覚えました。しかもマレーシアを占領した日本軍は日本の植民地としないで、将来のそれぞれの国の独立と発展の為にそれぞれの民族の国語を普及させ青少年の教育をおこなってくれたのです

日本はインドネシア語の公用語を徹底して推進し、インドネシア国民としての連帯感を人々に植え付け、広域の大衆をインドネシアという国家の国民として組織しました。とくに若者に民族意識を植え付け、革命の戦闘的情緒と雰囲気を盛り上げた。またPETA(ペタ)の革命における意義は大きく、これなくしてインドネシア革命はあり得なかったのです。

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 1-1 目隠しされた国民

昭和17年4月18日、米軍の空母オーネットから飛び立った16機の航空機は、東京を焼夷弾で初空襲し、川崎で児童1名が死亡したと新聞は報じている。焼夷弾には「オーネットからトージョーとヒロヒトへ」と書かれていたそうだ。その翌日、私は札幌で生まれた。

小学校時代は米軍の実弾演習地の中心部で育った。中学校や高校で学んだ世界史と日本史は近世に入ると授業時間が足りなくなり、あとは教科書を読んでおけで終わった。大学で学んだ歴史はどの方向への流れがつくられていったのか、現在を形つくった歴史の流れのとらえ方と考え方だった

近世の歴史について図書館で様々な書籍を読み漁った。1941(昭和16)年12月12日に東條内閣が閣議決定した「大東亜戦争」という名称を、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が自らの戦争目的を隠すために「太平洋戦争」に置き換えたことが分かった。

大東亜戦争終結に伴いポツダム宣言を執行するために日本で占領政策を実施した連合国軍最高司令官総司令部(略称:GHQ)は、米国政府の指令を受けてウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(War Guilt Information Program 略称:WGIP)に取り組んだ。

WGIPとは「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」である。日本を再び米国及び連合国の脅威にならないよう、徹底的に無力化し弱体化するためだった。この目的の下に行われた占領政策は、日本人を精神的に去勢し、当時の日本人が持っていた愛国心を抹殺し、アメリカの属国的・被保護国な存在へと貶めようとする、日本弱体化政策だった。

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国民に対する罪を犯したのも、現在および将来の日本の苦難と窮乏も、すべては「軍国主義者(政治家・軍隊・軍人)」の責任である。大都市への無差別爆撃も、広島・長崎への原爆投下も、「軍国主義者」が悪かったから起った災厄であり、実際に爆弾を落した米国人には少しも悪いところはない、という方向へ進めていった

連合軍に都合の悪いニュースや考え方を隠蔽して国民が真実に気付けないようにするため、ラジオや新聞などの報道機関の活動を制限する30種の禁止項目を定めて、違反した場合は活動停止などの処分が行えるようにした。

連合軍に都合の悪い考え方や批判を一切禁止し、極東国際軍事裁判で事実の隠蔽や罪人を捏造することで、戦争についての誤った罪悪感を日本人の心に植えつけた。いまもこの占領政策を守っているのがNHKをはじめとするマスコミである。

紀元前三世紀に、秦の始皇帝が儒教の書物を焼き捨て、儒者たちを穴に埋めて殺してしまった事件を「焚書坑儒」というが、これは書物を破棄して民族に伝わる考え方や文化を忘れさせて民を服従させる行為である。連合軍はこれと同じことを行った。

日本へ進駐したアメリカ軍は七千数百タイトルの単行本を、全国の書店、出版社、古書店、官公庁、倉庫、印刷所、取次会社など、流通機構から輸送中のものも含めて没収した。歴史書や思想書類を大規模に焚書して、日本民族に伝わる生き方やものの考え方を奪い取ってから、国際法に反して押し付けた憲法で思想の自由や出版の自由をうたったのだ

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生き方やものの考え方を奪い取って、日本国民が受ける苦痛と非難は日本の不法にして無責任な侵略行為によってもたらされたものであると洗脳していった。そして、極東国際軍事裁判で決定的な自虐史観を日本国民に植え付けた

起訴状で日本の犯した犯罪は「侵略による世界支配と平和に対する罪及び人道に対する罪」である。判決文の内容は裁判の前に作成され、判事は秘密にするよう誓約書への署名を強要された。そして、戦争犯罪人という罪名を作り上げて60名を処刑した

この結果、米国が望んだように日本は侵略国家としての歴史を持ち、日本人はアジアの諸民族に多大な迷惑をかけた悪い民族である。日本国憲法は平和憲法で、すばらしい憲法だから守り続けて行かなければならないと誤った考えが広がった

これに迎合して過去に日本や日本人がしたことを罪悪視し、日本を嫌悪する日本人が増加してきた。日本人の目から真実を覆い隠し、自分達に都合の良い正義感を振り回す人々が現われ、なぜ日本が戦争をしなければならなかったのかわからなってしまった

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 1-2 ルーズベルト神話

日本政府は、1941(昭和16)年の春からなんとしても日本の国益を守りながら、アメリカと戦争しない方向を探ろうと大変な苦労を続けていた。7月に発足した第三次内閣の近衛文麿首相は、駐日アメリカ大使と9月に会談し、日米首脳会談でルーズベルト大統領と直接会って日米戦争を回避したいと強く訴えていた。

近衛首相の和平提案を駐日アメリカ大使も、中日イギリス大使も祈るような気持ちで実現を期待していた。しかし、アメリカは妥協ではなく力によって封じ込めるべきだとし、アメリカ国務省は日米首脳会談を事実上拒否する回答を日本側に示した

歴史家でもある第31代アメリカ大統領ハーバート・フーヴァーは、退職後にフリーダム・ビトレイド(Freedom Betrayed)と題した第二次世界大戦を論じる論文を表した。フーヴァーの亡き後、この論文は五十年間も出版されなかった。

出版されなかった理由は、一般のアメリカ人に信じられている第二次世界大戦感、すなわちフランクリン・ルーズベルト神話を真っ向から否定する内容だったからである。ルーズベルト神話の否定につながり、世の中が混乱するのを恐れたからだった。

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ルーズベルト神話とは、第二次世界大戦はファシズムや軍国主義とデモクラシーの戦いで、アメリカをはじめとする連合国が、日本の軍国主義、ドイツのナチズム、イタリアのファシズムに勝利した、全く正しい正義の戦いであったとする見方である

フランクリン・ルーズベルトの母親サラ・デラノ一族は、19世紀からチャイナ貿易で財を成したファミリーだった。彼らは、チャイナからクーリーと呼ばれる労働者を大勢連れてきて、大陸横断鉄道建設の労働者として酷使した。奴隷同然の過酷な労働を行わせるためにアヘンも使われ、アヘンと労働者の輸入に関わっていたのが祖父のウォーレン・デラノだった。

フランクリン・ルーズベルトは、祖父ウォーレン・デラノの莫大な遺産を相続した。彼の家には、チャイナの古い美術品が所狭しと飾ってあったと言われる。日本は日清戦争と日露戦争に勝利し、戦争により合法的に得た権利や利権が数多くあった。

日本がチャイナの権益を独占している状況がルーズベルトには許せなかった。しかし、「攻撃を受けない限りアメリカは絶対に参戦しない」と公約していたルーズベルトは、復讐心を利用して最少の犠牲を払うことでアメリカを奮い立たせようとした。

ルーズベルト大統領は日本打倒のためにオレンジ計画を国策とした。これは日米戦のあらゆる場面を想定した侵略計画で、以後の日米交渉、開戦挑発から終戦、占領政策など、すべてこの日本侵略計画で貫かれている。

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アメリカが開戦の動機をつくる常套手段は「リメンバー」である。かってテキサスはメキシコの領土であった。入植したアメリカ人は独立戦争を起こし、アラモの砦の155人の守備隊をおとりにしてメキシコ軍に先制攻撃させ、「リメンバー・アラモ」を合言葉にテキサス・ニューメキシコ・カリフォルニアなどメキシコの国土の半分を奪い取った。

ハバナを表敬訪問中の米軍艦「メーン」号を自爆させ、2060人の乗組員を犠牲にして「リメンバー・メーン」を合言葉にスペインに宣戦布告し、94人の子どもたちを含む1095人を生贄にして「リメンバー・ルキタニア号」を合言葉に第一次世界大戦に参戦した。

奇襲せざるを得ないように追い詰めた参戦口実は「リメンバー・パールハーバー」、ベトナム戦争の参戦口実は「リメンバー・トンキン湾」、イラクのフセイン大統領を騙してクウェート侵攻に誘い出し、侵略者に仕立て上げた湾岸戦争の参戦口実は「リメンバー・311」である。

アメリカほど、正義の「建前」と冷静着実な国益追求の「本音」とが、これほど乖離している国も珍しいのである。歴史は繰り返すことから「Renember World Trade Cebter and Pentagon」の準備はすでに始まっていても不思議ではない。

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 1-3 狂人の欲望

アメリカは主力艦隊を太平洋のハワイに集結し、イギリスもシンガポールに極東艦隊を増強して戦争配備についていた。日本の真珠湾攻撃よりも前に、ルーズベルト大統領は秘密命令で戦争指令を出していたことが、米国の軍法会議及び上下両院の合同調査委員会で明らかにされた

ルーズベルト大統領とハル長官はハルノートを日本が受託しないと思い込み、日本側の回答を待つことなく野村大使に手渡した翌日にアメリカの前哨地帯の諸司令官に対し、戦争の警告を発し戦争体勢に入ることを命令している

日本を窮地に追い込み、日本を挑発することで日本を戦争をしかけさせ、ルーズベルトは第二次世界大戦参加のきっかけを作った。戦後、ピアード博士、タンシル教授、グルー大使、キンメル太平洋艦隊司令長官、ウェッデナイヤー陸軍大将など、有力な当時のアメリカの責任者たちは次々と証拠を基に明らかにした。

ついに日本は開戦せざるを得なくなって、山本司令長官の連合艦隊は千島に集結してハワイへ向かった。ルーズベルトは、真珠湾から新鋭戦艦十九隻と二隻の航空母艦を外海に移動させ、廃船に近い戦艦十九隻を集めて連合艦隊の攻撃を待っていた

開戦当時、太平洋艦隊司令長官だったセオボルト少将は、その著書「真珠湾の最後の秘密」で「真珠湾は日本に最初の一発を放たせるためのオトリであった」と証拠を上げて述べている。

キンメル司令官はレーダで日本軍の動向を捉えていたが、奇襲攻撃が成功するようにハワイの部隊には伝えなかった。この結果、ルーズベルトが望んだように、真珠湾の奇襲を騙し打ちと決めて宣伝し、アメリカ国民を怒らせて開戦へ駆り立て、世界史にアメリカの正当性を残そうとたくらんだのである。

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ルーズベルトの長女の夫、カーチス・B・ドールの告発の書「操られたルーズベルト」で、ルーズベルトは会食の席で家族に「私は決して宣戦はしない。私は戦争を造るのだ」と述べた。真珠湾攻撃前日の会食では「明日戦争が起こる」とつぶやいていたと記録されている

アメリカでは大統領には宣戦布告する権利がなく、宣戦布告するのは議会の権限とされている。真珠湾攻撃の翌日、ルーズベルト大統領は日本に対し宣戦布告を求める議会演説を行った。この演説に、下院議員として支持する演説をせざるを得なかったのがハミルトン・フィッシュⅢ世である。

フィッシュは「ルーズベルトの開戦責任」で、ハル・ノートのことは全く知らなかったと述べている。

ハル・ノートは、誰がどう見ても宣戦布告そのもの。これを突きつけられたら、どの国でも開戦せざるを得ない。ルーズベルトは国民を欺いた。

フリーダム・ビトレイドで、フーヴァー前大統領が日本でマッカーサー大将と話し合ったことが記録されている。

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私が、日本との戦争のすべてが戦争を開始したいという狂人(ルーズベルト)の欲望であったと述べたところ、マッカーサー大将も同意した。

1941年7月の日本に対する金融制裁は、挑発的であったばかりでなくその制裁が解除されなければ自殺行為になるとわかっていても、日本が戦争せざるを得ないような状況へ追い込んだのだ。

制裁は、殺戮と破壊以外のすべての戦争行為を実現させるものであり、いかなる国といえども、品格を重んじる国であれば我慢できることではなかったと述べた。この私の発言にもマッカーサーは同意した。

1951年5月のアメリカ上院の軍事外交合同委員会でマッカーサーは、日本の戦争は自衛戦争であったと証言している

日本人は工場を建設し、多くの優秀な労働力を抱えていましたが、原料を算出することができません。

日本には蚕を除いては、国産の資源はほとんどなにもありません。彼らには綿がなく、羊毛がなく、石油の算出がなく、スズがなく、ゴムがなく、その他にも多くの資源が欠乏しています。それらすべてのものは、アジア海域に存在していたのです。

これらの供給が断たれた場合には、日本では1千万人から1千2百万人の失業者が生まれるであろうという恐怖感がありました。したがって、彼らが戦争を始めた目的は、主として安全保障上の必要にせまられてのことだったのです

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2.苦悩する日本

 2-1 アジアの植民地化

白人の近世史を振り返ってみよう。イギリスは単独くまたはフランスと連合し、清国に対しアヘン戦争、ついでアロー戦争(第二次アヘン戦争)を仕掛け、南京条約、天津条約、北京条約により、香港、九龍の割取、上海共同租界の設置を取り付け、その他多くの権益獲得により、中国を近代産業資本主義の市場としてその勢力下に収めた。

これは中国の半植民地化の始まりであった。同時期にイギリスは1858年遂にインドを併合し、フランスも1862年交趾支那を割収し、翌63年にカンボジアを保護領とした。

黒龍地方を占領し、カムチャッカ、アラスカに至る北太平洋沿岸に浸出していた帝政ロシアは、1860年の北京条約に締結に介入してウスリー以東の沿海州を割取し、極東制覇のためと自称するウラジオストック港を開いた。

そしてこれらと並行前後して、帝政ロシア、イギリス、フランス、そして新しくアメリカも加わって、欧米列強はその艦艇をしばしば日本近海に出没させるとともに、相次いで開国を迫った。

1887年にフランスはアンナン、トンキン、英国は東部ニューギニアを手中に収め、1885年にフランスは膨湖島、ドイツはマーシャル群島に進出し、1886年英国はビルマを併合した。

帝政ロシアは1900年義和団の蜂起による北清事変の渦中で満州全域の軍事占領を行い、さらに韓国に迫って艦艇の碇泊地を馬山近郊に租借し巨済島とその対岸の陸地は帝政ロシア以外に咀嚼させないとの密約を結ばせた。馬山と旅順は日韓交通の重要基地であった。

1903年4月に、帝政ロシアは鴨緑江下流の韓国領龍岩浦を占領して軍事基地を設けた。帝政ロシアは満州の領土保全を確約せず、韓国からも手を引く態度を明確化しなかった。

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 2-2 自存自衛の戦争

1840年に起こったアヘン戦争で、アジアの大国を自認していた清国がイギリスに大敗したことは幕府を驚かせた。次は日本がやられると幕末の志士たちは一斉に日本の危機を痛感した。長州の高杉晋作は上海に渡り、アヘン戦争の惨状を視察して国防の必要性を強調した。

アヘン戦争から10年後、軍艦4隻を率いたペリーが浦賀へやってきて砲艦外交で開港を迫り、翌年は軍艦7隻で江戸湾を測量して武威を示し、日米修好通商条約を締結させられた。

ぺリーはシーボルトがひそかに持ち出した伊能忠敬の日本地図を持っていた。江戸湾の測量結果を比較してその正確さに驚き、恐るべき技術を持った侮れない国と認識して琉球に引き上げていった

日米修好通商条約を知ったオランダ、フランス、イギリス、ロシアも治外法権を認め、日本の関税自主権を認めない不平等条約を締結させた。この国難をどう乗り越えるか、明治維新までの15年間は開港か攘夷か、佐幕か勤王かで幕末の大動乱が続いた。

幕末の代表的思想家である吉田松陰は、日本が西よりポルトガル、イスパニヤ、イギリス、フランス、東よりアメリカ、北より帝政ロシアに狙われている。中国大陸とアフリカ大陸がすでにイギリスの侵略を受けていることを述べて、武器の増強を強調した

また思想家として吉田松陰と並び称される橋本佐内も、積極的国防及び日露同盟論を提唱した。この両名の構想は、露英仏米等列強の極東浸出に対する防衛策であり、日本の独立を確保するための国防論であった

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民族の内部が各派に分かれて逃走し、騒然たる無秩序の時こそ列強の侵略のチャンスである。フランスは幕府を支持し、イギリスは反幕府派を応援して動乱の扇動に努めた。大老の井伊直弼は尊王攘夷者への弾圧を強め、積極的国防を提唱した吉田松陰と日露同盟論を提唱した橋本佐内や懶三樹三郎らを処刑した。

生麦事件でイギリスは報復のため鹿児島を砲撃し、翌年英米仏蘭十六隻の連合艦隊が下関を砲撃し、三日間で全砲台が破壊された。江戸太郎左衛門の韮山反射炉で精錬された鉄を使った大砲で薩摩と長州は戦ったが、薩英戦争と下関戦争に敗北して列強の近代軍と兵器の強さを肌身で実感させられた。

身をもって列強の力に脅威を感じた志士たちは、国内で日本人同士が争っている場合ではないと悟った。早急に対策を建てなければ日本が危ないと気付かされ、早く国論を統一して外敵に当たらなければ日本は滅亡するという危機感を抱いた。

勝った列強側も火器による抵抗の激しさに、日本は他のアジア諸民族と同じような野蛮人と見下してはならない。手ごわい相手だと警戒するようになり、このことが唯一植民地にならなかった要因でもある

1967年すなわち慶応3年、徳川幕府は政権を天皇に奉還し、翌年戊辰戦争後おおむね無血裡に明治維新なる革命が成就した。この明治維新に先立つ20~30年の間、欧州列強の東亜に対する帝国主義的進出は顕著なるものがあった。

日本と朝鮮半島とは地理的に近接し、古来より好むと好まざるとに拘わらず、政治、経済、文化の各般にわたり緊密不離の特殊な関係にある。国際関係を律する一つの原理として指摘されるいわゆる地理的近隣特殊関係ある。

朝鮮半島が地政学的にアジア大陸より日本列島の横腹に対しあたかも匕首を擬した格好であることは、日本の国防上致命的な意義を持つもので、日本は朝鮮半島に日本と友好的ないし一体的な独立政権が、安定的に存在することに重大関心を払わざるを得なかった

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1876年2月、日韓両国が明治維新以来の懸案を解決して「朝鮮皇国は自主の邦にして日本国と平等の権を有する」という趣旨の日朝修好条約を締結すると、清国は朝鮮王国を属領であると主張して、この条約の破棄を要求してきた。

かかる情勢において日清が相争うはいたずらに西欧列強に漁夫の理を与えるに過ぎずとし、1885年に日清両国は天津条約を結んだ。十年後に朝鮮王国に東学等党の乱が起こると、清国は天津条約を無視して朝鮮王国へ派兵を決定し、日本もまた公使館及び遺留民保護のための出兵を行い、日清戦争の勃発となった。

日清戦争の結果、清国は下関条約で朝鮮王国の独立を承認した。清国の敗北は欧州列強の清国蚕食を誘発し、おおむね1900年頃までに帝政ロシアは旅順と大連、ドイツは膠州湾、フランスは広州湾、英国は威海衛をそれぞれ咀嚼し、これらの国々は東清奉鉄道、京奉鉄道、山東鉄道、滬寧鉄道等の鉄道敷設権を獲得した。

帝政ロシアは日清戦争直後から、清国にとって代わって露骨に韓国進出を策し、さきの三国干渉による日本の遼東半島還付もあって、韓国政府に対する日本の発言力は後退し日清戦争の目的意義はすでに完全に失われていた。

1904年2月4日に日本は対露戦を決意した。日国天皇は陸海軍人に下した勅語で「茲に朕は政府に命じて露国と交渉を断ち我独立自衛のために自由の行動を執らしむことに決定せり」と独立自衛の戦争であることを表明している。

日清戦争と日露戦争は日本の国防上、きわめて重要な朝鮮半島での問題から発展し起きた戦争である。満州事変は、ポーツマス講和会議に基づく満州における我が国の権益の保存、支那事変は満州国の安全と保衛のためのもの、大東亜戦争は自存自衛の戦争だった

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 2-3 アメリカとの交渉

1972年11月アメリカのハーバード大学の大学院の要請で、ハーバード大学とマサチューセッツ工科大学の国際関係学者50人を前に、「1930年代より大東亜戦争開戦迄の間、日本が歩んだ途の回顧」と題した瀬島龍三氏の講演の一部を要約した。

瀬島龍三氏は、1939年末から1945年7月まで日本の陸軍最高統帥部の作戦部に勤務され、全軍作戦の企画立案指導に当たり、終戦直後には満州の関東軍参謀に転じ、終戦後は11年間ソ連に幽閉抑留された。

1940年11月カトリック海外伝道協会の会長ジェームス・エドワード・ウォルシュ司教と事務総長のジェームス・エム・ドラウト神父が来日し、日米国交調整の可能性に関し、日本の天皇と政府の考えを打診した。

1941年1月13日に帰国した両神父は、1月23日ルーズベルト大統領とハル国務長官に対し、日本を代弁した形の「日本の提案」なるものを2時間半にわたり説明した

3月に「日米原則協定案」が作られ、4月13日までに第三次案の「日米了解案」が作成された。日米了解案とは、日米両国政府を道義的に拘束し、その行為を規律すべき適当な手段として作成合意されるべき秘密覚書を指す。

ルーズベルト大統領の海軍次官時代に駐米海軍武官であったということで、駐米大使に就任した野村吉三郎海軍大将は、昭和16年2月14日大統領に信任状を棒呈し、4月14日を第1回として開戦まで続いたハル国務長官との非公式会談に入った。

日米了解案で合意が成立したときは、なるべく速やかにホノルルにおいて日米巨頭会談を行い、太平洋における平和の到来を内外に誇示しようという狙いだった

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日米了解案は七項目からなり、日本が三国同盟を実質的に骨抜きにする代わり、アメリカはあらかじめ日米間合意を経た和平条件をもって、大統領が蒋介石政権に対し和平を勧告するという枠組みだった。

4月14日及び16日に日米了解案に関して野村・ハル非公式会談が行われたが、ハル国務長官はこの会談で日本政府がいわゆる「ハル四原則」を承認することが前提である旨を言明した。

ハル国務長官は野村大使に「この四原則を受け入れた上で、さきに日米間で作った非公式の提案を日本政府に送り、日本政府がこれを承認してわが方に提案すれば、われわれの交渉開始の基礎ができることになろう」と述べた。野村大使はハル四原則については前提条件とせず、日米会談で討議しても良いではないかと示唆したが、ハルはこれを受け付けなかった

野村大使は、話が進まないことを恐れてハル四原則を東京へ伝えなかった。4月23日に松岡外相は大連から帰国した。前夜、近衛首相より電話でアメリカより重大提案があったと知らされたが、野村大使の案は自分が進めてきた対米外交戦略の枠外であるとして私邸に引き籠ってしまった。

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 2-4 追い詰められた日本

1941(昭和16)年6月に近衛首相がルーズベルト大統領に提案した条件は、満州の返還を除くすべてのアメリカの目的を達成するものだった。しかも、満州の返還ですら交渉して議論する余地を残していた

7月にアメリカは、日本に対して在米資産凍結と石油の禁輸という経済制裁を行った。フーヴァー前大統領はフリーダム・ビトレイドで、これこそ「日本に対する宣戦布告なき戦争であった。アメリカを戦争へ誘導していったの他ならぬルーズベルトであった」と書いている

これまで明らかにされた冷静な歴史の光に照らしながら、1938年から1941年の期間を客観的に観察すれば、自ずと明らかである」としている。さらにアメリカは、イギリス、オランダ、中国を巻き込んで、経済封鎖という嫌がらせを行ってきた。

7月16日に第二次近衛内閣は総辞職し、18日に第三次近衛内閣が成立した。新外相は海軍大将前商工大臣豊田貞次郎であり、それは鋭意対米国交調整を促進すると言う日本の熱意の表明であったが、残念ながら野村大使にも米国防省にも十分汲みとられなかった。

8月4日に近衛首相は日米巨頭会談を決意し、陸海軍の同意を取り付けるための文書を作成した。近衛首相はこの会談を考えるにあたり、テロによる死をも覚悟していたようである

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巨頭会談に関する申し入れは、8月8日に野村駐米大使からハル国務長官に行われたが、南部仏印進駐のこともあり、ハル国務長官は日本の政策に変更無き限り大統領に取り次ぐ自信なしとひややかな態度を取られた。

8月4日以来ルーズベルト大統領とチャーチル首相との大西洋会談が極秘裡に行われ、14日にいわゆる大西洋憲章が発表された。この会談で、米、英、豪、蘭等が同時に策応して、日本に対し戦争警告を発することに合意された。

8月17日に野村大使が求めに応じてルーズベルト大統領を往訪すると対日戦争警告と巨頭会談の申し入れに対する回答を渡された。巨頭会談に関する回答は原則的賛意を表しながらも、合衆国が誓約し居るプログラム原則に従って、太平洋に関する平和的プログラムに関する従来より一層明瞭なステートメントを提示せよ、と言うものだった。

日本は8月26日に非常な熱意と努力をもって作成した回答声明と、近衛首相の大統領宛メッセージを送った。8月28日にルーズベルト大統領は野村大使を招き、近衛メッセージを非常に立派なものなりと大いに称賛した

しかし、同夜野村大使が会ったハル国務長官は、支那問題を離れて日米国交交渉は困難なりと繰り返し、従来からの懸案だった中国からの撤兵問題並びに三国同盟問題を蒸し返し、「ハル四原則」の全面的受諾を改めて要請してきた

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 2-5 最後通牒を受ける

10月12日に近衛首相の私邸で行われた近衛首相、豊田外相、東条陸相、及川海相、鈴木企画院総裁による五相会議で、政府の態度が討議された。それぞれの意見を聞いたうえで和戦の決は総理一任となった

近衛首相は「今どちらでやれと言われれば、外交でやると言わざるを得ない。戦争に私は自信ない。自信ある人にやってもらわねばならぬ。」と述べた。

この言葉に東条陸相は、「これは意外だ。戦争に自信がないとは何事ですか。それは国策遂行要領を決定するときに論ずべき問題でしょう。外交でやるということは、外交に妥結の目途ありという態度でなければならない」と反駁された

10月16日に第三次近衛内閣は総辞職した。内閣総辞職で天皇のご下問に対して、木戸内大臣はいまさら国策を白紙に戻して再検討することは極めて困難であり、陸海軍なかんずく陸軍を十分掌握し得ると共に、今日までの経験に精通した人でなければならず、和戦いずれになるにしても難局を処理しうる能力と条件を備えた人でなければならぬとして東条中将を推挙した。

近衛首相も東条中将推挙に同意され、16日にグルー米大使に対し「新内閣の単なる外見や印象により、失望落胆せぬよう」と申し送り、18日に東条内閣が成立した。

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東条首相は組閣の大命を受けたとき、木戸内大臣から天皇のご意向として、9月6日の政策を白紙に戻して国策を再検討することを要請された。国策再検討は10月30日まで各問題の検討を終わり、11月1日に総合的結論を求めることになった。

そのため、東条首相はあらかじめ三案を提示して腹構えを固めておくよう要請した。第一案は、戦争することなく臥薪嘗胆する。第二案は、すぐに開戦を決意し戦争により解決する。第三案は、戦争決意のもとに作戦準備と外交を併行させる。

国策再検討会議は11月30日まで続き、東郷外相が提案した乙案により対米交渉が12月1日午前零時までに成功すれば武力発動を中止するとしていた。乙案は、日米が南部仏印進駐または資産凍結前の状態に復帰すると言う内容である

陸軍省政策立案者石井大佐が「戦争七分、外交三分」と理解して起草した国策説明書を提出すると、東条首相兼陸相は言下に「これは戦争に傾いている。戦争五分、外交五分だ。国策を誤解しては困る、書き換えてこい」と命じた。

日本国天皇は、1941(昭和41)年11月に駐日アメリカ大使を通じて、行き詰った日米交渉において三か月間の冷却期間をおいてはどうかと提案されたがルーズベルトはこの提案も拒否した

そして、アメリカは日本側が飲めないことを承知で、次々と難題を突き付け、開戦せざるをえないように挑発し続けた。1941年11月26日に行われた野村大使と来栖外相によるハル国務長官との会談で、ハルは日本側の最終打開案である乙案を拒否する回答を伝えてからハル・ノートを手交した

乙案の目玉は、本案成立に伴い南部仏印駐屯中の日本軍を北部仏印に移駐させることでありました。このように日本側は最終的努力をいたしました。しかし、アメリカ側の受け入れるところならず、結局事態を解決するには至らなかったのであります。

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日本は開戦直後の1941年12月10日に、日本の実質上の最高意思決定機関ともいうべき大本営政府連絡会議において、今次の対米英戦争及び今後情勢の推移に伴い生起すべき戦争は、支那事変を含めて「大東亜戦争」と呼称することを決定しました

これまでの支那事変は、1949年11月末日に日本政府が南京に位置する江兆銘(おうちょうめい)の新政権を中国の正統政府として承認したので、厳密には重慶に位置する蒋介石政権に対する軍事行動というべきでしょう。

大東亜戦争は、単に大東亜の地域において行われる戦争という意味合いにすぎず、南はビルマ以東、北はバイカル湖以東の東アジア大陸、並びにおおむね東経180度以西すなわちマーシャル群島以西の西太平洋の海域を指すものであります。インド、豪州は含まれておりません。

戦後、次のような連合国総司令官マッカーサ-元帥の通達が出されした。「公文書に大東亜戦争、八紘一宇なる用語ないしその他の用語にして日本語としてその意味の連想が、国家神道、軍国主義、過激なる国家主義等と切り離し得ざるものは禁ずる」。

しかしながら、「大東亜戦争」という呼び名は、日本においては戦争中の間施行された法令条規に使用されており、それ自体覆うべからざる歴史的事実である

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3.日本は侵略をしたのか

 3-1 朝鮮半島の問題

日本外交の一番の関心事は朝鮮半島で、朝鮮半島は日本の生命線であり防衛の第一線であった。朝鮮半島へ清が侵入して支配しようとしたのを追い払ったのが日清戦争で、ロシアが満州から朝鮮に侵入してきたのを追い払ったのが日露戦争である

隣国である朝鮮の国土を守るために日本人は血を流しながら朝鮮の自主独立を願い、独立を促して近代化を応援してきた。日本の姉妹国として白人の侵略に備えられるよう手を貸し続けたが、伊藤博文首相は併合には最後まで反対で、朝鮮の自力更生を願っていた。

貧しい国を合併すると持ち出しが多く国益にはならず、朝鮮国民の面子を傷つけると考えたからである。ハルピン駅で伊藤博文首相を朝鮮人安重根が暗殺すると言う大事件が起こった。その反省と償いの気持ちから韓国内に李容九を中心とする一進会の併合推進運動が盛り上がり、賛同者は100万人にも膨れ上がった。

韓国内の下からの運動によって併合が実現し、当時の清国も欧米列強も極東の安定のためによいことと歓迎した。これは当時の資料を見れば自明のことだが、韓国では一進会を日本の御用団体と歴史の改ざんが行われている

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台湾出身の評論家である黄文雄は、著書「韓国は日本人がつくった」で次のように述べている。

韓国人は日帝36年の間に半島では数十万人が虐殺され、数十億円が略奪されたと常に主張している。(中略)韓国人は日本の進歩的文化人が日中15年戦争と語るのに対して、韓国を無視した言い方だと不満を言う。日韓50年戦争を忘れているというのだ、韓国人の主張では日清・日露以来、韓国は日本と50年もの間戦争をしてきたことになる。そして、最終的には日本の敗戦と無条件降伏となったそうである。

しかし、日本は韓国への戦争責任などまったく負っていない。そもそも日本は韓国とは戦争をしていない。日清・日露戦争は誰でも知っているが、日韓五十年戦争など今の韓国人以外は誰も知らないだろう。義兵や反日ゲリラたちにとっては常識なのかもしれないが、そんなものは愚説以外の何ものでもない。

日清戦争は清国の支配から脱して韓国を独立国にするための戦争で日本は13,800人の戦死者を出した。日露戦争はロシアの支配から韓国を守るための戦争で、日本は115,600人の戦死者を出した。しかし、韓国人は祖国の独立のためになにもせず、1人も死者を出していないのである。

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比較文化学者である中国生まれの韓国人である金文学は、日中韓新東洋三国事情で次のように述べている。

1945年8月15日、日本の敗戦により朝鮮半島は独立を迎えた。ところが、その独立の到来の方法が問題であった。有名な韓国の民族知識人ハム・ソクホンの言を借りれば、「それは盗みのように現れた不意の開放であった。」しかも、「この開放は天から落下したものであり、韓国人が日本と戦って自力で勝ち取ったものではない」と看破する。(中略)理念の高い国では、ナショナル・アイデンティティを立て直す際に、いつも外に敵を作って、それを攻撃することで再構築を狙うのである。中国も韓国も北朝鮮も、またアメリカも皆そうである

うその産地といえば東洋ではやはり中国がダントツだろう。私が東洋三国を回りながら、個人的に感じたところでは、日本人がもっとも正直で一般的にうそが苦手である。中国人のうそは一つの名物であり、韓国人はうそよりほらの方に才能がある。

中国のうその中でも、うその報告が最も有名である。中国の統計の数値は世界でもっとも信頼性に欠けると言われる。極端な話では、人民日報は西暦の日数のみが真実で、ほかはみなうそというジョークさえある。

ところで韓国人は日本人に対して「在日韓国人を差別している」と批判し、そしてそれが「反日」や「克日」の大きな原因にもなっているが、客観的に見たところ、韓国人が持っている差別意識はもっとひどいものがあると指摘したい。自分の同胞さえ寛大に受け入れることができない民族に「統一」をうんぬんする資格があるのかと言いたいほどである。一方的に日本を攻める前に、自分自身をよく反省してもらいたい。

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 3-2 満州国の悲劇

満州国は、極東アジアに初めてアジア人が自由に移住できる地上の楽園だった。広大な北方アジア大陸はロシア人が独占して現地アジア人を締め出し、極東アジアでは満州のみが未開発で残されていた。

これを日本が関東軍の力で匪賊や軍閥を排除して満州族出身の皇帝を立て、支那人・満州人・蒙古人・朝鮮人・日本人の五族協和の王道楽土を築いた。万里の長城は匈奴の侵攻を防いだが、白人に支配されていない満州を狙っていたのはロシアとアメリカだった。

塚瀬進氏の「中国近代経済史研究(1993年)」によれば、満州の人口は1898年に約5百万人、1915年には二千万人、1930年には三千万人に急増している。満州事変の十年後には四千三百万人となっている。

当時の満州国は日本帝国主義の支配下で、関東軍による弾圧、虐殺、迫害、追及があったということになっているが、年間百万人もの中国人が押し寄せているのは何を意味するのだろう。人は危険性のある土地から安全なところへ向かうはずである

関東軍が馬賊の侵入やロシアの侵入を防いで、治安維持に意を払っていた満州国の施政15年間はアジア人が自由に移住でき、居住民にとっては安心して暮らせる幸せな時代であった。アメリカは白人支配を排除した王国をつくることに反対し、白人中心の国際連盟の力を借りて満州国を承認せず日本を非難した。

日本が大東亜戦争に敗北するとロシアが大軍を侵入させ、満州は地上の天国から一瞬にして地獄となった。国際法に反して日本人六十万人を奴隷狩り同様に拉致してシベリアへ連れ去り、過酷な労働を強いてその結果六万人が生命を失った。

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  リットン報告書

満州事変に関するもっとも国際的に権威ある証拠はリットン委員会の報告書である。リットン委員会は満州事変直後に、国際連盟の決議にもとづいて編成されて現地を視察し、日中両政府の言い分と膨大なる証拠や証言を基礎にまとめ上げられたものである。

満州事変がなぜ起きたのか、その責任者はだれか、その背景をなしたものは何か、非違はいずれにあったか、これらの問題をリットン卿を長とする公正なる第三者の目でとらえて究明した国際的な文献である。報告書は満州の侵略過程を次のように列挙している。

1. ロシアは中国の犠牲に置いて、まず条約上の特別な権利を獲得した。

2. 1895年ないし95年の日清戦争は、その後の事件が立証したように、ロシア自
  身の利益のために干渉する機会を得た。

3. 中国は1895年下関条約によって南満州の遼東半島を日本に割譲した。しかるに
  日本は、露・独・仏三国の外交上の圧迫によって、やむを得ずこの半島のを中国に還
  付するにいたった。ロシアは、日本が放棄を余儀なくされたこの半島に25ヶ年の租
  租借権を獲得した。

4. ロシアは1896年、鉄道敷設ならびにこれの経営権を獲得した。

5. ロシアは1900年、義和団事件がロシア国民を危険に陥れたという理由で満州を
  占領した。

6. 他の列強はこれに反対してロシア軍隊の撤退を要求した。しかしロシアはこれを長
  引かせた。

7. ロシアは1901年、露清秘密条約を締結しようと努力していた。その条項によれ
  ば、満州、蒙古、新疆内の鉱山又はその他の利権を他国又はその国民に譲渡せず、か
  つ特別守備隊の維持を含む特別な権益をロシアに与えることになっていた。

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このようなロシアの態度に対し日本はどのように対処したか、リットン委員会の報告書は次のように記録している。

1. 日本はロシアのこのような策動をとくに注意した。

2. 日本は1902年、日英同盟条約を締結した。

3. 日本は中国の門戸開放政策の維持ならびに領土の保全を主張してロシアと交渉を開
  始した

4. 日本はその交渉においてなんら成功しなかったので、1904年2月に戦争に訴え
  た。

5. ロシアは敗北した。1905年9月ポーツマス条約が締結され、それによってロシ
  アは日本のために南満州における特殊権益を放棄した。

6. 1905年の北京条約によって、中国は関東州租借地ならびにロシア管理の東支鉄
  道南部線中、長春以南の鉄道を日本に譲渡することに対して承認した。

7. 19006年、日本によって南満州鉄道会社が設立された。

8. 日本はこのようにして獲得した特権を、南満州の経済開発に利用した

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日露戦争後の日本とロシアと中国の関係について、リットン報告書はつぎのように述べている。

1. 日露先行終了後の直後、両国間に密接な協調政策がとられた。

2. ロシアおよび日本は、それぞれ北満州及び南満州にその勢力圏を限定した。

3. 1917年のロシア革命は、満州における日露両国間の理解および協調の基礎を粉
  砕した。

4. ロシア革命は北満州における中国の主権を主張する好機を与えた。中国は満州の政
  治および開発に関して、従来より以上の実際裁的参加をするようになった。

5. 1919年と20年に行ったソ連政府の宣言は、北満州におけるソ連の特権の完全
  なる放棄を暗示した。

6. その結果として、1924年にソ連と中国間の協定が成立した。

7. 中国は満州にあるソ連の勢力をことごとく清算しようと最後の努力をした。

8. この結果、ソ連軍は満州国境を越えてしばしば襲撃を行いつつ、ついに1929年
  11月武力侵入にまで発展した。

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このような、満州をめぐる日本とロシアとの歴史的関係の中で孫文の革命が成功する。19923年に国民党が結成され、27年には中央政府が南京に樹立されたが、張作霖は満州の独立を宣言し、袁世凱は北京政府を主張した。中国は三つの政府に分かれ、匪賊が跳梁し群雄が跋扈した。この間に共産主義運動が伸びていった。リットン報告書はつぎのように記述している。

a. 中国における共産主義運動は1921年以来相当な勢力を得た。共産主義に対して
  寛大であった容共時代が過ぎて、1927年に国民党と共産党は完全に分裂した。

b. 内乱の再発は1928年ないし31年の間に共産党の伸長に幸いした。赤軍が組織
  され、江西および福建両省間の広大な地域がソビエト化された。

c. 中国における共産主義は国民政府の競争相手となった。それは自らの法律、軍隊を
  持ち、かつそれみずからの行動地域を持っている。かような事態はどのような国にそ
  の類例を見ない。

d. 以下略。

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このような共産勢力の伸長と国内治安の紊乱というよりほとんど無政府状態、法律の秩序を持たない無法未秩序の状態が続いた。ことに満州は匪賊の巣窟で、その鎮圧は長期にわてって閑居され、はなはだしきは兵士が匪賊と内応していた

そこへ排日運動がものすごい勢いで燎原の火のように燃えあがった。リットン報告書はつぎのように記述している。

13. 国民党は、あらゆる外部勢力に対する嫌悪という追加的な異常な色彩を、中国の国
  民主義思想を注入するに至った。

15. ワシントン協約は中国の困難を解決するため、中国をして国際協調の線に沿って発
  足させると言う意図のもとにできたのである。中国はその行っていた排外宣伝の惨毒
  に禍されて、その希望しかつ期待された進歩を遂げることはできなかった。

経済的ボイコットの利用と学生に対する排外宣伝の注入は、やがて中国に居住する外国人の生命と財産をおびやかすにいたり、この中国の態度は列強を驚愕させたのである。そのもっとも大きな被害者は日本であった

19. 日本は中国の最も近い隣国であってかつ最大の取引先である以上、日本は交通機関
  の不備にもとづく無秩序な状態、内乱の危険、匪賊及び共産主義の脅威などのため他
  のいずれの強国よりもいっそうひどく悩まされたのである。日本は他のいずれの国よ
  りも国民を中国に持っている現状において、中国の法律、司法制度ならびに税制に服
  従させられたならば、これらの国民ははなはだしく苦しむことになる。

20. 中国にある日本国民の生命及び財産を保護しようとする熱望は、日本をして内乱ま
  たは地方的騒乱の際、しばしばこれに干渉させる結果となった

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日中両国の悪循環は次第に頂点に達していった。そして、ついに中村大尉事件が起き、万宝山事件が起きて満州事変へと発展していった。リットン報告書は、満州事変の経済的背景と心理的背景として、次の点を指摘している。

a. 広大かつ肥沃な地方である満州は、わずか40年前までほとんど開発されず、また
  現在においてさえ人口希薄である。

c. 日本の活動がなければ、満州は多くの人口を誘致し、またこれを吸収することはで
  きなかったであろう

c. 最初、満州におる衝突は日露間で起こった。その後これは中国とその強力な隣接国
  との間の問題となった。

d. 最初、満州が各種政策の衝突地域となったのは、その戦略的地位が唯一の理由であ
  った。その後日本人によって満州の農業、工業および林業資源が開発されると、満州
  は満州自体のために垂涎されるに至った

29. 満州における日本緒権益は、その性質および過程において、全く諸外国のそれと
  は異なっていることを認めなければならない。

a. 1904~05年、満州の野において戦われたロシアに対する日本の大戦争の記憶
  は、すべての日本人の脳裏に深く刻み込まれている

b. この戦争は、ロシアの侵略の脅威に対して、自衛のために日本は生死を賭して戦っ
  たものである

c. 満州における日本の権益は、その源を右の戦争よりも十年前に発している。

d. 1894~95年の清国との戦争は、下関に置いて署名された講和条約をもって終
  わりを告げ、中国はその条約で遼東半島の主権を日本に割譲したのである。

e. 日本人にとっては、ロシア、フランス、ドイツが右の割譲地の放棄を強制した事実
  (三国干渉)は、日本が戦勝した結果として満州の右の部分を獲得し、これによって
  日本の同地方に対する一個の道義的権利を得、その権利は今もなお存続するものであ
  ると言う確信に、何ら影響を及ぼすものではない

f. 満州はしばしば日本の生命線であると称されている。満州における日本の利益の中
  で根本的なものは、日本の自衛と国際的生存にとって、同地方の有する戦略的重要性
  である。

多数の日本人残留孤児を保護して育ててくれたのは満州人であり、現地人が日本の施政を恨んでいなかった証拠である。マスコミは中国残留孤児としているが、正しくは満州残留孤児である。改めて満州国の建国に苦労された日本人と満州人に感謝したい。

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 3-3 支那兵は無給だった

日本の支那大陸侵略のまぎれもない証拠とされる支那事変の発端である盧溝橋事件は、スターリンが後ろで糸を引き中共軍に仕掛けさせた罠だった。盧溝橋事件をきっかけとして通州事件、上海事件と次から次へと反日、抗日のゲリラ戦を展開し、在支日本人と軍属を虐殺して、その鎮圧のために日本軍が出動しなければならない状態に追い込まれた。

支那事変は日本が好んで支那大陸に侵攻したのではなく、無理やり引きずり込まれた事件だった。盧溝橋事件は中共が仕掛けたことが明らかだったため、東京裁判でやぶ蛇になるからと一切取りあげられなかった

第二次大戦の見直しで世界的な反響を呼んだアルバート・C・ウェデマイヤー米将軍の手記「第二次世界大戦に勝者なし」には、日本の先制攻撃によって米国の参戦を導こうとしたルーズベルト大統領の画策や、ヨーロッパ戦線の主導権を巡るチャーチル英首相と米軍首脳との確執など、当事者のみが知り得た赤裸々な舞台裏が明らかにされている。

日本は中国軍と直接戦っていない。日本軍は支那軍との大規模な会戦などはひとつもなくゲリラ掃討作戦にすぎなかった。蒋介石のアメリカ軍事顧問であったウェデマイヤー将軍は回想録「第二次世界大戦に勝者なし」の中で次のように述べている。

中国民を苦しい目に遭わせたのは日本軍でなく支那兵だ。支那兵は逃亡に際して略奪、放火、強姦のやり放題だった。それが唯一の彼ら兵士のボーナス、サラリーだったからである。

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 3-4 特攻隊員の願い

1944(昭和19)年10月25日から1945(昭和20)年8月15日までのおよそ10ヶ月間に海軍の特攻機2367機が敵艦隊に突入して約2524人が散華した。同じく、陸軍の特攻機は1129機を数え、約1386人が散華した。水中からは人間魚雷「回天」が敵艦を狙い撃ちにし、島影からは特攻艇「震洋」が敵艦艇に襲いかかった。

特攻攻撃によって撃沈破された連合軍艦艇は約278隻を数えた。米軍の戦死者は1万2300人、重傷者は3万6千人にのぼったとされる。加えて、あまりの恐怖から戦闘神経症の患者が続出した。

最も被害の大きかった沖縄戦では、沈没艦艇50隻、空母と戦艦を含む損害艦は3百隻以上、損失航空機は7百機を超え、戦死者は5千人を数えたと米軍の戦史記録がある。これは海軍の特攻機1026機(1997人)、陸軍の特攻機886機(戦死1021人)の計1912機(戦死3018人)によるものだった。

特攻隊は、決して「犬死」になどではなかった。特攻隊を犬死としたのは戦後のGHQによる情報操作と左翼思想家の捏造である。日本軍の肉弾攻撃は、敵の戦意を挫くほどの大戦果を上げていた。ところが戦後のマスコミはこの軍事的な勝利をひた隠し、ただ戦争の悲劇の代名詞としてあるいは戦争の犠牲者の象徴として特攻隊を位置付け、イデオロギー闘争の手段として彼らを利用してきた。

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彼らはうそぶく。「特攻隊委員は本当は行きたくなかったのだ。みな、お母さん!と叫んで死んでいった戦争の犠牲者なのだ」と。しかし、特攻隊の教官を務めた田中竹尾元陸軍准将はこうした虚構をきっぱり否定する

出撃前、特攻隊員は仏様のような綺麗な顔でした。目が澄み切って頬が輝いておりました。彼らは皆、愛する祖国と愛する人々を守るために自ら進んで志願していったのです。戦後言われるように自分が犠牲者だと思って出撃していった者など一人としておりません。みな「後を頼む」とだけ遺して堂々と飛び立っていったのです。

そして、特攻隊は未曾有の大戦果を上げた。これが特攻隊の真実である。多くの部下の壮途に立ち会った大西中将はそれから10ヶ月後に迎えた終戦の日の夜、次のような遺書を遺して自刀された。

特攻隊の英霊に曰す。善く戦ひたり。深謝す。最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり。然れ共其の信念は遂に達成し得ざるにいたれり。吾死を以て旧部下の英霊とその遺族に謝せんとす。

次に一般青壮年に告ぐ。我が死にして、軽率は利敵行為なるを思ひ聖旨に副い奉り、自重忍苦するの誠ともならば幸なり。隠忍するとも日本人たるの矜持を失ふ勿れ。諸子は國の宝なり。平時に処し猶克く特攻精神を堅持し、日本民族の福祉と世界人類の和平の為、最善を尽せよ。

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 3-5 日本が行ったこと

白人の植民地支配は、武力により有色人種と資源を略奪する対象の土地を指す。それは自国の国益のためだけで、植民地住民の利益や国益などは眼中に置かない。英国のインド植民株式会社の例の通り、利益の追求が目的で原住民の福祉を考えることがなかった。

これに対して、日本の植民地とされるところはすべて日本に隣接する土地で、同じ顔のアジア人の土地である。台湾も樺太も朝鮮も、軍隊を派遣して力づくで奪ったものは一つもない。

台湾と樺太は敵の侵略に対する自衛戦争の勝利で、賠償として国際条約により合法的に自国に組み込まれたもので、朝鮮も二国間の条約に基づくチェコスロバキアのような併合である

原住民の生活や文化を日本人と同じレベルに引き上げようとする皇民化政策で、知識を開き拓殖を意図している。学校・道路・鉄道・港湾・病院など、社会基盤の整備に大変な努力をはらい、当時の国家予算の一割をそのために投資し続けていた。

西欧の植民地では、教育などを行うと独立運動の反乱分子を要請することになるからという理由で絶対にやらない。日本は、朝鮮の一村に一校を建て、住民は初めて義務教育を受けてハングルも覚えた。京城帝大や台北帝大は名古屋や大阪帝大よりも先に造られた

日本の植民地教育の成果は、戦後独立した台湾と韓国がアジアで日本に次ぐ工業先進国になったのを見てもわかる。韓国は、日本についでアジアでオリンピックを開くほどの先進国になった。

日帝三十六年が悪政なら、日帝の台湾はもっと悲惨な国になっているはずである。台湾は日本統治が長かっただけ教育や社会基盤整備が進み、戦後アジア第一の外貨を持つ近代国家に成長している。

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台湾はマッカーサー占領政策に侵されなかったおかげで、大東亜戦争を正しく評価し、日本人として大東亜開放の聖戦に参加したことに誇りを持っている。靖国神社には台湾人の英霊が2万7千人が祀られている。

フイリピンはスペインとアメリカの白人植民地支配下にあったため、固有の文化も言語も否定され、英語とキリスト教を強制され、アジアでは貧しい国のままで留まっている。

明治に来日した西欧人が、日本の社会生活を観察して最初の驚きは、日本人は鍵を知らない民族であることだった。夜、集落の家々がカギを掛けず、外から蚊帳を吊って寝ている姿が見えても、平気で暮らしていることだった。

キリスト教や仏教が第一に「人を殺すな」が道徳であり人倫の道と初めに出てくるが、日本では十七条憲法でも「和をもって尊しとなす」である。人を殺すなと教える必要がない国であった

日露戦争の旅順開城の折りに、垂市営の会見で乃木大将は敗者のステッセル将軍を招いて、敵ながらよく戦った、昨日の敵は今日の友とねんごろに遇した。対するマッカーサーは、戦争が終わると日本の責任者であった東条首相らを絞首刑に処した。

日本人の残虐行為とされる事件の多くは、蒋介石のアメリカ軍事顧問であったウェッドマイアー将軍は回想録では支那兵によるものであるとしている。ジョン・ラーバの「南京の真実」にも、支那敗残兵による自国民虐殺の事実が指摘されている。

最近の研究でも、「重慶爆撃による犠牲者たち」と題された写真が爆撃による死者ではなく、当局の空襲警報発令ミスによりパニックが起こり、その混乱で圧死した中国人を他の中国人が衣服をはぎ取って略奪した後の写真であることが明白になった。

悪魔の飽食と題されて、旧関東軍の731部隊の人体実験を告発した本に使われた写真も、共産主義者のデッチアゲであることが分かりその本は絶版となった

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 3-6 不可解な行為と正論

2000(平成12)年にマスコミは、検定中の「新しい歴史教科書」の記載漏れを指摘して批判を巻き起こした。新聞各社やテレビ・ラジオで誹謗・中傷が繰り返され、中国や韓国が反発して修正を要求していることが告げられた。

東京大学大学院情報学環教授の山下博文文学博士は、著書「こんなに変わった歴史教科書」で教科書の検定方法について次のように述べている。

中学の教科書は、大学で教える各時代の専門家と中学で教える現場の教師によって作られている。原則として大学教員が教科書の原案を執筆し、教える立場から中学の教師が意見をつける。そして、編集会議で議論を重ねることによって、新しい教科書ができる。

表紙がまだついていないことから、これは「白表紙本」と通称される。「白表紙本」は、文部科学省に提出され、検定を受ける。検定は、教科書調査官によって詳細に行われ、教科用図書検定調査審議会の審議を経て、必要な場合は検定意見が付けられる。

検定意見を渡される時は、教科書会社の編集者と執筆者が文部科学省に赴き、検定意見を聞き、文書を渡される。これを受けて再び編集会議を開き、必要な訂正を行い、これが認められてようやく検定済み教科書ができるのである。

このような過程を経て検討され、検定中は守秘義務のある教科書内容がなぜ漏れたのだろう。また、守秘義務のあることを知りながら報道し、議論を巻き起こすマスコミの行為にも疑問を抱く。戦時中の歴史的事象を隠蔽して日本を加害者としているマスコミに、記載漏れを指摘できる資格があるのだろうか

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国民の知る権利に答えようと、2001(平成13)年6月に電気通信大学の西尾幹二名誉教授を中心とした13名の学者が「市販本 新しい歴史教科書」を世に問うた。8月に発刊された第4版は証拠主義に基づく事実が網羅された日本民族の歴史であり、世界の歴史の流れの中で発生した日本の事象を客観的に捉える努力がみられた。

「市販本」新しい歴史教科書(発行所:株式会社扶桑社)には、「歴史を学ぶとは」で次のように述べられている。

歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだと考えている人がおそらく多いだろう。しかし、必ずしもそうではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことなのである。

歴史を学ぶとは、今の時代の基準からみて、過去の不正や不公平を裁いたり、告発したりすることと同じではない。過去のそれぞれの時代には、それぞれの時代に特有の善悪があり、特有の幸福があった。

歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることでは必ずしもないと言ったが、過去の事実を厳密に、そして正確に知ることは可能ではないからである。何年何月何日にかくかくの事件が起こったとか、誰が死亡したとかいう事実はたしかに証明できる。それは地球上のどこにおいても該当する事実として確定できる。けれどもそういう事実をいくら正確に知って並べてもそれは年代記といって、いまだに歴史ではない。いったいかくかくの事件はなぜおこったのか、誰が死亡したためにどういう影響が生じたかを考えるようになって、初めて歴史の心が動き出すのだと言っていい。

しかしそうなると、人によって、民族によって、時代によって、考え方や感じ方がそれぞれまったく異なっているので、これが事実だと簡単に一つの事実をくっきりえがきだすことは難しいということに気がつくであろう。

歴史を固定的に、動かないもののように考えるのをやめよう。歴史に善悪を当てはめ、現在の道徳で裁く裁判の場にすることもやめよう。歴史を自由なとらわれのない目で眺め、数多くの見方を重ねて、じっくり事実を確かめるようにしよう。そうすれ、おのずと歴史の面白さが伝わってくるようになるだろう。

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4.事実を正確に知る

戦後、日本の常識は世界の非常識と言われている。米国は日本にとって明らかな侵略者であり外敵である。しかし、日本の敵は東条英機などの軍閥や戦前のリーダーたちで、日本の歴史、文化、伝統などもすべて同罪と洗脳され、真の敵を忘れて敵を見失ってしまった。国家は悪に滅びず、愚に滅ぶといわれる。この状態を放置すると国危うしである

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 4-1 自存自衞を目指した宣言

1943(昭和18)年11月5日に東京で「大東亜会議」が開催され、中華民国から国民政府行政院長の汪兆銘(オウチョウメイ)、満州国から国務総理大臣の張景恵(チョウケイエイ)、ビルマからパー・モウ首相、フィリピン共和国からホセ・ペー・ラウレル大統領、タイ王国からワンワイタヤコーン殿下に加え、オブザーバーとして自由インド仮政府の首班チャンドラ・ボースが参加し、アジアの独立と共存共栄を謳った「大東亜共同宣言」が11月6日に採択された。

  〇 大東亜共同宣言

世界各国が、民族毎に自分たちの土地を持ち、お互いにたすけあって、ともに国家として発展し、みんなで明るく楽しみをともにするためには、まず世界平和の確立がその根本です。

けれども米英は、自国の繁栄のためには、他国や他の民族を無理矢理押さえつけ、とくに東亜諸国に対しては飽くなき侵略と搾取を行い、東亜諸国の人々を奴隷するという野望をむきだしにし、ついには東亜諸国の安定そのものを覆(くつがえ)そうとしています。つまり、東亜諸国の戦争の原因は、そこにその本質があるのです。

そこで東亜の各国は、手を取り合って大東亜戦争を戦い抜き、東亜諸国を米英の押さえつけから解放し、その自存自衞をまっとうするために、次の綱領にもとづいて、大東亜を建設して世界の平和の確立に寄与したいと考えます。

一、東亜諸国は、協同して東亜の安定を確保し、道義に基づく共存共栄
  の秩序を建設します。

一、東亜諸国は、相互に自主独立を尊重し、互いに助け合い、東亜諸国
  の親睦を確立します。

一、東亜諸国は、相互にその伝統を尊重し、各民族の創造性を伸ばし、
  東亜諸国それぞれの文化を高めあいます。

一、東亜諸国は、互いに緊密に連携することで、それぞれの国家の経済
  の発展を遂げるとともに、東亜諸国の繁栄を推進します。

一、東亜諸国は、世界各国との交流を深め、人種差別を撤廃し、互いに
  よく文化を交流し、すすんで資源を解放して、世界の発展に貢献して
  いきます。

「大東亜共同宣言」の原文と現代語訳を Wikipedia より引用させていただきました。

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 4-2 バターン死の行軍

残酷と非難されたバターン死の行軍を、ジェ-ムス L. ネルソン氏は「バターン死の行進ーその原因の再考」で次のように述べている。

フィリピンの失陥は米国史上における米軍最大の敗北であり、バターン死の行進は降伏した米兵と、フィリピン兵に対する最も残虐な戦争犯罪であった。

ニューレンベルグ裁判の太平洋戦争版である極東軍事裁判は、日本軍による戦争犯罪の規模と内容に関して概要を確立したが、バターン死の行進を引き起こした全ての原因については充分に究明しなかった。

極東軍事裁判が因果関係に関する全ての要因を見つけられなかったことが、それほど責められるべきではなかった者が処刑され、最も責められるべき者が正義の裁きから逃れる、という状況を生んだのであった。

1942(昭和17)年4月3日のサマット山の総攻撃でキング少将が降伏を決断し、マッカーサーに残された部下たちは餓死するかマラリアなどでの死に怯えて日本軍に投降した。投降してきたのは日本側の予想を超える7万5千人だった

予想外の捕虜の数に与える食糧が不足し、捕虜収容所へ輸送するトラックも不足した。投降した米比軍7万5千人は、炎天下88キロもあるルソン島中部オドンネル収容所まで徒歩で行軍した。衰弱していた兵やマラリアにかかった捕虜は途中で亡くなった。これが悪名高き「バターン死の行進」と呼ばれる。

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行進する捕虜を監視する日本兵はどのような状態だったのだろう。第六十五旅団第百四十一連隊長の今井武夫大佐の談話が「戦争と人間の記録バターン戦(御田重宝 徳間書店)」に掲載されている。

捕虜は数人の日本兵に引率され、着の身着のままの軽装で、飯盒と炊事用具だけをぶら下げ、えんえんと続いていました。疲れれば道端に横たわり、争って木陰と水を求め、勝手に炊事を始める等、規律もなかったのですが、呑気と言えば呑気なものでした。

我々は、背嚢を背に、小銃を肩にした二十キロの完全装備で、隊伍を整えての行軍でした。正直言って、捕虜の自由な行動がうらやましかったぐらいでしたね。

このバターン半島の死の行進ルートをジャーナリストの笹幸恵さんが実際に歩いて検証し、風邪気味であるにもかかわらずなんなく歩けたとおっしゃっている。タレントの西村知美さんは2002年の24時間テレビで100Kmマラソンを走っている。飯盒と炊事用具だけをぶら下げた誇り高き米兵が騒ぐほどのことだったろうか

地元フィリピン人の説明によると、当時捕虜たちはバターン半島のバガグとマリベスの二ヶ所から徒歩でサンフェルナンドまで歩き、そこから汽車でカバスまで護送され、収容所のあるオドネルまでの6kmを再び歩いたと云う。

敵前逃亡して「I shall return」といったダグラス・マッカーサーは、残された在比米軍司令官ウェーンライト中将に「絶対降伏してはならない」と過酷な命令を出し続け、部下を救うためにやむなく降伏したウェーンライト中将にフィリピン戦敗北の責任を転嫁していた。

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 4-3 日本軍の規律

H・N・アレンの「朝鮮見聞記」では次のように述べている。

この頃の日本軍の軍紀と準備状態はまさしく奇跡的だった。なぜなら軍紀と準備は全く期待できなかったからである。世界はこのとき初めて、日本の軍事組職の卓越さを知ることになった

イザベラ・バードの「朝鮮紀行」で、彼女の目に日本軍はこのように映っていた。

住民たちは三世紀前の遺産である憎しみから日本兵を嫌っているが、彼らに対してはなにも言えないでいる。日本兵がきちんと金を払ってものを買い、だれにも危害を加えず、庁舎の門外にはめったに出てこないことを知っているからである

この町でも、またほかのどこでも、人々は日本人に対して激しい嫌悪感をいだきながらも、日本人が騒ぎを起こさず、なにを手に入れるにもきちんと金を支払っていることを認めざるをえない

そのあとの占領中、日本軍は身を慎み、市内および近郊で得られる物資に対してはすべて順当な代金が支払われた。日本兵を激しく嫌ってはいても、人々は平穏と秩序が守られていることを認めざるをえず、また、日本軍が引き上げれば、訓練隊がのさばることもよくわかっていた

慈山でもほかと同様、人々は日本人に対してひとり残らず殺してしまいたいというほど激しい反感を示していたが、やはりほかのどこでもそうであるように、日本兵の品行のよさと兵站部に物資をおさめればきちんと支払いがあることについてはしぶしぶながら認めていた

わたしは日本が徹頭徹尾誠意をもって奮闘したと信じる。経験が未熟で往々にして荒っぽく、臨機応変の才に欠けたため買わなくてもいい反感を買ってしまったとはいえ、日本には朝鮮を隷属させる意図はさらさらなく朝鮮の保護者としての、自立の保証人としての役割を果たそうとしたのだと信じる。

W・F・サンズ「朝鮮備忘録」で次のように述べている。

日本人たちは誰もが無秩序を考えすらしなかった。彼らはよく訓練されているのみならず、自制力が強い民族だった。日本軍が朝鮮人と接触する際の鄭重さと配慮には、誰もがさらに驚かされた。

F・A・マッケンジー「朝鮮の悲劇」で次のように述べている。

日本軍は、当初、非常な節制のもとに行動した。彼らは、自分たちに敵対した韓国官吏たちを処罰せずにそのままにしておき、そのうちの幾人かはただちに日本側の仕事に採用したりもした。北方へ進撃中の部隊は、厳格な規律を保ち、住民をも丁寧に取り扱った。徴発した食糧にも公正な代価を支払い、運搬人として軍役に動員した数千人の労務者に対しても、おうようにしかも敏速に補償を行なって彼らを驚かせた。

リリアス・アンダーウッドは「まげの国の15」で次のように述べている。

ソウルにとどまった私たちは多かれ少なかれ健康を害したが、情勢は平穏で秩序があった。日本軍の規律は大したもので、ソウルの朝鮮人と外国人の秩序と快適さは、勝利したこの東国の軍隊の慈悲のおかげである

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ウィリアム・グリフィスは「隠者の国・朝鮮」で次のように述べている。

朝鮮はその土壌に二国の大軍団が踏み込んだにもかかわらず、驚くほど被害が少なかった。朝鮮人たちは日本人に嫌々ながら提供した労役と物資に気前の良い支払いを受け、この場合日本人は過剰な丁重さから害を被らなかった。

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 4-4 神風特別攻撃隊の慰霊祭

関行男大尉率いる敷島隊が、マバラカット基地を飛び立ってから56年目にあたる2000(平成12)年10月25日、フィリピン・ルソン島のパンパンガ州マバラカットで神風特別攻撃隊の戦没者慰霊祭が執り行われた。

慰霊祭を取材していたフィリピン人ジャーナリスト・ジョジョ・P・マリダ氏は、大西中将の写真を手に若干25歳の青年は次のように語った。

この式典は日本とフィリピンの関係を知る良い機会です。私自身カミカゼについて多くの書物を読みました。やはりその尊い生命を国家にささげた関大尉は「英雄」だと思います。またカミカゼ・アタックを考案した大西瀧治郎中将も尊敬すべき「武士」です。

大西瀧治郎中将や関行雄大尉の名前を知っている日本の若者は、果たしてどれほどいるだろうか。フィリピンの若者が我々の先人を「英雄」と崇め、大西中将を「武士」と称賛してくれていたのだ

慰霊祭に参列されたダビエル・H・ディゾン氏(70歳)は次のように語った。

今から35年前に私は神風邪特攻隊の本を読んで涙がとまらなかったのです。こんな勇気や忠誠心をそれまで聞いたことがなかったからです。同じアジア人としてこのような英雄が、マバラカットと私の町アンヘレスで誕生したことを誇りに思っています。

私はヨーロッパ・アメリカ・中国・フィリピンの歴史を様々な角度から検証してみました。その結果、なぜ日本が立ち上がり、戦争に打って出たのかがよくわかったのです。そして日本が、欧米列強の植民地政策に甘んじていたアジアを叱咤した理由も理解できたのです

当時、白人は有色人種を見下していました。これに対して日本は、世界のあらゆる人種が平等であるべきとして戦争に突入していったのです。神風特別攻撃隊は、そうした白人の横暴に対する力による最後の「抵抗」だったと云えましょう。

神風邪特攻隊を始め、先の大戦で亡くなった多くの日本軍人をどうか敬ってください。これは私から日本の若者たちヘのメッセージです。

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タルラック州バンバン村でも慰霊祭があった。(中略)1999年(平成11)年10月25日に建立された白い慰霊塔には、地元の人の手になる不慣れな日本語で「慰霊塔」「特攻隊戦死之碑」「航空隊魂」の文字が記されていた。

ここでも日本人僧侶らによる仏式の慰霊式典が行われたが、なによりも私を驚かされたのは授業中にもかかわらず多くの学生が参列していたことである。私は式典に参加した地元サン・ロック高校の女子学生達に、神風特攻隊をどう思うかと訪いてみた。すると彼女らは声を揃えた。

「Brave!(勇敢!)」、その中の一人が続ける。「フィリピンにも英雄はたくさんいます。ですから私達も神風特攻隊という日本の英雄をたいへん尊敬しています。」

さらに引率の男性教師は次のように語ってくれた。

こうした歴史教育を通して、子どもたちに国を守ることの大切さを知ってほしいのです。」

私は学生たちにもう一度訪いた。「君達は、カミカゼのパイロットを尊敬しているのですね」。屈託のない笑顔で皆は答えた。「もちろんです!だってあの人たちはヒーローですもの」。

異民族の侵略を受けつづけたフィリピン人の痛覚は、ダイナミックな歴史館と愛国心を産んだ。そしてそんな土壌に”英雄”を敬う気風が生まれた。この国の国歌にも「誉れ高い英雄たちの生まれた国を崇めよ」という一節がある。だからこそフィリピンの人々は、祖国を守るために生命をかけた神風特攻隊を挙って英雄と称えるのだろう。

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5.アジア諸国の評価

井上和彦氏の著書「日本が戦ってくれて感謝しています」「日本が戦ってくれて感謝しています2」を読んで驚いた。東南アジアの国々に多大なご迷惑をかけたと聞いていたが事実はまるで異なっていた。以下は同著書から多くを転載させていただいた。

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① ジャワハルラール・ネルー初代首相

インドは程なく独立する。その独立の契機を与えたのは日本である。インドの独立は、日本のおかげで30年早まった。この恩は忘れてはならない。これはインドだけではない。インドネシア、ベトナムをはじめ東南アジア諸民族すべて共通である。インド国民は、日本の国民の復興にあらゆる協力を惜しまないであろう。他の東亜諸民族も同様である。

② ラグ・クリシュナン大統領

インドは当時、イギリスの不沈戦艦を沈めるなどということは想像もできなかった。それを我々と同じ東洋人である日本が見事に撃沈もした。驚きもしたが、この快挙によって東洋人でもやれるという気持ちが起きた

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③ タイ王国ククリット・プラモード首相

日本のおかげで、アジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが生まれた子供はすくすくと育っている。今日東南アジアの諸国民が米英と対等に話ができるのは、一体誰のおかげであるのか。それは身を殺して仁をなした、日本というお母さんがあったためである。この重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大決心をされた日である。我々はこの日(1941年12月8日)を忘れてはならない。

④ インドネシア モハメッド・ナチール元首相

アジアの希望は植民地体制の粉砕でした。大東亜戦争は私たちアジア人の戦争を日本が代表して敢行したものです

大東亜戦争というものは本来なら私達インドネシア人が、独立のために戦うべき戦争だったと思います。もしあの時、私たちに軍事力があったなら、私たちが植民地主義者と戦ったでしょう。大東亜戦争はそういう戦いだったんです。

⑤ インドネシア アラムシャ 元第3副首相

我々インドネシア人はオランダの鉄鎖を断ち切って独立すべく、350年間に亘り幾度か屍山血河の闘争を試みたが、オランダの狡知なスパイ網と強靱な武力と苛酷な法律によって圧倒され壊滅されてしまった。それを日本軍が到来するやたちまちにしてオランダの鉄鎖を断ち切ってくれた。インドネシア人が歓喜雀躍し感謝感激したのは当然である

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⑥ インドネシア ブン・トモ 元情報相

我々アジア・アフリカの有色民族は、ヨーロッパ人に対して何度となく独立戦争を試みたが全部失敗した。インドネシアの場合は350年間も失敗が続いた。それなのに、日本軍が米・英・蘭・仏を我々の面前で徹底的に打ちのめしてくれた。我々は白人の弱体と醜態ぶりをみて、アジア人全部が自信をもち独立は近いと知った

一度持った自信は決して崩壊しない。そもそも大東亜戦争は我々の戦争であり我々がやらねばならなかった。そして、実は我々の力でやりたかった。それなのに日本にだけ担当させ、少ししかお手伝いできず、誠に申し訳なかった

⑦ インドネシア アリ・ムルトポ准将

日本はアジアの光である。大東亜戦争は欧米人にアジア人の勇敢さを示したものでアジア人の誇りである。今、忽然として日本民族がこの地球上から消えたら韓国が一番困ると思う。もし、日本がシンガポールの地点にあったら、インドネシア人の成功は容易である。つまり、日本の近いところに位置していることは、幸運なのだ。経済的支援を連続的に受けていると言ってもよいくらいだ。

インドネシアが日本に近ければ、今のような貧弱なインドネシアではない。つまり、我々インドネシア人は、「日本はなにもしてくれなくてもよい」と考えている。日本は欧米と肩を並べて進歩しているだけで十分、アジア・アフリカにつくしていると考えている。だから、我々アジア人は外交面に弱い日本を支援したいと思っている

その戦争において、特別な功労を立てた戦死者は首都ジャカルタ郊外のカリバタ国立英雄墓地に祀られた。実はそこに彼らの国の英雄たちと一緒に11名の日本人が手厚く葬られているのである。(カリバタ以外にも各地区の英雄墓地に32名の日本人が祀られている)。

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⑧ インドネシア サンパス元復員軍人省長官

特にインドネシアが感謝することは、戦争が終わってから日本軍人約千人が帰国せず、インドネシア国軍と共にオランダと戦い、独立に貢献してくれたことである。日本の戦死者は国軍墓地に祀り、功績を讃えて殊勲章を贈っているが、それだけですむものではない。

⑨ ビルマ パー・モウ首相

ビルマ人は、アジアをまとめてアジアを救う指導者を待望していましたが、遂にこの期待に大日本帝国は答えてくれました。ビルマ人はこのビルマに対する最大の貢献に対する日本への感謝を永久に記録します

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⑩ 元インド国民軍大尉 S・S・ヤダヴ氏

元インド国民軍大尉で全インドINA事務局長のS・S・ヤダヴ氏は、DVD「自由アジアの栄光(日本会議事業センター)」で次のように語った。

インドの独立には、国民軍への忠誠心が大きな影響を与えました。しかし、我々国民軍を助けてくれたのは日本軍でした。インパールの戦争で6万の日本兵士が我々のために犠牲となってくれたのです。我々インド人は子々孫々までこの日本軍の献身的行為を決して忘れてはいけないし、感謝しなければならないのです。

日英両軍の大激戦地の一つであるマニプール州2926高地のふもとには、現地の人々によって建てられた日本兵の慰霊塔があり、毎年日本兵の供養が行われています。ふもとに住まわれるグルモハン・シン氏は上記DVDで次のように語っている。

日本の兵隊さんは命を張って私たちを戦場から逃がし、戦ってくれました。いまこうして私たちが生きていられるのも、みんな日本の兵隊さんのおかげだと思うと、感謝の気持ちでいっぱいになります。一生この気持ちは忘れることはできません。

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⑪ ロトパチン村のモヘンドロ・シンハ村長

日本の兵隊さんは飢えの中でも実に勇敢に戦いました。そして、この村のあちこちで壮烈な戦死を遂げられました。この勇ましい行動のすべてはみんなインド独立のための戦いだったのです。私たちはいつまでもこの壮烈な記憶を若い世代に残していこうと思っています。そのためここに兵隊さんへのお礼と供養のため慰霊塔を建て、独立インドのシンボルとしたのです。

日本兵が去ったのち、激戦地だったコヒマに群生し始めた紫の花は「日本兵の花」と名づけられ、日本兵に破壊されたイギリス軍のM3グラント戦車が「勇気のシンボル」として保存されている。

現地の人々は、日本人が軍紀粛清で特に婦女暴行がまったくなかったことを常に称賛している。それは、コヒマでもインパールでも同様だった。日本兵を追ってきたイギリス軍は、略奪と婦女暴行が相当ひどかったため、統制のとれた日本軍の姿が心に残ったのである

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⑫ ペリリュー島の桜を讃える歌

パラオ共和国のインフラを整備、教育の拡充、産業の育成に尽くした日本人は、それまで平和だった島に猛烈な艦砲射撃と空襲を加えてくる米軍を迎え撃った。地元民を戦火の及ばぬ他の島に疎開させ、彼らの先祖の島を守るために死んでいった

ペリリュー島には、日本軍将兵の勇気と敢闘を称える「ペリリュー島のサクラを讃える歌」が、地元民のオキヤマ・トヨミ氏とショージ・シゲオ氏作詞、トンミ・ウェンティー氏作曲(ともにパラオ人)で歌い継がれている。

一 激しく弾雨(たま)が降り注ぎ オレンジ浜を血で染めた
  強兵(つわもの)たちはみな散って ペ島(じま)は総て墓地(はか)となる

 ニ 小さな異国のこの島を 死んでも守ると誓いつつ 山なす敵を迎え撃ち
  弾(たま)射(う)ち尽くし 食糧(しょく)もない

 三 将兵(ヘいし)は桜を叫びつつ これが最期の伝えごと
  父母よ祖国よ妻や子よ 別れの桜に意味深し

 四 日本の桜は春いちど 見事に咲いて明日(あす)は散る
  ペ島(じま)の桜は散り散りに
  玉砕(ち)れども勲功(いさお)は永久(とこしえ)に

 五 今守備勇士(もののふ)の姿なく 残りし洞窟(じんち)の夢の跡
  古いペ島(じま)の習慣で 我等勇士の霊魂(たま)守る

 六 平和と自由の尊さを 身を鴻(こな)にしてこの島に
  教えて散りし桜花 今では平和が甦る

 七 どうぞ再びペリリューヘ 時なし桜花(さくら)の花びらは
  椰子の木陰で待ち佗(わび)し あつい涙がこみあげる

 八 戦友遺族の皆さまに 永遠(いついつ)までもかわりなく
  必ず我等は待ち望む 桜とともに皆さまを

上陸1日目にして米第一海兵師団は千名を超える死傷者を出し、「我々はいったいどんな敵と戦っているのか。」と、上陸した米兵達を恐怖のどん底に陥れたという。海を隔ててすぐ間近にあるアウンガウル島も、わずか1500名の守備隊が40倍の敵を相手に戦い、敵に数千の損害を強いたもうひとつの激戦の島である。

米軍が上陸する直前に島民をコロール島へ退避させ、自らは玉と散った日本軍将兵たちはこの島の住民にとって”英雄”だったのである。ペリリュー神社にはこの地を訪れる日本人を無条件に驚かせ、そして”世界の常識”を思い知らされる石碑がある。

TOURIST FROM EVERY COUNTRY WHO VISIT THIS ISLAND SHOULD SHOULD BE TOLD HOW COURAGEOUS AND PATRIOTIC WERE THE JAPANESE SOLDIERS WHO ALL DIED DEFENDING THIS ISLAND
 諸国から訪れる旅人たちよ、この島を守るために日本の軍人がいかに勇敢な愛国心を持って戦い、そして玉砕したかを伝えられよ

敵の将軍、米太平洋艦隊司令長官C・W・ニミッツ提督から送られた賛助である。

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6.間違いは正すべき

 6-1 共に戦った仲間

大東亜戦争が始まった1941年に18歳の若者であった名越二荒之助氏は「日韓共鳴二千年史(明成社)」の「2.聖戦完遂に熱狂した朝鮮の人々~日韓にはこういう歴史があった~」で、大東亜戦争開戦時の韓国の事情を次のように説明されている。

1910(大正8)年には朝鮮全土で反日独立闘争(3・1独立運動)が起き、中国から「難治の民」と束れた朝鮮を統治することの困難さを日本は改めて思い知らされることになったのです。ところが、1937(昭和12)年7月7日の盧溝橋事件において日本軍が中国軍を打ち破り、連戦連勝するようになると、朝鮮民衆の対日感情はにわかに好転し始めたのです。二千年前の漢時代から朝鮮を圧迫・支配してきた中国の軍隊をいとも簡単に打ち破る日本軍の強さに朝鮮人は驚き、そして、その驚きが尊敬に、尊敬は熱烈な愛国(日本への協力)へと変わっていったのです。(日韓共鳴二千年史.p.434)

朝鮮教化団体連合会騙の「支那事変に現れたる朝鮮同胞の赤誠」(昭和12年10月発行)というパンフレットには、そうした朝鮮人の愛国ぶりがほかにも具体的に紹介されています。例えば、日本軍人の無事を祈る千人針が流行していることや、朝鮮神社への参拝者が急増し、9月3日には同神社でキリスト教徒のインチコウを代表とする朝鮮の各界代表百数十名が発起人となって「国威宣揚武運長久祈願祭」が挙行されたこと、血書を書いての従軍志願者が何百という数にのぼり、中にはその希望が達せられないので自殺した青年まで現れて総督府を困惑させていたこと等々、大変な熱気なのです。(日韓共鳴二千年史.p.435)

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興味深いことには、朝鮮の民衆ばかりでなく、それまで日本に対して冷ややかであった朝鮮の民族主義者や民族団体までが手のひらを返したように積極的に愛国運動を始めたことへの日本側の戸惑いが、そのパンフレットの端々ににじみでていることです。(日韓共鳴二千年史.p.435)

日本政府が1938(昭和13)年4月、陸軍特別志願兵制を設置するや、それまで独立運動を指導してきた崔麟らは、「これによって半島の民衆も全的に日本国民となるのだから、一層覚悟を新たにしなければならない」と声明を発表し、かって1919(大正8)年に2・8独立宣言を執筆した朝鮮を代表する大作家・李光珠が歌謡「志願兵壮行歌」を作詞するなど、3・1運動の指導者や民族文学の第一人者たちが率先して戦争への協力を呼び掛けたのです。(日韓共鳴二千年史.p.435~436)

これに応えて、朝鮮人青年は次々と志願しました。内務省資料によると志願状況は次の通りです。(日韓共鳴二千年史.p.436)
          採用数       応募者     倍率
 昭和13年    406名    2,946名   7.7倍
 昭和14年    613名   12,348名  20.1倍
 昭和15年  3,060名   84,443名  27.6倍
 昭和16年  3,208名  144,743名  45.1倍

年を追うごとに応募者が増え、昭和16年に至っては実に45倍もの志願者が押し寄せたのです。(中略)朝鮮は伝統ある儒教国家であり、応募するには父母、親族の許しが必要でした。青年の一時の血気だけで志願するのは困難なお国柄です。この驚くべき倍率の陰には、圧倒的な朝鮮人の支持があったと見なければならないと思います。(日韓共鳴二千年史.p.436)

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大東亜戦争開始の2日後である1941(昭和16)年12月10日、3・1事件の中心者であった崔麟が理事を務める国民総力朝鮮連盟主催により、京城で血戦報告大講演会が開催されました。この大講演会で、申興雨は「祖父の代から受け継いできた黄色人種の積憤をいまこそ晴ら差なければならない。一度血戦する以上、帝国行路の癌である敵性国家を粉砕し(中略)、新東亜建設に邁進しなければならない。」と演説し、普成専門学校教授の張徳秀も「米英の圧迫と屈辱からアジア民族の解放を叫ぶ血戦を開始したのである。」と述べ、それぞれこの大東亜戦争はアジア解放の戦いであることを強調したのです。(日韓共鳴二千年史.p.438)

現時点からはどのようにも批判できますが、「大東亜戦争の目的は東亜十億の民を戦略の魔の手から救い、東亜の新秩序を建設し、東洋を東洋人の東洋にしようとすることである。(1943.11.8.朱耀カン.毎日申報)」という情勢認識が当時の朝鮮で一般的だったのは紛れもない事実でした。(日韓共鳴二千年史.p.440)

かくして、242,341人もの朝鮮人青年が大戦中に軍人・軍属として戦い、22,182人が戦病死しました。当時は日本国籍であったとはいえ、朝鮮の方々がともに大東亜戦争を戦い、これだけの尊い犠牲を払ってくれたのです。欧米列強を敵に回したあの大東亜戦争は、こうした朝鮮や台湾の人々の協力なしにはあそこまで戦うことができなかったに違いありません。(日韓共鳴二千年史.p.440)

ですから、いま、日本人の中に「嫌韓」と主張し、「韓国人なんて相手にする必要はない」と叫ぶ人がいますが、戦前・戦中の朝鮮の方々の尊い犠牲を思うならば、そんなことは口が裂けても言ってはならないと思うのです。(日韓共鳴二千年史.p.440)

日本軍人のすべてが軍紀を守っていたとは言いません。どこの世界でもルールを無視して自分本位の行動をする者がいます。ほんの数%の悪い行いのみを取り上げ、全体を評価しようとするのは誤りです

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 6-2 安倍総理の正論

2013(平成25)年3月24日の参議院予算委員会で、民主党の徳永エリ議員は「靖国参拝問題が中国や韓国に対して影響を与えたということは私は否めないと思っております。この点に関して総理はどうお感じになっておられるのか。」と質問した。議事録から安倍総理大臣の答弁を要約しした。

外交というのは、外交的な目的を達成するためにあらゆる手段が取られるわけで、例えば尖閣諸島については、これは歴史的にも国際法的にも我が国の固有の領土であります。しかし、我々のこの主張、姿勢を崩そうとして、様々なことを言ってきたり宣伝をしたりするわけです。我々はそれに屈しないという態度を取っています。

靖国の問題は韓国も中国もそうですが、韓国では靖国について抗議をし始めたのは一体いつなんですか。盧武鉉時代が顕著になり、金大中時代にも少しありました。それ以前にはほとんどないんですから、なぜ急に態度が変わったのでしょう

中国においてもいわゆるA級戦犯が合祀されたときも、彼らはそのときの総理の参拝について抗議はしていなかった。ある日突然抗議をし始めたわけです。尖閣諸島においても1895年から1971年まで全く抗議をしていなかったが、突然抗議をし始めたわけです。そういうことをしっかりと頭に入れながら対応していく必要があると思います。

国のために尊い命を落とした尊い御英霊に対して尊崇の念を表する、これは当たり前のことであります。我が閣僚はどんな脅かしにも屈しない、その自由は確保している、これは当然のことだろうと思います。

続けて民主党の徳永エリ議員は、中国と韓国が不快感を示しているということに対してはどう対応するのかと質問した。

日本の国にある靖国神社に(祀られている)御英霊に対して御冥福をお祈りをする、それについて批判をされることに対しては何も痛痒を感じずに、批判されたことに対してそれはおかしいと思われることが私はおかしいと思います。我々はあくまでも国益を守ります。そして、私たちの歴史や伝統の上に立った私たちの誇りを守っていくということも私の仕事であります。それをどんどんどんどん削っていけばいい、関係がうまくいくという考え方の方が私は間違っていると思います。

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 6-3 ラダ・ビノード・パール
      極東国際軍事裁判判事の言葉

要するに彼ら(欧米諸国)は日本が侵略戦争を行ったということを歴史にとどめることによって、自分らのアジア侵略の正当性を誇示すると同時に、日本の17年間(昭和3~20年、東京裁判の審理期間)の一切を罪悪と烙印する事が目的であったにちがいない。
 私は1928年から1945年までの、17年間の歴史を2年7ヶ月かかって調べた。この中には、おそらく日本人の知らなかった問題もある。それを私は判決文の中に綴った。
 その私の歴史を読めば、欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人であるということがわかるはずだ。
 それなのにあなた方は自分らの子弟に「日本は犯罪を犯したのだ」「日本は侵略の暴挙を敢えてしたのだ」を教えている。満州事変から大東亜戦争にいたる真実の歴史を、どうか私の判決文を通して十分研究していただきたい。
 日本の子弟がゆがめられた罪悪感を背負って、卑屈、頽廃に流されていくのを私は平然として見過ごすわけにはゆかない。誤られた彼らの宣伝の欺瞞を払拭せよ。誤られた歴史は書き変えなければならない

昭和41年10月11日付の朝日新聞夕刊に、来日中の東京裁判のインド代表判事だったラダ・ビノット・パーフ博士(80)は、本社記者がたまたま宿舎京都国際ホテルを訪れた際に「日本の皆さんへ」というメッセージを託された。以下は、朝日新聞夕刊に掲載された抄訳(柴田衛士訳)である。

 日本の皆さんへ

私がこの老齢、この健康で今度日本へまいりましたのは、日本の皆さんに対する私の敬愛の念を親しくお伝えするとともに、皆さんに東洋精神の尊厳さを再び確立していただくようにお願いしたいからであります。東洋は今、大きなルネッサンスを迎えようとしており、東洋の諸国は日本に注目し、日本に奮起を期待しているのです。

現在、世界中で西洋化が進行しています。この西洋化は進歩に必ず付随する現象でしょうか。それとも、古代文明の例が示すように、崩壊の兆候に過ぎないものでしょうか。ギリシャ、インド、バビロン、中国などの文明の歴史を大観してみると、文明の発達を計る基準は、領土の拡大に見られる環境の征服や、技術の進歩に見られる自然の征服ではないことが証明されていると思われます。

われわれの聖者マハトマ・ガンジーは、この西洋文明の宿命を予見しました。そして、インドが自らを救おうとすれば、現代の西洋の技術と西洋の精神を排斥しなければならない、という結論に達したのです。この精神のシンボルが糸紬ぎです。彼は、インドのすべての男女に、自国産の綿を手で紡ぎ、その糸を手織りにした綿布を身に付けるように説きました。この手紬ぎこそ、インド国民の熱意とエネルギーを、物質的行動面から精神的行動面へと切り替える必要性の象徴だったのです。

大英科学振興協会会長サー・アルフレッド・ユーイングが1932年の総会で、次のような発言をしています。「科学は確かに人類に物質的な幸福をもたらした。だが、倫理の進歩は機械的進歩に伴わず、あまりにも物質的恵みを処理できずに人類はとまどい、自信を失い、不安になっている。引き返すことはできない。どう進むべきであろうか」と。われわれすべてが当面しているのと同じ悩みを表現した感動的な言葉です。産業化と民主主義という新しい推進力は、すべての人類の利益のために新興勢力が自由に活動できるよう全世界を打って一丸としたよう社会を建設するために用いられるでしょうか。それとも、我々はこれから、市場に比を見ないこの強力な新しい力を、大昔から存在している戦争、部族主義、奴隷制度などに悪用して、全人類自殺の報告に向かっていくのでしょうか。

 日本の青年に

自由の国、日本の青年の皆さん。あなた方もこの質問に答えなければなりません。いや貴重な伝統という財産を持つあなた方こそ、この世界的問題に答える最大の義務があるのです。貴重な伝統という遺産といっても、輝かしい過去を想定するだけではなく、現在のあなた方の持つ潜在能力をも強く意識してほしいのです。

西洋の観察者の中には、すすで曇らせたメガネをかけて世界を見渡し、西洋化された表面だけを見、その下に燃えている土地独特の火を無視して自己満足している者が多くいます。つまり、わざと東洋の長所に目をつぶっているわけです。その連中の思い上がった意見を受け入れてはいけません。人種的劣等感は捨ててください。日本人は世界文明に創造的な寄与をしてきたのですから。

また、西洋の「分割して統治せよ」という政策を警戒してください。どんなに大切なイデオロギーのためであっても、分裂してはいけないのです。分裂していると、その場限りの事でも絶対的なことに見え、肝心の重要問題から注意がそらされます。現在、全世界に渡ってイデオロギーの戦争が進行中です。この戦争に勝つためには建設的理念を持ち、相反する国際的、文化的イデオロギーを調和させなければなりません。イデオロギーの相違を固執してはいけないのです。

現代は過渡期であり、未来が現代にかかっています。現代は、伝統的に相いれない東洋文化と西洋文化が接触している時代です。お互いの文明の価値を破壊し合うのではなく、相互に補い合うようにすることこそ、次の時代の主な仕事であるべきです。

若い日本の皆さんにお願いしたい。物質的に順応するだけではいけない。精神的に順応することが大切です。身近な仕事や目的に順応するばかりでなく、大局的にビジョンに基づいて仕事や目的を決めていただきたいのです。人類社会に対する高い使命に燃えて、人生の意義を十分に発揮していただきたいのです。

 日本若い女性に

新しい環境に順応するには、社会は新しい生命力を必要とします。そのために社会が最も期待をかけるのが、若い人たちの中でも女性、つまりあなた方です。

現在のあなた方は、知的にも道徳的にも最も感受性に富み、最も受容力の大きい時期にあります。学校教育から、本物と偽物を見分ける能力、お国の将来を形成していく力についての知識を得てください。特に、周囲に惑わされない判断力を得てください。

わざわざこういうのは、宣伝が大衆を支配するために案出された実に警戒すべき手段だからです。ほとんどの大国が宣伝省を持ち、有能な人材を宣伝大臣に任命していることでも、その強力さがわかります。宣伝の恐ろしさは、絶えず感情に働きかけ、知らず知らずのうちに、自分の本性と矛盾することを信じ込まされる点にあります。

皆さん一人残らず、どんなことに出会っても、勇気とやさしさと美しい魂とで、処理してください。皆さんひとり残らず「世界を歩む美女は何万といるが、どんなに飾り見せびらかしても、彼女の美しさとはくらべものにはならない」と、尊敬の念をもって言われるように行動してくださることを願っています。

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 6-4 日本軍の戦跡

先生は見てきたようなウソを言いということわざがあり、真実は実際に見て来なければ分からないことを示している。井上和彦氏は平成27年8月に、「大東亜戦争写真紀行ありがとう日本軍」を出版された。その序文は次のように記されている。

百聞は一見に如かず。かっての戦場に立てば、そのわずかでも日本軍将兵の苦労を追体験することができ、そして封印された歴史の真実が見えてくる。私はそんな大東亜戦争の真実を求めて各地の戦場を歩いてきた。

70年前のあの時と同じ強い熱帯の日差しを浴びながら、先人達が走破した山野を歩き、そして波打ち寄せる海岸を眺めていると、おのずと涙がこみあげてくる。戦跡に立ち、遥か祖国の父母を思い、あるいは愛する際しを瞼に浮かべながら雄々しく戦って散華していった先人たちを思うとき、感謝の気持ちでいっぱいになるのだ。

戦後のGHQによる戦争犯罪宣伝にすっかり洗脳された現在の日本人の中には、いまだ「アジア諸国の反日感情」なるフィクションを得意げに口にする愚かな人士も多い。それを自ら確かめることなく…

だが、実際にかっての戦場を歩いてみれば、むしろ欧米諸国の植民地支配から解放してくれた日本軍に対する感謝と称賛の声、大東亜戦争の功績をたたえる声が満ち溢れているのである。

私が歩いたタイの首都バンコックでは、応急付近で日本軍の九伍式軽戦車に出くわし、日本とタイが同盟国として共に米英と戦った事実を知って衝撃を受けた。(中略)

隣のベトナムにも知られざる日本軍の足跡があった。実は、大東亜戦争後も現地にとどまった約8千人といわれる日本軍将兵が、ベトナム青年と共にフランス軍とたたかい、そしてベトナム青年を軍事志岐氏で岩大のベトナム独立の基礎をつくったのである。(中略)

戦後、反日感情が強いといわれてきたシンガポールでも、日本では目にすることがない貴重な資料が堂々と展示されている。その一つが「インド国民軍」だ。インド国民軍は、マレー・シンガポール攻略戦時に日本軍の呼びかけに応じた英連邦軍内のインド兵によって組織されたインド初のインド人による軍隊だった。日本のマスコミはこの事実を完全に封印し、この組織を知る日本人も少ない。そのインド国民軍創設記念碑がシンガポールの観光名所マーライオンの近くに建立されているのである。

そのインド国民軍と日本軍が共に戦った「インパール作戦」は、インドでは「インド独立の端緒」として高く評価されている。(中略)

インドネシアでも同様だった。350年ものオランダの支配から解放してくれたのは日本軍であり、戦後も現地に残留した2千名もの日本軍将兵がインドネシア独立のために再び蘭・英軍と戦い、その半数がインドネシアの土になったことを人々は記憶してくれている。(中略)

どうか、これまで私が歩いた大東亜戦争の激戦地を、写真集を手にする感覚でご覧いただき、大東亜戦争を追体験していただきたい。そして、本書を通じてこれまで封印されてきた歴史の真実を知り、新人への感謝の念を新たにするとともに、日本人としての誇りを取り戻す契機としていただければ幸いである。

 6-5 世界がさばく東京裁判

多くの日本人が、あたかも厳正な司法裁判であるかのごとく錯覚している東京裁判は、実際には国際法に違反した軍事行動に過ぎず、本質的にアメリカの政治的復讐行為であった。東京裁判を批判していたのはパール判事だけではなかった。

世界14ヶ国の識者が、なぜ日本だけが戦争責任を追及されるのか、国際法違反の占領政策、裁判の名に値しない不公正な法手続、蹂躪された国際法を外国人識者が連合国の戦争責任として追及している

この裁判は歴史上最悪の偽善だった。こんな裁判が行われたので、自分の息子には軍人になることを禁ずるつもりだ。(なぜ東京裁判に不信感を持ったかと云えば)日本が置かれていた状況と同じ状況に置かれたならば、アメリカも日本と同様に戦争に訴えていたに違いないと思うからである。(GHQ参謀第二部長C・A・ウィロビ将軍)。

国際裁判所が、正義に基づいて処罰を加えることを求められているにもかかわらず、自ら正義の法理を適用しているか否かを審査する機能や義務さえ与えられないで、単に戦勝国の最高司令官の定めた法規を適用しなけれならない。かようなことを本裁判所が認めるとすれば、それは国際法のためにこのうえなく有害なことをしたことになるだろう。(東京裁判オランダ代表判事ベルト・ファン・A・レーリング判事)

軍事裁判はかく裁いた。だが歴史は、それとは異なる裁きを下すだろうことは明らかである。(元駐日アメリカ大使エドウィン・O・ライシャワー博士)

昭和39年社会党の佐々木更三委員長が、中国国民に多大の損害を持たらして申し訳ないとの挨拶に、「何も申し訳なく思うことはありませんよ。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらしました。中国国民に権利を奪取させてくれたではないですか。皆さん、皇軍の力なしには我々が権利を奪うことは不可能だったでしょう。」(中国共産党主席毛沢東)

「日本は中国を助けたことになっている。日本が蒋介石を重慶まで押し下げてくれたので我々は日本軍の占領地域の後方に広がった。皆さんだけを責めるのは不公平だと思う。」(中国共産党副主席鄧小平)

東京裁判は日本が侵略戦争をやったことを懲罰する裁判だが、無意味に帰すから止めたらよかろう。なぜならそれを訴追する原告アメリカが、明らかに責任があるからである。ソ連は日ソ中立条約を破って参戦したが、それはスターリンだけの責任ではなく、戦後に千島・樺太を譲ることを条件として日本攻撃を依頼し、これを共同謀議したもので、これはやはり侵略者であるから、日本を侵略者呼ばわりして懲罰しても精神的効果はない。(アメリカ陸軍法務官プライス)

まともで教育のある人々がなぜパールハーバーを攻撃する道を選んだのか。こういうことを理解せずに、ただ避難する人々がいる。彼らこそが戦争をもっとも起こしやすい人々なのだ。当時の日本指導者たちをモンスターにしたり日本の、置かれた悲劇的な立場を考えもせずに人々を英雄視したりしても、何の解決にもならない。解決どころか、このような態度そのも問題なのだ。(米ディッキンソン大学ジョージ・フリ-ドマン教授)

アメリカが押し付けた憲法や東京裁判史観を忠実に守り、絶えず近隣の中韓やロシアに歴史を忘れたと云いがかりをつけられているの見て、2002年2月に来日したブッシュ大統領は小泉首相と並んで靖国神社への参拝を望んだ

だが、外務省も官邸も近隣諸国との悶着を起こしたくないとの事なかれ主義でこれを拒絶し、明治神宮への参拝に切り替えて小泉首相は車から下りずにブッシュ大統領を一人で参拝させた。

世界の国々の首相が相手国を訪問したときは、戦死した軍人らを追悼する墓地に献花するのが常識である。国家のために尊い命を捧げた英霊に対して、天皇のご親拝はもとより首相の参拝もままならないという国は世界中で日本だけである

2016年5月27日アメリカのオバマ大統領は安倍首相と共に広島の原爆慰霊碑に献花し、伊勢神宮に植樹された。この日の朝日新聞と毎日新聞は日本へ核ミサイルを向けている中国と北朝鮮やロシアへの言及はなく、どこの国の新聞かと思われる記事を掲載した。図書館で一読されることをお勧めする。

西欧500年の発展と繁栄の基礎は、世界史上例を見ないほどの悪逆非道の有色人支配と略奪の上に築かれたものであった。白人の有色人に対する残虐非道ぶりは、コロンブスのアメリカ大陸到着、ピサロやコステルによるインカやアステカ帝国の滅亡悲劇、アフリカの奴隷狩り、アメリカインディアンの抹殺まで一貫している

日本はソ連に対して侵略を行ったたどころか、終始一貫してソ連と事を構えることを避けてきた。日本にソ連を侵略する意図があれば、ヒトラー軍がモスクワを包囲してソ連軍がウクライナで死闘を続けていたチャンスを見逃すはずがない。

日本国政府が最後の頼みとしてソ連を通じて和平交渉を依頼しているときに、ソ連は中立条約を一方的に踏みにじって満州になだれ込み、婦女子を強姦して住民の財産を剥奪し大勢の日本人をシベリアに連れ去って虐待し、奴隷労働を強いたソ連の非情無残な行為を行った。

二十世紀に入って白人の支配に従わない唯一の国「日本」を、北からソ連、西からイギリス、東からアメリカが一挙に襲いかかったのが大東亜戦争だった。白人の手口は113都市無差別焦土作戦と原爆投下、ソ連の満州侵略と暴虐など、東京裁判は白人500年の侵略と残虐、植民地支配の罪をすべて日本に転嫁するものだった。

幾千万人という女子どもを含めた非戦闘員を、一瞬にして皆殺しにしてしまった原子爆弾投下を命令し授権した責任者が戦争裁判の対象にならない事実。日ソ中立条約を一方的に破棄するようにそそのかしたアメリカとイギリスの責任はどうだろうか。

東京裁判の立役者であったキーナン首席検事は重光葵を起訴し処罰したことは誤りだったと反省し、東京裁判が感情論に過ぎたことを新聞記者に告白した。裁判が終わってわずか五年後の事である。

およそあらゆる刑罰には基準があり、それが明文化されていて、裁判官はそれに準拠して判決を下すのが文明国の裁判である。東京裁判にはその基準たるものがなく、あらかじめ計量を決めておいてあとからそれに結び付けたとしか思われない。

東京裁判で述べられたパール判事の判決文は、ヨーロッパ諸国でビッグニュースとして紙面のトップを飾り、センセーションを巻き起こした。批判精神が健全である裁いた英米において東京裁判の批判が盛んにおこなわれた

ロンドンタイムズは、1952年6月から7月にかけて約二ヶ月間戦争裁判に対する論争を連載した。サンフランシスコで講和条約が締結され、日本の独立が認められた年である。しかし、日本のマスコミは一切取り上げることはしなかった

東条英機の弁護を担当した清瀬一郎弁護士は、「裁判の最中に毎日流されていた法廷記事の半分は嘘であった。司令部が新聞を指導し、いかにも日本が悪かったのだ、日本軍人は残虐行為ばかりをしていたのだと、日本国内は勿論世界の隅々にまで宣伝した。しかも弁護人はこれに対抗する手段は封ぜられ、判決が下されても判決批判は一切禁じられていた。」と語っている。

戦争を起こさざるを得ないまでに追い詰められ、やむなく立ち上がってアジアを白人支配から解放させたのは日本である。戦争犯罪者という汚名を着せられた一番の被害国である日本の政治家も、法律家も学者もインテリもジャーナリストも、汚名を着せられた気の毒な同胞に石を投げるような態度に終始している

鬼畜米英と叫んでいた人々はひとたび占領軍が進駐してくると平身低頭し、唯々諾々として占領軍に忠誠を誓い、国民は騙されたといいながら日本の弱体化政策、愚民化政策、骨抜き政策に奉仕し、自らの手をもってこれを短期間で成就させた。

私たち日本人は歴史を根幹から見つめ、世界の法秩序と平和を守るために東京裁判の無法と無効を論点整理し、東京裁判や“A級戦犯”が見せしめとしての日本断罪であったことを肝に銘じなければいけない

大東亜戦争による日本の存在と決断と犠牲が、白人の侵略停止、植民地の開放、人種差別の撤廃の動機となり、世界地図を塗り替えるほどの人類史上最大の革命をもたらしたことは、何人も疑うことのできない事実なのである。改めて大東亜戦争で散華された英霊に深謝したい。

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