はげちゃんの世界

人々の役に立とうと夢をいだき、夢を追いかけてきた日々

第3章 失われた韓国史

1.歴史の捉え方

物事には「原因」があるから「結果」が現れます。残されている資料や記録を真摯に受け止め、時間の経過で事象を捉えることです。第三者が残した記録に同じような事象があれば、実際に起きた事象と考えられます。

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 1-1 憶測による誤解

2008年12月16日付の読売新聞は、スタンーフォード大学の「日米中韓台の歴史教科書比較」研究結果を報道しました。

日本の高校歴史教科書は過去30年間、海外のマスコミで悪評を買ってきた太平洋戦争の開戦に対する日本の責任や、日本軍が占領地にもたらした苦難に教科書は十分に注意が払っていないという批判があり、教科書の内容がますます愛国的になっていると主張する人々もいる。
 スタンーフォード大学アジア太平洋研究センターの「分断された記憶と和解」研究は、こうした批判が間違っていることを明らかにした。

米国のスタンーフォード大学アジア太平洋研究センターの「分断された記憶と和解」プロジェクトは、日本・中国・韓国・台湾・米国など太平洋戦争の主要当事国の高校の世界史、自国史の教科書と受験用教科書を比較分析し、大衆文化である映画の役割、さらに過去の戦争についての認識を形成する上でのエリートの役割を検証しました。

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2008年12月16日付の読売新聞は、スタンーフォード大学アジア太平洋研究センターの分断された記憶と和解プロジェクトは、とりわけひどいと見なされてきた日本の歴史教科書に対する見方を根本から覆したと報じました。歴史教科書比較記事は主に読売新聞と雑誌「サピオ」より引用しました。ありがとうございます。

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 1-2 日米中韓台歴史教科書比較

  1-2-1 日本の歴史教科書

日本の教科書は愛国主義的であるどころか、愛国心が最も少ないように思われる。戦争をたたえることなく、軍隊の重要性を強調せず、戦場での英雄的行為を語っていない。物語的な叙述をほとんど省いた出来事の年代記となっている。

日本の中国進出についてのくだりは全く事実をそのまま伝えており、当時の軍と政府のリーダーたちの責任だとしている。軍国主義の拡張は愚かなことであり、戦争は市民に甚大な犠牲を押し付けるものであると語る。

日本の歴史教科書の戦争記述は、戦後日本が外交政策の手段として軍事力の保持を拒んでいることと完全に歩調を合わせている。日本の学習指導要領は、近隣諸国との友好的で強力的な関係の発展、アジアと世界の平和と安定の必要性を強調している。

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  1-2-2 米国の歴史教科書

奇妙なことだが、米国の教科書にも戦争に酔ったような叙述がある。米国で最も広く使われている教科書「アメリカン・ページェント」は、米国が世界的大国へと成熟するうえで戦争が決定的な転換点になったと書いている。

戦前、米国の人々は外の世界から逃避し、現実を直視しない孤立主義に閉じこもっていた。だが、真珠湾攻撃によって、国際的な無政府状態の中で安全な国はなく、孤立主義でいられる可能性はないことに気づいた。米国人は孤立主義や宥和政策の危険性を悟り、反民主主義陣営との戦いに責任をもって自らの力を使うべきだと結論付けた。

米国の教科書は、中国ほど露骨に愛国主義的な言葉を使っていない。だが、中国の教科書が共産党の勝利を支持するのと同じように自国の冷戦政策を支持している。

米国の教科書は、第二次世界大戦について、アジアよりもヨーロッパでの戦争の方により焦点を当てる傾向がある。ニュルンベルク裁判についてはたくさんの記述があるが、東京裁判については大変少ない。

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  1-2-3 中国の教科書

歴史学の観点から見て、最も問題が多いのは中国の教科書だ。共産党のイデオロギーに満ちており、非常に政治化されている。太平洋戦争に関してほとんど記述がなく、広島・長崎の原爆投下にもほとんど言及していない。

2002年改訂版は、日本の中国侵略に至る出来事を記述する中で、日本がアジアに野心を抱いていたことを示す証拠として、いわゆる「田中上奏文」を広く引用している。この時期に日本がアジアへの侵略的野心を抱いていたことは間違いないが、欧米と日本の近代史学は「田中上奏文」を偽文書と見なしている。

中国の教科書は2004年に改定されているが、改定後は中国人の愛国心を謳い、日本との戦いを強調している。内戦の話は後退し、抗日戦線での勇ましい描写が増えた。英雄的な軍事作戦の記述に満ちているうえ、最終的に日本を敗北させたのは中国、とりわけ中国共産党だったと示唆している。

太平洋での戦争や同盟国の果たした役割はほとんど言及されていない。原爆投下が戦争の終結に果たした役割は強調されず、日本軍に対する毛沢東の総攻撃要求とソ連の対日参戦が決定的要因とされている。

中国と台湾の教科書は、中国の権利と利益を無視した帝国主義勢力による一世紀の恥辱をすすいだと書く。中国の教科書は、戦後も米国を新たな敵として反帝国主義闘争が続いたと強調する。新中国は、東アジアの進歩勢力を追い込んだとする米国を阻んだ、朝鮮戦争の勝者として描かれている。

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  1-2-4 韓国の教科書

韓国の教科書は特にナショナル・アイデンティティーの意識の形成に強く焦点を当てて、自分たち韓国人に起こったことを詳細かつ念入りに記述している。言い換えれば、解放に向けた民族闘争の継続が韓国の教科書の物語の筋である。

民族の自尊心を強調することは時に奇妙な結果を生む。韓国の教科書は中国で起きた戦争に関する記述が希薄だ。韓国は日本の中国に対する行為には興味はなく、日本が自分たちに行ったことだけに関心があり、広島・長崎への原爆投下の記述すらない。それほどまでに自己中心的にしか歴史を見ていない。

1937年に中国で勃発した戦争や真珠湾攻撃、広島と長崎への原爆投下など他国の教科書が取り上げている戦時中の主要な出来事に言及していない。代わりに、日本の植民地統治に対する朝鮮人の抵抗運動や文学における文化的発展にもっぱら焦点を当てている。

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  1-2-5 台湾の歴史教科書

国民党支配下で書かれた古い教科書では中国王朝の歴史だけを学んでいたが、新しい教科書から台湾という国家の視点によって書かれ、台湾自身の歴史を教えることになった。

台湾と中国両方の教科書が、異なった理由で国共内戦を強調しなくなっている。台湾の新しい教科書では日中戦争の強調は抑えられ、南京事件なども大幅に削っている。

台湾の日本による植民地時代の論点は、当時の日本の政治状況と関連づけて述べられており、日本の悪行を書いてはいるがかなり正確な分析をしている

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 1-3 学生たちの集会

韓国の李明博大統領は2011年8月15日、ソウル市内で開かれた日本の植民地支配 からの解放66年を祝う「光復節」記念式典で演説し、韓国は過去の歴史を決して忘れず「日本は未来の世代に正しい歴史を教える責任がある」と表明しました。また、「(正しい歴史教育があってはじめて)韓日の若者が明るい未来に向かって共に 歩んでいける」と語ったと伝えられます。

2015年10月12日に韓国政府は、中学・高校の歴史教科書を複数の教科書会社が発行する検定制から、国家が単一の教科書を編集・発行する「国定制」に戻すと発表しました。政府担当者は「政府が直接、歴史的事実に関する誤りを正し、歴史教科書の理念的偏向性による社会的論争を終息させるため避けられない選択」と述べました。

17日に、歴史教科書の国定化に反対する韓国の高校生らが、ソウル市内で「歴史教科書国政化反対」集会を開きました。生徒らは「歪曲された歴史が含まれる国定教科書を強要しないで」、「非常識を強要しないで」などと書かれたプラカードを持ってデモを行いました。

韓国政府をはじめ学生たちは、スタンーフォード大学アジア太平洋研究センターの教科書分析結果を読まれたのでしょうか。「自己中心的にしか歴史を見ていない」と閉ざされた歴史教科書で学んでいた韓国の学生たちは、自ら学ばない限り歴史の真相を知ることは不可能と言えます

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 1-4 歴史の全体像を注視

歴史の記述には、無批判な踏襲が行われていることが多いと言えます。日本史でも、徳川五代将軍綱吉は動物より人間の命を軽んじた悪法「生類憐みの令」を出したと非難されています。綱吉亡き後、第六代将軍家宣が登用した新井白石が自分の考えを自画自賛するため、綱吉時代を過剰に貶めて生類憐れみの令の害悪を誇張した結果です。

綱吉は当時の記録の何箇所にも「国民の道徳向上のため」と説明しているように、生類憐みの令は「捨て子保護」政策でした。生類憐みの令の最初の行には「捨て子があればすぐさま届け出ようとせず、その場所の者がいたわり、自ら養うか、または望む者がいればその養子とせよ。よいか、届け出なくてかまわない。」と書かれています。

犬を始めとする動物の保護はつけたしで、処罰されたのはせいぜい一年に数人で武士階級が中心でした。生類憐みの令は戦国時代から続いていた人を殺すことが功名だという意識を大転換させ、「人を殺すなんてとんでもない」という風潮を生み出したのです。

物事には「原因」があるから「結果」が現れます。歴史の「因果関係」を正しく知るには、歴史の全体像を見ることが必要です。三国時代以前の朝鮮半島は「仁と義」、「礼、勇、寛大」、「博愛と禁欲的な廉潔」、「自尊、武勇、快活」さに溢れる国として描かれていました。

しかし、高麗王朝や李氏朝鮮王朝の支配は国民の半数を奴隷とし、李朝の王と王族、宦官や士大夫などの両班が悪逆非道を繰り返えしました。両班の官職慾を満足させるために手段や方法を選ばぬ残忍性で多くの韓民族は変わってしまいました。

虚言と偽騙行為がはびこり、詐欺的な態度がひろまりました。多くの韓国民は精神を蝕まれて民族の誇りを失い、自学自習と探求心を忘れ、中身のない優越感を誇る「韓国病」が植え付けられたのです。

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 1-5 失われた韓国史

中国を韓国の上位にある国とした朝鮮民族最後の王朝である李朝は、華夷秩序は自らを中華に並ぶ文明国とし、政治的には李朝こそが唯一の中華文明の継承者だと自負していました。この時代に朝鮮半島の歴史書は金富軾によって書き換えられ、原本はすべて焼却されました。

韓国第5~9代の朴正煕(パク・チョンヒ)大統領は、その著書「韓民族の進むべき道」で次のように嘆いています。書籍:朴正煕選集①

偏狭な時代主義者金富軾は(中略)われわれの貴重な古史のうち、仙史と花都世紀などをすべて抹殺し、反事大的な民族固有の国学風を伝播できないようにして、ついに「三国史記が唯一の古史」となってしまった。

1950年6月25日午前4時、北緯38度線で北朝鮮より砲撃が開始され、北朝鮮軍の奇襲攻撃が始まりました。準備不足の韓国軍は絶望的な戦いを続け、韓国政府は首都ソウルを放棄して水原に遷都しました。6月28日に北朝鮮軍の攻撃を受けたソウルは市民に多くの犠牲者を出して陥落し、再び貴重な多くの史料が消失しました。

朝鮮半島に居住した民族が残した歴史を調べようとしても、朝鮮半島で書かれた一番古い歴史書は12世紀のものであり、史実の引用の元とされた「古記・海東古記・三韓古記・本国古記・新羅古記・金大問高僧伝・花郎世記」などの第一次史料が現存していないため、史実を確認することができません。シャルル・ダレは1818年~1866年の朝鮮のようすを、著書「朝鮮事情」で次のように述べています。書籍:朝鮮事情

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朝鮮における学問は全く民族的なものではないという点である。読む本といえば中国のもので学ぶ言葉は朝鮮語でなく漢語であり、歴史に関しても朝鮮史はそっちのけで中国史を研究し、大学者が信奉している哲学体系は中国のものである。写本はいつも原本よりも劣るため、朝鮮の学者が中国の学者に比べてかなり見劣りするのは、当然の帰結である。 (朝鮮事情p.130-131)

また、金富軾の「三国遺事」は、1270年代後半から1280年頃にかけて高麗の高僧一然が雲門寺と麟角寺に錫杖を留めている時に編纂したものと推定され、一然の没後に弟子の無極(宝鑑国師の混丘)が補筆・署名し、刊行されたと思われます。この写本が1593年の文禄の役に参加した武士が持ち帰り尾張徳川家に伝わっていました。

1866~68年に三度朝鮮を訪れ、清国からの自主独立を強く願っていたプロイセンの貿易商E・J・オッペルトは、著書「禁断の国・朝鮮」で次のように述べています。

독특하고 높은 수준의 문화를 자랑하며 문명화된 삶을 영위하고 있다고 공언할 수 있는 나라들 중에서 조선만큼 민족의 기원이나 역사에 관한 문헌이 불완전하고 부족한 곳도 드물다. 학자연하는 조선 사람들 중 누구도 자기 나라의 역사를 기술하려 하거나 그렇게 할 수 있는 사람은 없는 듯하다. 그들은 중국이나 일본의 사가(史家)들이 남겨 놓은 기록들이 더할 나위 없이 완전하다고 믿고 있는 것 같기도 하다. (p. 59)
 独特で高い水準の文化を誇り、文明化された暮らしを営んでいると公言できる国の中で、朝鮮ほど民族の起源や歴史に関する文献が不完全で不足な所も珍しい。学者然とした朝鮮人のうち、誰も自分の国の歴史を記述しようとしたり、それができる人はいないらしい。彼らは中国や日本の史家が残した記録が、付け加えることがない完全なものだと信じているようでもある。(p.59)

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 1-6 調査した資料

資料は、国立国会図書館デジタルコレクション、北海道立図書館、札幌市中央図書館、また、札幌市東札幌図書館には多大のご協力をいただきました。厚くお礼を申し上げます。また、樹懶庵の資料を参照しました。ありがとうございました。

資料名期間・発行著者・編者発行所
東アジア民族史1正史東夷伝前2159~664井上秀雄 他訳注平凡社
漢書 地理志 88班固
史記 前91司馬遷明治書院
三国志 魏書30 夫餘伝 184~280陳寿維基文庫
三国志 魏志30 高句麗 184~280陳寿維基文庫
三国志 東夷伝 辰韓伝 280~297陳寿維基文庫
後漢書 扶餘伝 445范曄維基文庫
後漢書 魏書?婁(ゆうろう)伝 445范曄維基文庫
後漢書 ?(わい)伝 445范曄維基文庫
後漢書 高句麗伝 445范曄維基文庫
後漢書 韓伝 445范曄維基文庫
後漢書 倭伝 445范曄維基文庫
晋書 粛慎(シュクシン)氏伝 468房玄齢・李延寿維基文庫
梁書 百済伝 629姚思廉維基文庫
梁書 新羅伝 629姚思廉維基文庫
周書 異域伝 高麗伝 636東アジア民族史1平凡社
周書 異域伝 百濟伝 636東アジア民族史1平凡社
隋書 百済伝 656長孫無忌維基文庫
隋書 倭国伝 656長孫無忌維基文庫
北史 高句麗伝 660前後李延寿平凡社
東アジア民族史2正史東夷伝 668~936井上秀雄 他訳注平凡社
旧唐書 日本国伝 945劉?、張昭遠、王伸維基文庫
高麗図経1123~1124徐兢維基文庫
三国遺事1170~1180一然
韓国の記録遺産1449世宗文化財庁
朝鮮幽囚記1653~1666ヘンドリック・ハメル平凡社
朝鮮国記1664~1690ニコラース・ウィットセン平凡社
朝鮮事情1818~1866シャルル・ダレ平凡社
朝鮮・琉球航海記1844ベイジル・ホール岩波文庫
フリゲート艦パルラダ号1852~1855ゴンチャロフ
禁断の国・朝鮮1866~1868E・J・オッペルト
隠者の国・朝鮮1870ウィリアム・グリフィス
朝鮮風物誌1883~1884W・R・カールズ
朝鮮見聞記1884H・N・アレン
朝鮮旅行記1885~1896ゲ・デ・チャガイ編平凡社
ソウル風物1886~1889G・W・ギルモア
朝鮮亡滅1886~1908H・B・ハルバート太平出版社
朝鮮 静かなる朝の国1891A・H・サヴェジランダー
極東の諸問題1892ジョージ・N・カーゾン
朝鮮時事1894柵瀬軍之佐
朝鮮紀行1894~1897イザベラ・バード講談社
まげの国の15年1893~1904リリアス・アンダーウッド
極東回想1898~1900W・F・サンズ
朝鮮1904アンガス・ハミルトン
朝鮮の子どもたち1904~1931E・ワグナー
悲劇の朝鮮1904~1905アーソン・グレブスト白帝社
朝鮮の悲劇1931F・A・マッケンジー平凡社
神國いずこ1947スチャート・グリフィン大地書房
アメリカの反省1948ヘレン・ミュアーズ文芸春秋社
朴正煕選集①1970朴正煕鹿島研究所出版会
朴正煕選集②1970朴正煕鹿島研究所出版会
償いは済んでいる1995上坂冬子講談社
韓国の記録遺産1997文化財庁文化財庁
国民の歴史1999西尾幹二産経新聞社
韓国・堕落の二千年史2001催基鎬祥伝社
戦後 歴史の真実2000前野徹経済界
妬婦2001林 香奈 金沢大学
日韓共鳴二千年史2002名越二荒之助編著明成社
日韓「禁断の歴史」2003金完燮小学館
「反日」歴史認識の大嘘2003黄文雄徳間書店
韓国民に告ぐ2005黄文雄祥伝社
新羅の始祖神話と日神信仰の考察2011延 恩株桜美林大学
本当は恐ろしい韓国の歴史2016豊田隆雄彩図社

では、韓国と日本の教科書に現れない歴史上の事実を、当時の記録をもとに訪ねてみましょう。

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2.半島の古代史

 2-1 壇君(タングン)神話

韓国の歴史教科書に壇君神話が登場します。檀君朝鮮は伝説的存在で、実在したという物的証拠が何一つ発見されていないため史実的な根拠は極めて薄弱です。仁宗の命を受けて編纂された「三国史記」にも壇君神話はありません。

一然編纂の「三国遺事」は史実を「魏書」と「古記」から引用したとありますが、現存する「魏書」にも他の中国の資料にも檀君はでてきません。また「古記」は現存していません。

三国史記からこぼれ落ちた説話を集めたとされる「三国遺事」に、わずか400時程度の神話として掲載されていることから高麗の高僧一然の創作とも思えます。檀君は「檀国の君主」、個人名は「王倹(ワングム)」といいます。以下は、原文と Yahoo! 翻訳の助けを借りたはげちゃんの訳です

三国遺事の古朝鮮「王儉朝鮮」には次のように記載されています。

魏書云 乃往二千載 有壇君王儉 立都阿斯達【經云無葉山 亦云白岳 在白州地 或云在開城東 今白岳宮是】 開國號朝鮮 與高同時

魏書に記録があります。すなわち紀元前2千年以前に、壇君が王となって都を阿斯達に建てました。(経は無葉山だと記しています。また白岳とも記しています。これは白州にあります。あるいは、開城の東にあるとも記しています。今、白岳宮と言われているのがこれです。)國を開き朝鮮と号しました。中国の夏王朝の堯と同じ時代です。

古記云 昔有桓因【謂帝釋也】 庶子桓雄 數意天下 貪求人世 父知子意 下視三危太伯 可以弘益人間 乃授天符印三箇

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古記に記録があります。むかし天帝の桓因(カンイン)は、婚外子の桓雄(カンユウ)が人間の国を治めたいと望んでいることを知りました。下界を見下ろして太白山地域が良かろうと、三つの天符の印(風伯・雨師・雲師の三神の印綬)を授け、人間世界を治めることを許可しました。

遣往理之 雄率徒三千 降於太伯山頂【即太伯今妙香山】 神壇樹下 謂之神市 是謂桓雄天王也 將風伯雨師雲師 而主穀主命主病主刑主善惡 凡主人間三百六十餘事 在世理化

桓雄は三千人の兵を率いて太伯山の頂(即ち太伯は今の妙香山です)の神壇樹のそばに降りました。これにより桓雄は天王となり、風伯・雨師・雲師を將(ひき)いて穀・命・病・刑・善惡をつかさどり、凡(すべ)て人間の三百六十余事をつかさどりました。

時有一熊・一虎 同穴而居 常祈于神雄 願化爲人 時神遺靈艾一・蒜二十枚曰 爾輩食之 不見日光百日 便得人形 熊・虎得而食之 忌三七日 熊得女身 虎不能忌 而不得人身

あるとき、一頭のクマと一頭の虎が現れ、人間にして欲しいと桓雄に願い出ました。桓雄はよもぎ一袋とニンニク20粒を与え、これを食べて100日の間日光に当たらなければ人間になれると教えました。熊と虎は洞窟にこもりましたが、虎は耐えられずに飛び出してしまいました。37日目に熊は人間の女になりました。

熊女者無與爲婚 故毎於壇樹下 呪願有孕 雄乃假化而婚之 孕生子 號曰壇君王儉

人間の女になった熊は婚姻する相手が見当たらず、毎日壇樹の下で子どもを授けてくださいと祈りました。これをみた桓雄は人間の姿になって結婚し、人間の女になった熊は孕んで男の子を生み落としました。子どもは、檀国の君主として王倹と名付けられました。

以唐高即位五十年庚寅(唐高即位元年戊辰 則五十年丁巳 非庚寅也 疑其未實) 都平壤城(今西京) 始稱朝鮮 又移都於白岳山阿斯達 又名弓(一作方)忽山 又今彌達 御國一千五百年

中国の夏王朝の堯が即位した50年後、壇君は平壌に都を定めて朝鮮と呼びましたが、後に白岳山の阿斯達に都を移して1500年の長きにわたって朝鮮を統治しました。

周虎王即位己卯 封箕子於朝鮮 壇君乃移藏唐京 後還隱於阿斯達 爲山神 壽一千九百八歳

中国王朝の周の武帝が前王朝の殷の一族である箕子(きし)に朝鮮を与えたため、壇君は阿斯達の山神となり1908歳で生涯を終えました。

最終部分の記述から、壇君は中国王朝に気を使わなければならなかったことが分かります。壇君王朝は47代、1500年間栄えたとされていますが、壇君の子孫は断絶してしまいました

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 2-2 箕子朝鮮

箕子朝鮮も衛氏朝鮮も中国人が建国し、衛氏朝鮮の実在は遺跡などで確かめられています。中国では楽浪郡設置後に楽浪郡を指して「朝鮮」と呼んでいましたが、朝鮮半島で自国名を「朝鮮」と称するのは李氏朝鮮王朝からです。

朝鮮半島において学術的な検証が可能となる最初の国家は箕子朝鮮、ある程度実情が分かるのは衛氏朝鮮からです。箕子朝鮮が興った明確な時期は分りません、史記等の記述や考古調査から前12世紀に殷王朝王族の箕子が朝鮮の地を治め始め、後に周王朝が侯国に封じたとされます。

箕子朝鮮の存在について様々な節もありますが、「三国志」の魏志東夷伝辰韓条、「魏略」の逸文などに記録があるので存在したと思われます。箕子朝鮮についての記録は「三国志」の魏志東夷伝 辰韓条、「魏略」の逸文などに記録があります。

「史記」によれば、箕子は中国の殷王朝28代文丁の子で、太師になった時に甥の帝辛(紂王)に仕えました。帝辛の暴政(酒池肉林の乱行)いさめても聞き入れられず、狂人をよそおい奴婢となって身を隠しましたが見つかり幽閉されます。

殷を滅ぼした周の武王は箕子に帝辛の暴政をたずねましたが、箕子はその問いには直接答えず、政治のあるべき姿を語りました。武王は「箕子に殷が滅びた理由をたずねても、彼がその王の悪口をいうわけがない。箕子はつらい思いをしたであろう。このようなことをたずねた余が愚かであった」と悔いて、箕子を朝鮮に封じました。

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班固は「漢書」地理志で、箕子は殷を去って朝鮮にゆくと記録しています。箕子は滅亡した殷王朝の民を率いて東方へ赴き、王険城(現在の平壌)のあたりに定住の礎を築きました。

始皇帝の強制労働で逃亡した農耕民や遊牧民などが流入して、しだいに集落の規模が広がっていきます。都市国家の様相が整い始めると、箕子は礼儀や農事・養蚕・機織の技術を広め、また犯禁八条を実施して民を教化したので理想的な社会が保たれたとあります。

箕子の子孫は朝鮮侯を世襲しましたが、東周が衰退すると自ら王を名乗るようになりました。燕とは友好関係を結びましたがその後の子孫は傲慢になり、燕の将軍秦開に攻めこまれて二千里の領土を奪われ弱体化します。秦が天下を統一すると紀元前214年に秦に服属しました。

準王(箕準)の代になると、秦の動乱により燕・斉・趙から流入する民が増加し、王は彼らを西方に居住させました。そして、紀元前195年に前漢の劉邦配下である燕王盧綰の部将であった衛満が箕子朝鮮に亡命して来ました。

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 2-3 衛氏朝鮮

衛氏朝鮮は前194年に燕出身の将軍であった中国人の衛満が箕子朝鮮の王・準王を追い出して建国しました。衛氏朝鮮は三代衛右渠のときに漢の武帝に滅ぼされ、領地は楽浪郡・真番郡・臨屯郡・玄菟郡の漢四郡として400年間直轄支配(植民地ともいわれる)されますが、移転や廃止により最後は楽浪郡のみが残りました。

紀元前195年から紀元前108年頃に、中国の燕からの亡命者である衛満(史記と漢書には満の名のみ記され、姓を衛と記すのは2世紀頃に書かれた王符の潜夫論以降です)が今の朝鮮半島北部に建国した最初の国家で、彼らが自称した国名が不明のため便宜上「衛氏朝鮮」と呼ばれています。

「史記」によれば、前漢の高祖の時代の紀元前202年、燕王の臧荼が反乱を起こして処刑され、代わって燕王に就いた盧綰が漢に背いて匈奴に亡命すると、劉建を形式的な燕王に就けましたが、遼東郡を含む燕の旧領を前漢が直轄化しました。

燕人の衛満は身なりをかえて現在の鴨緑江を渡り、千人余りの徒党と共に朝鮮に亡命しました。衛満は、「私たち亡命者が朝鮮を護る」と箕子朝鮮王の準王に取り入り、朝鮮西部に亡命者の居住地を定めました。亡命者が数万人に増加し、さらに燕・斉・趙からも亡命者を誘い入れて亡命者の指導者となりました。

ある時、衛満は「前漢が攻めてきた」と詐称して、準王を護るという口実で王都に乗り込みました。準王は衛満に応戦しましたが勝負にはならず、衛満は燕や斉の亡命者である中国人と原住民の連合政権を樹立し、王険城(平壌)を首都として王位に就き衛満朝鮮を建国しました。

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漢の遼東大守は皇帝の裁可を得てこの政権を承認したため、衛満は自分の支配地域と漢との交易を独占することになり、財物と兵器を蓄えて国力は強大化しました。その勢力圏は平安北道を除く朝鮮半島のほぼ全域と中国東北地方を含み、数千里四方に及びました。

ある時衛氏朝鮮王の衛右渠が、朝鮮半島南部にある辰国が漢への往来や朝貢をすることを妨害したため漢ともめ事が発生しました。紀元前109年に漢の武帝が軍隊を派遣し衛氏朝鮮と戦闘状態になりました。

衛氏朝鮮は滅ぼされ、国土は、楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟郡の漢四郡が置かれ漢の領土となりました。史記の朝鮮伝には「遂に朝鮮を定め、四郡と為す」と記され、史記の孝武本紀には「朝鮮を伐つ」とあります。漢は遼東半島と朝鮮半島に漢四郡(楽浪郡・真番郡・臨屯郡・玄菟郡)を設置しました。

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 2-5 半島を覆った悪夢

八世紀から九世紀にかけての新羅で王位継承の争いが続き、農民の反乱や飢饉に見舞われて国力を失いました。有力な豪族が新羅を分裂させましたが、争いを制して新羅を併合した高麗が後百済を滅ぼして936年に朝鮮半島を統一しました

北宋の官吏であった徐兢 (じょきょう) は、高麗の都開城に1ヶ月ほど滞在して見聞をまとめた高麗図経を1124年に表しました。

臣聞高麗,地封未広,生歯已衆. 四民之業,以儒為貴、故其国,以不知書,為恥.
 高麗の土地は広くはないが民は非常に多い。住んでいる人々は儒教を尊び、高麗では文字が分からないことを恥ずかしく思う

然其爲人,寡恩好色,泛愛重財. 男女婚娶,輕合易離,不法典禮,良可哂也.
 高麗の人々は恩恵を施す事が少なくて女色が好きであり、無分別に財物を愛して重んじる。 男女の婚姻も軽率に合して容易に離れ、典礼に則らないからあざ笑うに値する

掲載サイト:維基文庫,自由的圖書館 宣和奉使高麗圖經/卷19,民庶 序。

高麗は1259年にフビライ・ハンの侵攻によりモンゴル(元)の属国となりますが、1388年に明が元を倒した混乱期に軍事力を増強しました。高麗朝第34代恭譲王は新羅が放棄した満州から沿海州にかけての旧高句麗領の回復を企て、高麗右軍の李成桂(イソンゲ)司令官に遼東半島の回復を命じました。

李成桂は3万8千人の軍勢を率いて進軍中に、左軍の統制使であった曹敏修(チョミンス)と共謀して平城へ引き返すと、上官である鄭夢周(ジョンモンジュ)将軍を逮捕して軍事クーデターを起こしました

権力を握った李成桂は、鄭夢周将軍の忠臣たちを容赦なく殺し、利害が対立した曹敏修を故郷へ配流しました。1392年に李成桂は恭譲王から王の位を譲り受ける形式をとって王位につき、王位を禅譲した恭譲王と王族である王氏一族を生きたまま海に葬って皆殺しにしました

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3.半島に住む人々

朝鮮半島に居住していた人々の生活や習慣は、中国の東北区、ロシアの沿海州、朝鮮半島に住んでいた諸種族に関する記録が重要となります。文字で残した中国の知識人たちが朝鮮半島に居住した民族を十分に理解していたとは言えませんが、手掛かりになるのは中国の資料しかありません。

東アジア民族に関する様々な人々の記録を調査して分かる場合は原文を掲載し、和訳は「 YaHoo!のテキスト翻訳」を元に、井上秀雄ほか訳注の「東アジア民族史1と2(平凡社)」の助けを借りました。また、出典や掲載サイトは資料ごとに明示しました。なお、表示できない文字は「?」と表記しました。

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 3-1 三国志 魏書30 夫餘伝

三国志は、中国の後漢末期から「魏・呉・蜀」が争覇した三国時代(184~280)を、信頼性の乏しい情報を極力排した簡朴明解な紀伝体の歴史書で中国西晋代の陳寿がまとめました。夫餘は、現在の中国東北部(満州)にかつて存在した民族とその国家です。

用刑嚴急,殺人者死,沒其家人爲奴婢。竊盜一責十二。男女淫,婦人妬,皆殺之。尤妬,已殺,屍之國南山上,至腐爛。女家欲得,輸牛馬乃與之。兄死妻嫂,與匈奴同俗
 刑罰は厳しく実行し、人を殺した者は死刑とし、その家は没収して家族は奴婢にする。盗みには盗んだものの十二倍を償わせる。男女の姦淫や、婦人が嫉んだりすればすべて殺す。嫉みによる罪を最も憎み、その女の屍は国の南山の上に運んで腐爛するまで放置する。家族が遺骸を引き取るときは、(見合う)牛馬が提供されてからこれを与える。兄が死ぬと、兄嫁を妻にするのは匈奴と同じ風俗である。(8~10行目)

掲載サイト:維基文庫,自由的圖書館 三國志/卷30 夫餘。

なお、後漢書付夫餘国伝、晋書夫餘国伝にも同様の記録があります。

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 3-2 三国志 魏志30 高句麗

高句麗の支配階級は耕作しない。(したがって)徒食するだけの者が一万余人もいる。下戸が遠くから五穀・魚・塩などを担い運んできて(主家に)供給する。

高句麗の人々は歌舞することを好み、いずこの村も夜になると男女が群がり聚まり、相ともに歌舞する。大きな倉庫はなく、家々がそれぞれ小さな倉を持っていて、これを桴京といっている。(また)人々は清潔で、自分たちで(酒を)醸造し、所蔵している(家が)多い。

(高句麗の男女の)風俗は乱れている。男女は結婚すると、ただちに少しずつ葬儀のときの衣服を作りはじめる。(遺体は)手厚く葬むり、金銀・財宝は、死者を送るのに費やしてしまう。(遺体の上に)石を積んで土を盛り、松と柏(このてがしわ)を列べて植える。

出典:東アジア民族史1 正史東夷伝,p.113~115 井上秀雄ほか訳注 平凡社。

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 3-3 後漢書 扶餘伝

食?用俎豆,会同拜爵洗爵,揖?升降。以?月祭天,大会?日,??食歌舞,名曰「迎鼓」。是?断刑?,解囚徒。有?事亦祭天,?牛,以蹄占其吉凶。行人无昼夜,好歌吟,音声不?
 飲食には俎豆を用いる。宴会などで酒杯のやりとりをするときも、その立ち居ふるまいは(礼儀にかない)謙虚である。十二月には天を祭り、連日大会して飲み食い歌舞する。これを迎鼓という。この時には刑罰を行わず、囚人を開放する。戦争の時にも天を祭り、牛を殺してその蹄で吉凶を占う。みち行く人は、昼夜の別なく歌(をうたい詩を)吟(ずること)を好み、その歌声がたえない

其俗用刑?急,被?者皆没其家人?奴婢。盗一?十二。男女淫,皆?之,尤治???,既?,?尸于山上。兄死妻嫂
 (夫餘の)習俗では、刑罰が非常に厳しい。死刑囚の家人はみな、没収されて奴婢(の身分)に落とされる。盗みをした者には、その十二倍を償わせる。男女の私通はすべて死刑とし、嫉妬深い婦人をもっとも憎み(ひどく罰する)。(死刑囚を)殺したら(その死体を)山上にさらす。兄が死ねば、(弟は)あによめをめとる

掲載サイト:維基文庫,自由的圖書館「後漢書 卷八十五 東夷列傳 第七十五}。和訳:東アジア民族史1 正史東夷伝,p.44~45 井上秀雄ほか訳注 平凡社。

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 3-4 後漢書 魏書?婁(ゆうろう)伝

好?豕,食其肉,衣其皮。冬以豕膏?身,厚数分,以御?寒。夏?裸袒,以尺布蔽其前后。其人臭?不?,作?于中,圜之而居
 よく豚を養い、その肉を食べ、その皮を着る。冬は豚の膏を身体に厚さ数分も塗って風の寒さを防ぐ。夏には裸になって、一尺ほどの布でその前後を蔽う(だけである)。その人々は臭く穢く不潔である。厠を(家の)中に作り、それを囲んで住んでいる

掲載サイト:維基文庫,自由的圖書館「後漢書 卷八十五 東夷列傳 第七十五」、和訳:東アジア民族史1 正史東夷伝,p.66 井上秀雄ほか訳注 平凡社。

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 3-5 後漢書 ?(わい)伝

常用十月祭天,昼夜?酒歌舞,名之?「舞天」。又祠虎以?神。邑落有相侵犯者,?相?,?生口牛?,名之?「??」。?人者?死。少寇盗。能??,作矛?三丈,或数人共持之。
 毎年十月に天を祭って、昼も夜も酒を飲み歌舞する。このことを舞天という。また虎を神として祀っている。村に侵入してくるものがあれば、その罰として捕虜や牛馬を要求する。これを責禍という。殺人者は死刑にする。盗みをするものが少ない。歩戦が上手で長さ三尺もある矛を作る。ときには(これを)数人で持ち歩く。

掲載サイト:維基文庫,自由的圖書館「後漢書 卷八十五 東夷列傳 第七十五」、和訳:東アジア民族史1 正史東夷伝,p.93~94 井上秀雄ほか訳注 平凡社。

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 3-6 後漢書 高句麗伝

其俗淫,皆??自熹,暮夜?男女群聚?倡?。好祠鬼神、社稷、零星,以十月祭天大会,名曰「?盟」。
 (高句麗の)習俗は(中国人から見れば)淫らであるが、みなきれい好きである。夕暮れになれば男女は集い唱楽をする。またよく鬼神・社稷・零星を祀る。十月には天を祭り(国中のものが)大集会する。これを「東盟」という。

掲載サイト:維基文庫,自由的圖書館「後漢の本 卷八十五 東夷列傳 第七十五」、和訳:東アジア民族史1 正史東夷伝,p.105~106 井上秀雄ほか訳注 平凡社。

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 3-7 後漢書 韓伝

其人壮勇,少年有筑室作力者,?以??脊皮,?以大木,??呼?健。常以五月田竟祭鬼神,昼夜酒会,群聚歌舞,舞?数十人相随,?地??。十月?功?,亦?如之
 韓人は勇壮(な性格)がある。その少年たちで建物をたてるのに従事するものは、みな背中の皮に(穴をあけ、それに)綱を通し、(そのさきに)大木を結び付け、大声を出して叫ぶ。(これを)健(児)という。毎年五月の耕作が終わると、鬼神を祭り、昼も夜も酒盛りの寄合をし、村人たちが群れ集まって歌舞する、舞をするときには数十人が一緒になって地を踏み調子を取る、十月にも、農作業が終わった後、またこのような(お祭りを)する

掲載サイト:維基文庫,自由的圖書館「後漢書 卷八十五 東夷列傳 第七十五」、和訳:東アジア民族史1 正史東夷伝,p.189~194 井上秀雄ほか訳注 平凡社。

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 3-8 後漢書 倭伝

有城?屋室。父母兄弟??,唯会同男女无?。??食以手,而用?豆。俗皆徒跣,以蹲踞?恭敬。人性嗜酒。多寿考,至百余?者甚??。国多女子,大人皆有四五妻,其余或?或三。女人不淫不?。又俗不盗窃,少争??。犯法者没其妻子,重者?其?族。
 (倭国には)城柵がある。家屋は父母の棟と兄弟の棟とが別である。ただ寄合の時などは、男女の差別なくふるまい、木製の高坏に持ったものを手づかみで飲食する。普通はみなはだしであり、蹲踞の姿勢で恭敬の意を表す。人はみな酒好きである。長命名の者が多く、百余歳に至る者も大変多い。男子よりも女子の方が多いので、(諸国の)大人(有力者)はみな四、五人の妻をもち、その他の者でも二、三人はもっている。(それであるのに)女性たちはいたって貞淑で、決して嫉妬などしない。風俗は盗みや争い事が少ない。もしも掟を破れば、(犯罪人の)妻子を没収し、時に重罪の場合は一族の者をことごとく死刑にする。

掲載サイト:維基文庫,自由的圖書館「後漢書 卷八十五 東夷列傳 第七十五」、和訳:東アジア民族史1 正史東夷伝,p.285~277 井上秀雄ほか訳注 平凡社。

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 3-9 晋書 粛慎(シュクシン)氏伝

井戸や竈はない。瓦礫(土釜)をつくり、(それに)四、五升を盛ってそうして食べる。(また)両足をのばして坐り、足でもって肉を挟んで食べる。凍った肉を得れば、その上に坐って暖めた。(粛慎氏の)地には、塩や鉄はない。(それで)木を焼いて灰をつくり、(水を)濯いで汁を取ってそれを食した。

出典:東アジア民族史1 正史東夷伝,p.71 井上秀雄ほか訳注 平凡社。

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 3-10 梁書 百済伝

其人形長,衣服淨潔。其國近倭,頗有文身者。今言語服章略與高驪同,行不張拱、拜不申足則異。
 百済の人は背が高く、(その)衣服は清潔である。百済国は倭に近いので、文身(いれずみ)をしているものかなり多い。現在、(その)言語・衣装は高句麗とほぼ同じである。(ただ。百済の礼式で)身体にさいして仰々しい腰折れをしないこと、拝礼に片足を伸ばさないことが(高句麗と)違っている。

掲載サイト:維基文庫,自由的圖書館「隋書 卷五十四 列傳第四十八 諸夷 百済」、和訳:東アジア民族史1 正史東夷伝,p.232~233 井上秀雄ほか訳注 平凡社。

なお、三国志韓伝、晋書馬韓伝、南史百済伝、北史百済伝、通典百済伝にも同様の記録があります。

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 3-11 梁書 新羅伝

無文字,刻木爲信。語言待百濟而後通焉。
 文字がないので木に刻み目をつけて信(しるし)にしている。(中国に)言葉を通じるには、百済(人の通訳)を介さなければならない。

掲載サイト:維基文庫,自由的圖書館「梁書 卷五十四 列傳第四十八 諸夷 新羅」、和訳:東アジア民族史2 正史東夷伝,p.275~277 井上秀雄ほか訳注 平凡社。

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 3-12 隋書 百済伝

其人雜有新羅、高麗、倭等,亦有中國人。其衣服與高麗略同。婦人不加粉黛,女辮發垂後,已出嫁則分爲兩道,盤於頭上。俗尚騎射,讀書史,能吏事,亦知醫藥、蓍龜、占相之術。以兩手據地爲敬。
 百済の人(の中)には、新羅・高句麗・倭など(の人)がまじっており、それにまた中国人もいる。夫人は、白粉や眉墨をつけず、辮髪して後ろに垂らし、嫁ぐと(髪を)二筋に分けて頭上にまきつける。人々は騎射を重んじ、古典と歴史書を読み、公務をうまくこなし、さらに医薬(それに)筮竹や亀の甲で占う術をしっている。(また百済では)両手を地につけて尊敬を示す動作としている。

掲載サイト:維基文庫,自由的圖書館「隋書 卷八十一 列傳第四十六 東夷 百済」、和訳:東アジア民族史1 正史東夷伝,p.255 井上秀雄ほか訳注 平凡社

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 3-13  隋書 倭国伝

大業三年,其王多利思北孤遣使朝貢。使者曰:「聞海西菩薩天子重興佛法,故遣朝拜,兼沙門數十人來學佛法。」其國書曰「日出處天子至書日沒處天子無恙」云云。帝覽之不悅,謂鴻臚卿曰:「蠻夷書有無禮者,勿復以聞。」
 大業三年(607)、倭王の多利思比孤が使者を遣わしてきた。使者が言うには、「海西の菩薩のように慈悲深い天子が、重ねて仏法を興隆させていると聞いた。故に使いして朝拝し、かたがた僧侶数十人が来て仏法を学びたい」と。(このとき、その使者が齎した)国書には、「太陽が昇る処(東)の天子が、国書を、太陽が沈む処(西)の天子に届ける。無事息災でいられるか云々。」と書かれていた。煬帝はこれを見て不興で、鴻臚寺の長官に「蛮夷の書であるのに、無礼極まる。二度と奉聞するでない」と言った。

掲載サイト:維基文庫,自由的圖書館「隋書 卷八十一 列傳第四十六 東夷 倭国」、和訳:東アジア民族史1 正史東夷伝,p.326~327 井上秀雄ほか訳注 平凡社。

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 3-14 北史 高句麗伝

與新羅?相侵奪,戰爭不息。
 新羅といつも互いに侵攻し略奪しあい、戦争はやすみなし(に続いた)。

掲載サイト:維基文庫,自由的圖書館「舊唐書 卷一百九十九上 列傳第一百四十九上 東夷 高麗」。和訳:東アジア民族史2 正史東夷伝,p.88 井上秀雄ほか訳注 平凡社。

風俗尚淫,不以為愧,俗多游女,夫無常人,夜則男女群聚而戲,無有貴賤之節
 風俗は乱らなことを好み、恥としない。遊女が多く、夫は一定の者ではない。(91行)

出典:東アジア民族史2 正史東夷伝  井上秀雄ほか訳注 平凡社。

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 3-15 旧唐書 日本国伝

日本國者,倭國之別種也。以其國在日邊,故以日本爲名。或曰:倭國自惡其名不雅,改爲日本。
 日本国は倭国の別種である。その国が日(太陽の昇るところに)の近くに位置しているので、日本を(国の)名としたのである。或いは、倭国(の人々)はみずからその(国の)名を麗しくないのを嫌って、日本と改称したともいう。

掲載サイト:維基文庫,自由的圖書館「舊唐書 卷一百九十九上 列傳第一百四十九上 東夷 日本」。和訳:東アジア民族史2 正史東夷伝,p.377 井上秀雄ほか訳注 平凡社。

 3-16 周書 異域伝 高麗伝

土田塉薄,居處節儉.然尚容止。多詐偽,言辭鄙穢,不簡親疏,乃至同川而浴,共室而寢。風俗好淫,不以為愧.有遊女者,夫無常人
 土地は瘠せており、生活はつつましやかです。立ち居ふるまいを尚(とうと)ぶ。嘘や偽りが多く、言葉は田舎びて賤しく冗漫で、敬語(の区別)がない。親子が川でいっしょに水浴したり、同じ室で寝る。風俗は淫らなことを好み、恥としない遊女があり、夫は一定の者ではない。(10~11行)

掲載サイト:周書卷四十九 列傳第四十一 異域上 高麗

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 3-17 周書 異域伝 百濟伝

賦税以布絹絲麻及米等,量歳豐儉,差等輸之。其刑罰:反叛,退軍及殺人者,斬;盜者,流,其贓兩倍徴之.婦人犯姦者,沒入夫家為婢.婦人犯奸者、沒入夫家為婢
 税は、布・絹・糸・麻や米などで賦課し、その年の出来高を見て取っている。刑罰は、謀叛・敵前逃亡・殺人(の場合)は(これを)斬(殺の刑に処)し、盗みは流刑とし、贓品にはその二倍を徴取する。(結婚している)女性が姦(通)した場合は、(その身分を)おとして夫の家の婢としている。(1~12行)

掲載サイト:周書卷四十九 列傳第四十一 異域上 百濟

なお、北史百済伝にも同様の記録があります。

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 3-18 徐兢 高麗図経

徐兢 (じょきょう) は北宋の官吏で、宣和5年(1123)に高麗に赴き、都開城に1ヶ月ほど滞在して見聞をまとめたのが高麗図経で宣和6(1124) 年に完成しました。

然其爲人, 寡恩好色,泛愛重財. 男女婚娶, 輕合易離, 不法典禮,良可哂也.
 高麗の人々は恩恵を施す事が少なくて女色が好きであり、無分別に財物を愛して重んじる。 男女の婚姻も軽率に合して容易に離れ、典礼に則らないからあざ笑うに値する。(5行目)

掲載サイト:維基文庫,自由的圖書館 宣和奉使高麗圖經/卷19,民庶 序。

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4.悪夢の李氏朝鮮時代

935年に新羅の敬順王が高麗に投降し、翌年は後百済も滅亡したため高麗による朝鮮半島統一王朝が建国されました。高麗の創始者である王建は、後百済が滅亡したきっかけは王の甄萓(けんけん)の子、神剣(しんけん)が王位を奪取した事件が発端とみて、遺訓「訓要十条」を残しました。その八条に次の規定があります。

車嶺山脈以南と錦江の南、すなわち忠清南道の一部と全羅道一体は、山の形や地勢、人も道理に逆らっており、謀叛を起こすから気を許してはならない。ゆえに良民といえども官職に登用してはならない。(豊田隆雄著、本当は恐ろしい韓国の歴史)

王建は高麗王朝の安泰を願い王族の騒乱を防ぐために残した戒めでしたが、この遺訓が「李氏朝鮮」でも受け継がれ、現在の全羅北道と全羅南道は反逆の土地柄という汚名を着せられることになりました。

1392年7月に軍事クーデターを起こした李成桂が即位しても「権知高麗国事(仮の国王)」であるため、すぐに明へ使者を送り国王交替の承認を求めました。洪武帝は李成桂の王位は認めましたが、モンゴル帝国と共に紅巾族を攻撃して功績を積んだ李成桂を信頼せず、正式な冊封関係を結びません。

李成桂(イソンゲ)は李朝を創建すると明に臣下の礼をとり、旧高句麗領を放棄することで不安定な政権の後ろ盾となってもらい、クーデターを警戒するあまり正規軍を廃止して中国の明に防衛のすべてをゆだねる他力本願の属国となりました。李成桂は創建した李氏朝鮮の国都を今日のソウルへ遷都し、旧高麗朝のほとんどの官僚を虐殺して土地を没収し、国有化して政権奪取に功労のあった部下に分配しました

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国号の改定を持ちかけられた李成桂は「朝鮮」と「和寧」という二案を出して明の洪武帝に選んでもらい、1395年に国号は「朝鮮」となりました。朝鮮半島を統一した王朝は中国王朝の人治社会を真似ることで民衆の生殺与奪の権利を握り、血縁同士が血で血を洗う惨劇を繰り返すようになりました。

李氏朝鮮は、1392年7月から1910年にかけて朝鮮半島に存在した国家で、朝鮮王朝、朝鮮封建王朝とも呼ばれます。朝鮮民族最後の統一国家と呼べる王朝で、李朝(りちょう)とも呼ばれます。

李氏朝鮮王朝の成立を支えた両班たちは謀略中傷をはじめ不正や腐敗をはびこる社会を形成させ、そのときどきの政権に盲従して不労所得と賄賂をほしいままにし、子々孫々に至るまで民衆から収奪と略奪をはたらきと残虐行為を繰り返したのでした。

李氏朝鮮王朝の支配と、両班の官職慾を満足させるために、手段方法を選ばぬ残忍性で韓民族は変わってしまいました。韓国第5~9代の朴正煕(パク・チョンヒ)大統領を「わが民族史を考察してみると情けないというほかない。」とまで嘆かせた事象を、当時の朝鮮半島を訪れた人々はどのようにとらえていたのでしょう。

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 4-1 李氏朝鮮の殺戮概史

韓国加耶大学校客員教授となられた催基鎬氏が、朝鮮王朝実録を要約された「韓国・堕落の二千年史」には、信じられないような殺戮した事象が繰り広げられています。初代から十五代王までを抜粋して要約しました

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  4-1-1 初代の李成桂

李成桂(イソンゲ)は李朝を創建すると明に臣下の礼をとり、旧高句麗領を放棄することで不安定な政権の後ろ盾となってもらい、クーデターを警戒するあまり正規軍を廃止して中国の明に防衛のすべてをゆだねる他力本願の属国となりました。李成桂は創建した李朝の国都を今日のソウルへ遷都し、旧高麗朝のほとんどの官僚を虐殺して土地を没収し、国有化して政権奪取に功労のあった部下に分配しました

李成桂は八人の王子に恵まれ、忠臣に諮って末子の芳碩(バンソク)を王世子(ワンセジャ=皇太子)候補としましたが、王位継承を巡って王子たちのあいだで骨肉内争が起きました。第五子の芳遠(バンウオン)は虚偽のデマを流布させて政権中枢にいた建国の功労者を一挙に殺害し、王世子候補となった芳碩(バンソク)をその一家とともに惨殺しました

李成桂は1398年に王位を第二子の芳果(バンクア)に譲って故郷に隠居しました。芳果は二代目の王として即位し定宋(ジョンジョン)と号しましたが策略によって退位させられ、第五子の芳遠が李朝三代目の王に就任しました。明は朝鮮国王の地位を正式に認め、1403年に辞令が交付されました。これを知った李成桂の長男の芳雨(バンウ)は世俗を捨てて山寺に身を隠し、王位継承の争いは終止しました。

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  4-1-2 ハングルの誕生

李朝第四代の王は李成桂の第三子であった世宗(セジョン)で1418年に即位し、賢明で学問を好み、内治や外交、文化など各方面に多大の治績をあげた名君でした。即位と同時に「正音庁」を設置してハングル文字である「訓民正音(フンミンジョンオム)」を創製しました

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※ 訓民正音(文化財庁の「韓国の記録遺産」より転載)
 訓民正音とは「国民に教える正しい音」という意味である。朝鮮第4代王である世宗はそれまで使われていた漢字が韓国語と構造が異なる中国語表記のための文字体系であるために、多くの国民が学び、使うことができないという事実をもどかしく思い、世宗25年(1443)に韓国語の表記に相応しい文字体系を完成させ「訓民正音」と名付けた。
 世宗28年(1446)、鄭麟趾などが世宗の命を受け説明した漢文解説書を全巻33頁1冊の本として発刊し、その題名を訓民正音とした。解説が付いており『訓民正音解例本』または『訓民正音原本』ともいう。現存本は1940年頃、慶尚北道安東の古い建物から発見され、国内唯一の貴重な本である。
 世宗は新たに作った文字について創製の目的を明らかにした序文と新しい文字一つ一つに対して概括的に例示し説明した文を作り、集賢殿の学者達にこれに対する詳細な解説と用例を作るよう命じ、本を作ってこれを一般に広く公開した。

世界の多くの諸民族が自らの言語を表記する文字を作ろうとしたが、ハングルのように一定の時期に特定の人物が、直接、既に存在している文字の影響を受けず独創的な新しい文字を作り、一国家の公用文字として使用するようになる例は、世界的に他にない。さらに新しい文字に関する解説を本で出版したものも歴史的に類例がない。特にこの本で文字を作った原理と文字使用に関する説明にみられる理論が厳密で秩序正しいことから世界の多くの言語学者が非常に高く評価している。訓民正音は国宝第70号に指定され、1997年10月ユネスコ世界記録遺産に登録された。

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しかし、漢字のみを使うことに凝り固まっていた両班(ヤンバン=貴族階級)たちはハングルを「アムクル(女文字)」、「アヘグル(子ども文字の意)」と呼んで、知識のない平民たち女や子供が使う卑しい文字としてさげすんでいました。イザベラ・バードの著作「朝鮮紀行」には次のように書かれています。

朝鮮の言語は二言語が入り混じっている。知識階級は会話の中に漢語を極力まじえ、いささかでも重要な文書は漢語で記される。とはいえそれは千年も昔の古い漢語であって、現在清で話されている言語とは発音がまるで異なっている。朝鮮文字である諺文(オンムン=ハングル)は、教養とは漢籍から得られるもののみとする知識層から、まったく蔑視されている。(朝鮮紀行の序章,p.32~33)

また、催基鎬氏は著作「韓国・堕落の二千年史」で次のように説明しています

ハングルが全国民に教えられるようになったのは、日帝時代になってからのことである。韓日併合の翌年の1911(明治44)年から、総督府によって朝鮮教育令が施行され、初、中、高等学校で朝鮮人、日本人の生徒の区別なく、ハングルを必修科目とすることに決められた。(p.118)

李朝第五代王は1450年に即位した世宗の長男の文宗(ムンジョン)で、言論の自由策をとって民意を掌握しましたが、体が弱く政治に積極的にかかわらずに在位2年で逝去されました。死を目前にした文宗は、枕元に集めた重臣たちに全員が力を合わせて王を助けるという「左右協賛」の遺言を残し、12歳で第六代王に端宗(タンジョン)が即位しました

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  4-1-3 殺戮の時代

催基鎬氏は著作「韓国・堕落の二千年史」で、李朝の歴史を次のように説明しています

世宗の次男で端宗の叔父にあたる首陽大君(スヤンデグン)は、副首相の領議政であった黄甫仁(ファンポイン)や金宋端(キムジョンソ)などの忠臣を暗殺させて自ら領議政となりました。端宗の摂政となった首陽大君が殺害した端宗の側近の数は数百名にのぼりました

端宗を支持する忠臣を残すことなく殺して端宗を廃位させ、李朝第六代王となった首陽大君は端宗を暗殺させて屍を川に流しました。たまたま流れてくる屍を見つけた村長が見かねて埋葬すると、村長一家はみな殺しにされました。

李朝第九代の成宋(ソンジョン)王は、世宋の孫にあたり13歳で即位しました。七代目の世祖王の姫である貞喜大姫が摂政を7年間勤めてから政務に着手し、学問に励み、文武を兼ねて射芸書画に秀でた名君と記録されています。しかし、後宮の妾の親であった巌氏(オムシ)と鄭氏(ジョンシ)の讒言を容れて、正妻であった尹姫(ユンピ)の嫉妬が激しいという理由で常民の身分に落とし、二十代の尹姫を賜死させました

尹姫の長男である燕山君(イエンサングン)は、父王の崩御と同時に第十代の国王に即位しました。燕山君は尹姫の老母から重臣たちの陰謀で毒杯である賜薬を飲まされ、吐血した尹姫の血が付着した上着を見せられました。燕山君は1504年に勲旧派の巌氏と鄭氏を撲殺してその子どもを賜死させ、父王時代に母を死に追いやった重臣たちを皆殺しにして復讐しました

燕山君は父王の重臣たちを一掃すると酒池肉林に溺れ、全国から美女を強制的に集め、歌や狩りなど技芸に優れた300人を選んで王宮に住まわせました。官職を奪われた人々と王宮内で機会を窺がっていた人々が気脈を合わせ、1506年の9月に王の異母弟である晋城大君(ジンソンデグン)を擁立して燕山君を幽閉しました

晋城は中宋(チュンジョン)王として即位し、権勢をふるった燕山君の重臣は処刑されました。後宮の妾の親が娘をそそのかして、重臣たちが国を乗っ取ろうとしていると中宋王に告げ口させました。中宋王は領議政であった趙光祖(ジョクワンジョ)をはじめとする全閣僚と、次官級の新士派の人々を調べもせずに逮捕して賜死させました

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  4-1-4 黙殺された情報

中宋が死去して第十二代の仁宋(インジョン)が即位すると、無実や冤罪を着せられたことが判明して犠牲者たちの名誉が回復されました。仁宋の母である章敬(ジャキョン)王后の弟の尹任(ユンイム)が勢力を得て、士林派の官僚たちが隆盛しました。

仁宋は八ヶ月の在位で死亡し、中宋王の次男で仁宋王の弟である明宋(ミョンジョン)が十三代目の王として即位しました。12歳のため母后である文定(ムンジョン)王后が政治を行い、実権は文定王后と叔父である尹元衡(ユンウオンヒョン)が握り、「戚族専横(チョクジョクジョンヒユン)」時代が始まりました

尹任と尹元衡は対決することを強いられて党争が熾烈化し、宮廷内で狂気の沙汰が繰り広げられました。尹元衡は礼曹参議(イユジョチャムイ)となって大弾圧に着手し、尹任派の官僚の大方は配流されたうえで100人余りが惨殺されました。李朝を通じて、政争に敗れた反対派の一族は処刑されるのが通例で、女は奴婢に落とされました

明宋王が34歳で世を去ると後継ぎがいなかったので、王族の中から鈞(キュン)が選ばれて第十四代の宣祖(ソンジョ)王として即位しました。宣祖王は日本から伝えられる情報に不安を抱き、真偽を確かめるため使節を派遣しました。使節団は日本に八ヶ月間滞在し、大阪城で秀吉や秀長らに面会して明へ侵攻するにあたり朝鮮の道を借りたいと聞かされました。

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政権派に属さない正使の黄允吉(ファンユンキル)は「秀吉は必ず攻めてくるはずだ」と報告し、副使の金誠一(キムソンイル)は「そのような心配はない」と強調しました。所属する党派が異なれば同じ意見を述べることはなく、副使は政権側の派に属していたので正使の報告は黙殺されました

秀吉軍が明の属領である朝鮮半島に攻め込んでくると、満足な装備を持たない烏合の衆の兵士は逃げ惑うばかりでした。李朝は王宮のあるソウルから脱出すると、民衆は日頃の恨みを晴らすかのように王宮になだれ込み、財宝を略奪して放火しました。李朝は宋主国である明に救援を請願し、秀吉の死により1598年に秀吉軍は韓国から撤退しました。

李朝第十五代の国王に光海君(クワンヘグン)が即位すると、自分の実の兄である臨海君(イムヘグン)と弟の永昌大君(ヨンチャンデグン)を殺し、義理の母后である仁穆大姫(インモクデビ)の父親で祖父でもある金悌男(キムジュエナム)を殺して母后を幽閉しました

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  4-1-5 亡国の慕華思想

李氏朝鮮は中国への卑屈な服従関係と不正腐敗を覆い隠す名分として慕華思想という言葉を用い、自らを中国に並ぶ文明国として政治的には李朝こそが唯一の中華文明の継承者だと自負していました。韓民族はこの考え方を二十一世紀に至るまで忘れることができずにいますが、中国王朝は韓国を重要でない朝貢国と見なしていた記録があります。

ニコラース・ウィットセンは、アムステルダムの富裕な商人の家に生まれ、アジア大陸の北部を回って中国へ行く北方航路に関心を持ち「北および東タルタリア誌」の改訂再販に朝鮮に関する記録を集成しました。朝鮮国記は朝鮮幽囚記に収録されています。

1686年9月1日に慣例と(コレア王から)下された命令に従って、コレアの使節が毎年の貢物を納め、皇帝の前に跪(ひさまづ)くために北京に現われた。使節の一行はオランダ人の使節の見ている所を、謁見の機会を得ることなく、やせた馬に乗り、見すぼらしい服装をした二人の従者を従えるだけで、マンダリンもタルタル人も供をせず、一般の人々と同じようにして宿舎に向かって馬を進めて行った。こうした簡単な準備と、粗末な歓迎の様子を見て、彼らの主人がシナの皇帝と比較していかにも卑小であり、また、タルタル人が彼とその使節を見下していることが明らかである。(朝鮮幽囚記,p.119)

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対馬すなわちスシマは日本とコレアの中間にある島である。それは隠岐諸島と同じく日本の皇帝に属している。対馬には一人の副王すなわち日本人の司令官がいて、コレア人に対抗して兵力を準備している。コレア人は毎年日本の皇帝の代理者としての彼に対して貢物を納める。彼はそういうわけで兵士を対馬に備えておくのである。彼はまたコレアに一軒の家を持っていて、そこに一人の日本人を置いて上記の貢物を取り立てさせている。そしてコレア人は日本人に対するのと同じようにタルタル人のシナの皇帝に対して貢物を送る義務がある。(朝鮮幽囚記,p.127)

オランダ東インド会社の社員が1689年に日本の首都江戸に向かった時の旅行の日誌の中に、私は日本の宮廷が会社の人々に対してコレアや琉球諸島は日本の臣下であるので、そこから来る船を襲撃したり、損害を与えるようなことはしないように要求したということを発見した。このことからコレアの人々はシナに対して貢物を納める義務があるのと同時に、日本王国に対してもそうすることを認めていることが明らかであろう。(朝鮮幽囚記,p.128)

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 4-2 丙子之役(へいしのえき)

『史記』蘇秦列伝によると、紀元前284年に「燕」は自国内に郡制を設けて上谷から遼東までを5郡とし、東胡の侵入を防ぐため北側に東西二千里の長城を築いていました。燕の全盛期であったこの頃に朝鮮は領有され、要地には砦を築いて燕の官吏を駐在させていました。

1627年、中国全土を支配していた「明」が衰え始めると「後金」が台頭してきました。1627年に後金は、明寄りの政策をとっていた朝鮮に侵入し(丁卯胡乱)、後金を兄、朝鮮を弟とすることなどを定めた和議を結びました。朝鮮では丙子胡乱(へいしこらん)と呼び、北西部の蛮族(女真)が乱を起こしたという意味に使っています。

1636年に後金の皇帝に即位したホンタイジ(皇太極)は国号を「清」と改め、李氏朝鮮に臣従するよう要求しました。しかし、朝鮮では明を助けるための主戦論が大勢を占めたため要求を拒絶し、これに激怒したホンタイジは10万の兵力を率いて朝鮮に侵入しました。

李氏朝鮮の仁祖は1万3千人の将兵と共に南漢山城を包囲され、40日余りの篭城の末に降伏して和議が結ばれました。1637年2月24日(旧暦1月30日)、仁祖は城を出て漢江南岸の三田渡にある清軍陣営に出向き、清に対する降伏の礼を強要されました。

仁祖は朝鮮王の正服から平民の着る粗末な衣服に着替え、受降壇の最上段に座るホンタイジに向かって最下壇から三跪九叩頭の礼(膝まずいて両手を地面につけ、額を地面に三回打ち付けて立ち上がり、これを三回繰り返す)による臣下の礼を行い、許しを乞いました。

掲載サイト:維基文庫,自由的圖書館 史記 卷七十 張儀列傳 第十。

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 4-3 大清皇帝功徳碑と迎恩門

これにより、清国と李氏朝鮮との間で終戦講和条約が締結されました。戦いに負けて追い込まれた朝鮮王は「三田渡の盟約(さんでんとのめいやく)」により、『大清皇帝功徳碑』を建立せざるを得なかったのです。

清国の冊封体制に組み込まれた朝鮮は1407年には慕華楼という使臣のための建物を建て、1536年に金安老の建議でそのそばに「迎詔門」が建てました。1539年に明の使臣で来た薛廷寵は、使臣が中国皇帝の詔書や勅書や下賜の品々を持ってくるのに、門の名前が『詔だけを迎える』ではおかしいと言いがかりをつけ、朝鮮王は「迎詔門」の名前を「迎恩門」に変えざるを得ませんでした。

清国からの勅使は1637年から1881年までの244年間に161回に及び、そのたびごとに朝鮮国王は「迎恩門」に出迎え、三跪九叩頭の礼により迎えた後は慕華館での接待を余儀なくされました。朝鮮から清国への朝貢使(朝鮮燕行使)は500回以上にも及び(当初は毎年4回、1644年以降は年1回)、約250年間続きました。

日清戦争の終結により1895年に結ばれた日本と清国との下関条約で、李氏朝鮮は清の冊封体制から離脱して大韓帝国が成立しました。1897年に「迎恩門」は取り壊され独立の記念碑として隣接地に「独立門」が建てられました。迎恩門に隣接した「慕華館」は独立門建立時に「独立館」に改名されました。

大韓民国ソウル特別市西大門区ヒョンジョドンの西大門独立公園内にある独立門は、建設の歴史背景が正しく教えられていないため、「日本からの独立」を記念する門であると誤解している韓国人が多いそうです

朝鮮が何年も清国の属国であったが、神様の恩恵で独立され、朝鮮大君主陛下が今は世界の首脳と同等な立場となり、朝鮮人民が世界にまたがる自由な人になったがゆえに、このようなめでたいことを無視するのは道理ではない。朝鮮が独立したことを世界に知らせ、また朝鮮の後生に、この時から朝鮮が永遠に独立したことを伝えるためにも表迹(表象)が必要であり、また朝鮮人民が養生するには新鮮な空気を吸い、景色が良く静かな場所で運動をすべきである。慕華館に新しく独立門を建て、その周辺を公園にして千秋万歳自主独立した公園であると伝える志である。(1896.7.4.独立新聞論説)

掲載サイト:催基鎬氏著「韓国・堕落の二千年史」、ウイキペディア「迎恩門」。

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5.朝鮮半島の19世紀初頭

19世紀初頭に様々な方法で朝鮮半島を訪れた人々が、朝鮮の様子を記録した書物を残しました。すべてが客観的に書かれたものと思えませんし、人によって、民族によって、考え方や感じ方が異なります。描かれた事象を自由なとらわれのない目で眺め、数多くの見方を重ねて、じっくり事実を確かめましょう。

文中に「朱線」が引かれた部分は女性に関する記述です。当時の朝鮮では、女性を奴隷や慰安婦とみなす極端な男尊女卑の考えがあったことが見えてきます。

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 5-1 見聞者の情報

  5-1-1 朝鮮・琉球航海記のベイジル・ホール

19世紀のイギリスの海軍将校で旅行家で作家。アマースト使節団の中国訪問の期間を利用して、朝鮮・琉球を訪れたイギリス軍艦艦長で、住民との交流や風俗描写を中心に琉球をヨーロッパに紹介しました。

  5-1-2 朝鮮旅行記のゲ・デ・チャガイ

19世紀末の開国まもない朝鮮を旅したソ連科学アカデミー東洋学研究所の研究員、商人、軍人などが書き綴った旅日誌の集成で5件の踏破報告が収められています。ただし、オリーブが取れるとか猿がいるなどの間違いも散見されます。

  5-1-3 朝鮮亡滅のH・B・ハルバート

1886年に朝鮮で最初の近代的教育機関である育英公院の英語教師として着任し、高宗(コジョン)に信頼されてその顧問をつとめました。1907年6月、オランダのハーグで開かれた第二回万国平和会議で、李儁(イジュン)ら3名の代表とともに韓国の主権回復に奔走したことでその名が知られています。

  5-1-4 朝鮮紀行のイザベラ・バード

英国人旅行作家で、朝鮮を訪れたのは62歳の1894年でした。以後3年余り4度に亘って朝鮮各地を旅し、日清戦争、東学党の反乱、閔妃暗殺などの歴史的事件を目撃しながら、朝鮮の素顔を忠実に伝えた名著です。

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  5-1-5 朝鮮時事の柵瀬軍之佐

岩手県一関市出身の政治家で、1907(明治40)年以降衆議院議員として活躍しました。政治家になる前の1894(明治27)年6月、毎日新聞記者として朝鮮に渡り、日清戦争開始直前の朝鮮の事情を取材しました。

  5-1-6 悲劇の朝鮮のアーソン・グレブスト

スエーデンの新聞記者で、日本政府が日露戦争の従軍取材を許可しなかったので商人に偽装して朝鮮へ潜入し、当時の朝鮮の様々な姿を体験してまとめました。いまとなっては忘却の彼方へ押しやられていることが多い貴重な記録です。

  5-1-7 アメリカの反省のヘレン・ミュアーズ

1920年代から日米両国が開戦する直前まで東洋史・地政学を研究し、二度にわたって中国本土と日本を訪れて実情を調査しました。太平洋戦争中はミシガン大学、ノースウェスタン大学などで日本社会について講義し、連合国軍占領下の日本ではGHQの諮問機関「労働政策11人委員会」のメンバーとして、戦後の労働基本法の策定に大きな役割を果たしました。帰国後の1948年(昭和23年)に、原作名「アメリカの鏡・日本」を米国で出版しました。

  5-1-8 国民の歴史の西尾幹二

日本のドイツ文学者、思想家で評論家。学位は文学博士(東京大学)で電気通信大学名誉教授。新しい歴史教科書をつくる会の設立に参加し初代会長を務められ、2015年春に瑞宝中綬章を受勲。小泉純一郎内閣総理大臣を「狂人宰相」、その政策を「国家犯罪」とまで形容したことで有名。

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 5-2 朝鮮の風俗

朝鮮人は一般に、頑固で、気難しく、怒りっぽく、執念深い。それは、彼らがいまだ浸っている半未開性のせいである。異教徒のあいだには、なんらの倫理教育も行われていないし、キリスト教徒の場合も、教育がその成果をあらわすまでには時間がかかる。大人は不断の怒りを笑って済ませるから、子供たちは、ほとんど懲罰を受けることもなく成長し、成長した後は、男も女も見さかいのないほどの怒りを絶え間なく爆発させるようになる。 (朝鮮事情,p.269)

朝鮮人は、本当に怒ると正気を失うといえるかもしれない。自分の生命などどうなってもいいといった状態になり、牙のある動物になってしまう。口のまわりにあぶくがたまり、いよいよ獣めいた顔つきになる。私の印象では、飲酒が節制されれば、喧嘩の数は相当に減るだろう、と思う。朝鮮人は、酒を飲むと、ゴール人ふうというよりはゲール人ふうになる。遺憾なことだが、この怒りの衝動に我を忘れるといった悪癖は、男性だけの独占ではない。それに捉われた朝鮮の女は、ギリシャ神話の三女神を打って一丸としたような、すさまじい凶暴さを発揮する。女は立ちあがってひどい大声でわめくので、しまいには喉から声が出なくなり、つぎには猛烈に嘔吐する。神経錯乱に陥るこうした女たちを見るだびに、私は、どうして脳卒中で倒れずに済んだのかと不思議に思う。どうも朝鮮人は、幼少のときから自分の気分を制御する術を学ぶことがないらしい。子どもも親を見ならって、自分の気に入らないことがあると、まるで気が狂ったように大あばれして、結局、我意を通すか、それとも長くかかって鎮静にもどるか、そのいずれかに落ちつく。(朝鮮亡滅,p.66)

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朝鮮人のもう一つの大きな欠点は、暴食である。この点に関しては、金持も、貧乏人も、両班も、常民も、みんな差異はない。多く食べるということは名誉であり、会食者に出される食事の値うちは、その質ではなく、量ではかられる。したがって、食事中にはほとんど話をしない。ひと言ふた言を言えば、食物のひと口ふた口を失うからである。そして腹にしっかり弾力性を与えるよう、幼い頃から配慮して育てられる。母親たちは、小さな子供を膝の上に抱いてご飯やその他の栄養物を食べさせ、時どき匙の柄で腹をたたいて、十分に腹がふくらんだかどうかをみる。それ以上ふくらますことが生理的に不可能になったときに、食べさせるのをやめる。 (朝鮮事情,p.273)

朝鮮人は毎食すごい量を食べ、結果的に消化障害をよく起こすということだった。食物の相当量が(魚、肉類、野菜はいうに及ばず)生で摂取される。犬肉はその珍味が人気を呼び、牛肉、豚肉のばあいは屠殺後その血を滴らしたまま売られる。豊富にある野生動物は、きまって必要な部分だけ軽く手入れしてから毛皮のまま焼かれ、肉と同じく内臓も好まれる。(悲劇の朝鮮,p.49~50)

朝鮮ではパン焼きが知られていない。製粉所も存在しない。あるのはただ最も原始的な水力による粉碾きのみで、クリはこれによって脱穀されている。小麦粉は稀に麺の形で食用に供されるのみで、手砕きの石臼で製粉されている。かかる食物は贅沢品であって、富裕階級だけが食べられる。庶民の食べ物は主として米と栗で、これに青菜や塩魚、昆布などの香辛料が少量添えられる。(朝鮮旅行記,p.147)

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酔っぱらいは朝鮮の大きな特徴であるといわざるをえない。そしてまた酔っぱらっても恥ではない。正気を失うまで酒を飲んだとしても、粗野だとはみなされない。えらい交換が満腹するまで食事をとり、食事が終わったころには酔いつぶれて床に寝転がっていても、地位を失うことはなく、酔いがさめれば、このようなぜいたくができるほどゆとりがあるのはすばらしいと召したのものから賛辞を受けるのである。(朝鮮紀行,p.125)

朝鮮人は牛の喉を切り開いた切り口に栓をしてしまう。そうしておいてから手斧を取り、牛の尻を死ぬまでなぐる。これには一時間ほどかかり、牛は意識を失うまで恐怖と苦痛にさいなまれる。このやり方だと放血はほんの少量で牛肉には血液がそのまま残り、その結果重量が減らないので売る手には得というわけである。(朝鮮紀行,p.223)

城内ソウルを描写するのは勘弁していただきたいところである。(中略)都会であり首都であるにしては、そのお粗末さはじつに形容しがたい。礼節上二階建ての家は建てられず、したがって推定25万人の住民はおもに迷路のような横町の「地べた」で暮らしている。路地の多くは荷物を積んだ牛どおしがすれちがえず、荷牛と人間ならかろうじてすれちがえる程度の幅しかなく、おまけにその幅は家々から出た固体および液体の汚物を受ける穴がみぞで狭められている。悪臭ふんぷんのその穴やみぞの横に好んで集まるのが、土ぼこりにまみれた半裸の子供たち、疥癬持ちでかすみ目の大きな犬で、犬は汚物の中で転げまわったりひなたでまばたきしてる。(朝鮮紀行,p.58-59)

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ソウルのあちこちを歩いていると、そのなかに特に人の足を止めさせ注意をひくものがある。ごみくずの山の間をぬってくねくねと流れながら不純物を運び、お世辞にも芳しいとはいえぬ匂いを漂わせる下水道や溝のそばに、主婦が列をなして座り込み熱心に洗濯をしている。汚い水に洗濯物を何度も揉み擦りして、結局はわが目を疑うくらいにきれいに仕上げる。(悲劇の朝鮮,p.135)

釜山府使の厩舎と稱する不潔なる屋宇の前に至れば。二箇の年老いたる婦人瓶を頭上に戴きて進み來れり。余等暫く佇立其爲す所を熟視すれば。彼等は便所の側にて其の瓶を頭上より下ろし。携へたる眞鍮の瓶を執りて。湛へる計りに其の小便を酌み分け。再び是を頭上に戴き。急ぎ南方を指して皈へり行けり。而して其の歩行する度々。ダラダラと頭上より肩邊に流下する小便は。白衣を霑ほし。恰かも不時の降雨に打たれたる旅人に異ならず。如何に韓人の頭脳の卑底なる是の如く甚だしと雖も。小便を觀る水の如くならずんば。決して斯かる始末は出來ざる筈なり。(朝鮮時事,p.11)

朝鮮の農家は概して田園に肥料を施す事を爲さず。多くは路傍若くは明き地を所ろ擇ばず。便所と心得敢て殊更に是を設置する所なし。故に掃除運搬の必要を認めざるは一般なるも。其少しく高貴と呼ばるゝ者の宅に至りては。特に便所の設置ある故。是を掃除運搬するに當りては婦人多くは是れが任に當り。矢張り小便と同じく是を頭上に戴き。男子なれば背に擔ふ。韓人の潔不潔を知らざる既に然り。(朝鮮時事,p.12)

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只た施政暴横の結果として。彼等は財資を貯蓄するの念なく。家屋を壯麗にするの意なく。生活を高尚にするの心なく。總ての者は皆な纔かに一片憐む可き炊烟を舉げて一日一日を送過する事を勤め。更らに年後生計の策を畫せざるに至りては。轉た感涙の淋漓たるあるのみ也。(朝鮮時事,p.13)

朝鮮人は男女ともに生まれつき非常に熱情的である。しかし、真の愛情はこの国には全く存在しない。彼らの熱情は純粋に肉体的なものであって、そこにはなんら真心がない。彼らは、自分自身を満足させるため、手に届く対象にはなんにでもやたらと飛びつくあの動物的な欲望、獣的本能以外はしらない。風紀の腐敗は想像を絶し、「人びとの過半数は、自分たちの両親を知らない」と、大胆に断言さえできるのでる。(朝鮮事情,p.267~268)

彼等は病人、特に伝染病患者を非常に嫌います。病人はただちに自分の家から町あるいは村の外に出され、そのために作られた藁ぶきの小屋に連れて行かれます。そこには彼らを看病する者の外は誰も訪れませんし、誰も彼等と話をしません。その傍を通る者は必ず病人に向かってつばを吐きます。病人を看病してくれる親戚を持たない人々は、病人を看病に行かないで、そのまま見捨ててしまいます。(朝鮮幽囚記p.53)

狭量、マンネリズム、慢心、尊大、手仕事を蔑視する誤ったプライド、寛容な公共心や社会的信頼を破壊する自己中心の個人主義、2千年前からの慣習と伝統に隷属した思考と行動、視野の狭い知識、浅薄な倫理観、女性蔑視といったものは朝鮮の教育制度の産物に思われる。(朝鮮紀行,p.489-490)

彼等は盗みをしたり、嘘をついたり、だましたりする強い傾向があります。彼等をあまり信用してはなりません。他人に損害を与えることは彼等にとって手柄と考えられ、恥辱とは考えられていません。 (朝鮮幽囚記,p.52)

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 5-3 国王と政府

1637年に締結された条約は、清に対する朝鮮の実際上の隷属条件を加重することはなかったが、形式的には、これまでよりいっそう屈辱的な従属関係のものとなった。朝鮮国王は清国皇帝に対して、たんに叙任権を認めるばかりでなく、身分上の直接の権限、すなわち主従(君臣)関係まで承認しなければならなくなった。(朝鮮事情,p.34)

朝鮮国王は新しく交代するたび、特使を遣わして(中国の)皇帝にその即位に承認を求めねばならない。特使はまた、王家に関すること、朝鮮で発生した主要事件について、すべて報告しなければならない。反対に、ほとんどの中国人使節が宮廷での品階では朝鮮国王より上部位にいるために、朝鮮国王は使節を迎えるときはソウル郊外に出てつつしんで敬礼をしなければならないし、そのうえ、使節が入城した門以外の門を通ってソウル場内に入らねばならない。使節たちは、滞在中は定められた宮殿を一歩も出ることはできないが、毎日の食卓にあげられた食器類、銀器などをすべて自分たちの所有にできるので、朝鮮政府の莫大な出費の原因になってる。また朝鮮の使節は、国境をこえて最初の中国側都市である辺門(ぴょんむん)城門を通過する資格がないので、仕方なく迂回しなければならない。(朝鮮事情,p.35~36)

朝鮮使節は、毎年北京に赴いて貢納し(冬至便)、冊暦を受けて帰る。この「天暦下賜」は、この国の人びとの考えでは、根本的な重要性を持っている。中国では、冊歴の決定権はもっぱら天子一人に留保されている皇帝権である。(中略)毎年、皇帝は大きな玉璽を押した勅令を交付し、それ以外の暦を使ったり作成したりすることを、死刑にあたる行為として厳禁している。(中略)冊暦を受けるということは、皇帝に隷属し朝貢することをみずから宣言することであり、逆にこれを拒否することは、公然たる謀叛とみなされる。この条約(三田渡の盟約)以後、朝鮮の歴代の国王は、天暦なしですますことができなくなった。(朝鮮事情,p.35)

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対馬すなわちスシマは日本とコレアの中間にある島である。それは隠岐諸島と同じく日本の皇帝に属している。対馬には一人の副王すなわち日本人の司令官がいて、コレア人に対抗して兵力を準備している。コレア人は毎年日本の皇帝の代理者としての彼に対して貢物を納める。彼はそういうわけで兵士を対馬に備えておくのである。彼はまたコレアに一軒の家を持っていて、そこに一人の日本人を置いて上記の貢物を取り立てさせている。そしてコレア人は日本人に対するのと同じようにタルタル人のシナの皇帝に対して貢物を送る義務がある。(朝鮮旅行記,p.127)

オランダ東インド会社の社員が1689年に日本の首都江戸に向かった時の旅行の日誌の中に、私は日本の宮廷が会社の人々に対してコレアや琉球諸島は日本の臣下であるので、そこから来る船を襲撃したり、損害を与えるようなことはしないように要求したということを発見した。このことからコレアの人々はシナに対して貢物を納める義務があるのと同時に、日本王国に対してもそうすることを認めていることが明らかであろう。(朝鮮旅行記,p.128)

政府は、おのれの保持のためには必要であると信じているこの鎖国を、細心に固守しており、いかなる利害や人道上の考慮をもってしても、これを放棄しようとしない。一八七一年、一八七二年の間、驚くべき飢饉が朝鮮をおそい、国土は荒廃した。あまりのひどさに、西海岸の人のうちには、娘を中国人の密貿易者に一人当たり米一升で売るものもいた。北方の国境の森林を越えて遼東にたどりついた何人かの朝鮮人は、むごたらしい国状を図に描いて宣教師たちに示し、「どこの道にも死体がころがっている」と訴えた。しかし、そんな時でさえ、朝鮮政府は、中国や日本からの食料買い入れを許すよりも、むしろ国民の半数が死んでいくのを放置しておく道を選んだ。 (朝鮮事情,p.322)

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当地ではタルタル人(中華民族)の支配下にあるとはいえ、国王の権威は絶対です。国王は国全体を自分の思うとおりに統治し、王国顧問官の意見に従うというようなことはありません。彼らの間には領主つまり都市や島や村を領有している人はいません。(朝鮮幽囚記,p.37)

われわれの理解するところでは、朝鮮人は主要な三階層に区分が可能である。即ち、高貴なる階層の両班(ヤンバン)、半ば高貴な中人(チュイン)、高貴でないイワノミがそれである。これらの三階層は、外観(衣服)でも権利においても、お互いに厳しく識別し合っており、決して婚姻を介して相互に混じり合ってはならない。これらの階層のそれぞれには、たくさんの下位区分が存在する。(朝鮮旅行記,p.79)

朝鮮慣習法の基礎は収奪である。階級の階級に対する支配、奴隷制、民衆の無権利、権力の集中、これらすべてが農民を重く締め付ける。国内で最も恐ろしい悪は、住民のカースト的細区分である。(朝鮮旅行記,p.78)

一般国民の犠牲のもとでの徴税請負制と収租地特許制は政府の二大弊制であった。徴税請負制のもとでは、監司や守礼はなるべく巨額の税を徴収するための自由行動を認められていたので、彼はその徴収した中央政府要求分以上の余分の額を、自分自身の収益として保有することができたのである。繁盛して富裕になったような人は、たちまちにして守礼の執心の犠牲となった。(朝鮮の悲劇,p.28)

守礼は、とくに秋の収穫の豊かであった農民のところにやってきて、金品の借用を申し出る。もしも、その人がこれを拒否すれば郡守はただちに彼を投獄し、その申し出を承認するまで、半ば絶食同然にさせたうえ、日に1~2回の笞刑を加えるのであった。もちろん善良な守礼も悪徳な守礼もいたが、総じて官衛はすべての勤労大衆にとって恐ろしいところであった。(朝鮮の悲劇,p.28)

当時はひとつの道に44人の地方行政官がおり、そのそれぞれに平均400人の部下がついていた。部下の仕事はもっぱら警察と税の取り立てで、その食事代だけをとってみても、ひとり月に2ドル、年に総額で39万2,400ドルかかる。総員1万7,600人のこの大集団は「生活給」をもらわず、究極的にくいものにされる以外なんの権利も特典もない農民から独自に「搾取」するのである。(朝鮮紀行,p.424)

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奴隷は王国で最も醜悪な現象で、決定的に風紀を退廃させている人口である。奴隷のおかげで、両班や中人のみならず、家内手工業の諸階級も寄食を決め込んでいる。奴隷は誰でも購入が可能だからである。朝鮮における奴隷と女奴隷の総数は百万にも達する。これらの不幸なる連中のみが現実に勤労者階級を構成し、自らの顔を流れる汗でもって、残りの1千万人全員を養う。国家は彼らのみによって支えられている。一種王働き続けることが義務付けられているにもかかわらず、彼らには一切の人権が、また所有も認められていない。奴隷所有者はすべからく自らの奴隷の生殺与奪権を握っている。(朝鮮旅行記,p.80)

奴隷の数は全国民の半数以上に達します。というのは自由民と奴隷、あるいは自由民の夫人と奴隷との間に一人または数人の子供が生まれた場合は、その子供たちは全部奴隷とみなされるからです。奴隷と奴隷との間に生まれた子供は、(女奴隷の)主人に帰属します。(朝鮮幽囚記,p.38)

夫はたとえ子供が数人生まれた後でも、妻を追い出して他の夫人と結婚することができます。これに反して、妻はもし判事が離別させた場合でなければ、他の男性と結婚することはできません。男性は扶養して費用を与えることができる限り、妻を何人もってもよいし、好きな時に娼家に行くこともできます。(中略)妻たちは通常おのおの別々に生活し、夫は気に入った妻のところに行きます。この国民は妻を女奴隷と同じように見なし、些細な罪で妻を追い出すことがあります。(朝鮮幽囚記,p.48)

この国民は妻を女奴隷と同じように見なし、些細な罪で妻を追い出すことがあります。夫は子供を引き取ろうとはしませんので、子供は妻が連れて行かねばなりません。したがってこの国は人口が多いのです。 (朝鮮幽囚記,p.48)

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李朝時代のもっとも有名な小説として作者不詳の「春香伝(チュンヒャンジョン)」があります。李朝後期、1700年代のはじめに成立した作品で国字のハングルによる文学である。李朝時代を舞台にしているが、春香(チュンヒャン)という美しい娘と全羅道の地方大韓に当たる府使の息子の夢竜(モンヨン)という青年とのあいだの恋愛小説である。(中略)
 夢竜は科挙に合格し、物乞いに変装して隠密検察官である暗行御使になって全羅道に戻ってくる。そして、春香を救い、悪代官をとらえて罰するという筋書きである。そのなかで、悪代官が宴会をしている席上に夢竜が現われて歌を吟じるシーンがある。
 「金の樽の中の美酒は千の民の血にして、玉のようなる盤の上の佳き肴は万の民の膏なり、燭台の蝋が落ちるとき、民の涙落ち、歌声の高き処に民の恨みの声も亦高まる(許南麒訳、岩波書店、昭和31年)」。(韓国・堕落の二千年史,p.100~101)

また、李氏朝鮮末期の代表的な知識人だった李人稙(イイジク、1862~1916年)が、「血の涙」という詩をつくっている。
 「両班たちが国を潰した。賤民は両班に鞭打たれて、殺される。殺されても、殴られても、不平をいえない。少しで値打ちがある物を持っていれば、両班が奪ってゆく。妻が美しくて両班に奪われても、文句を言うのは禁物だ。両班の前では、まったく無力な賤民は、自分の財産、妻だけでなく、姓名すらその気ままに委られている。口ひとつ間違えればぶっ叩かれるか、遠い島へ流される。両班の刃にかけられて、生命すら保つことができない(「韓国現代史」第八巻、新丘文化社、ソウル)(韓国・堕落の二千年史,p.101)

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極東のロシア当局者たちは、日本が自分たちのような大国に対して、あえて攻撃をしかけようとしているその考え方をあざ笑っていた。いっぽう韓国政府は、この両強大国に対して中立宣言をした公式声明書を発し、それでもって自国の安全を確保できたと考えていた。その結果は周知のとおりである。(朝鮮の悲劇,p.104)

1904年2月10日、万世一系の日本天皇は、ロシアに対して宣戦を布告したそのおもなる理由は、宣戦布告文にもみられるように、ロシアによる満州の脅迫的併合と、その当然の結果としての韓国保全の危機ということであった。(朝鮮の悲劇,p.104)

日本政府は時を同じくして、公式通知を各国政府に対して行ったが、そこでも、もっとも厳粛にかつ方式にかなったかたちで、この戦争の目的が韓国の独立と領土保全の維持とすべての外国に対する門戸解放、および機会均等の保証にあることを繰り返し述べている。(朝鮮の悲劇,p.104~105)

寒い2月の夜半、凍りついた海岸に立って、戦火によって上陸用桟橋の上に照らし出された、装備よくしかも敏捷な日本軍の歩兵を見て、韓国の古い歴史もこれで終わりを告げ、新しい時代が始まるのだと悟ったのである。(朝鮮の悲劇,p.104~105)

朝鮮は、二十世紀における世界興亡の動きの最初の舞台となった。だが朝鮮は眠り続けた。たしかに改革は企てられた。それは間違いない。だが最も正確に言えば、その企てが、じっさいの改革実施において何かよわよわしかったのである。外国人の助言者がつぎつぎと入国したが、しかし彼らの助言は実際上聞き入れられなかったのである。(中略)朝鮮(政府自身)は一度も、改革問題に新権威取り組もうとはしなかった。すべての努力が、宮廷臣下たちの腐敗と懦弱と無能によって、打ちこわされたのであった。(朝鮮の悲劇,p.39~40)

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 5-4 王族と両班

王妃と王妾以外に、宮女と呼ばれているおおぜいの侍女がいる。彼女たちは、全国から無理やりにかり集められ、いったん宮中の侍女となったからには、重病か不治の病にでも陥らない限り、そこで一生を過ごさねばならない。国王が彼女たちを妾としない限り結婚は考えられないことなので、彼女たちは永遠の処女だと決め込まれている。だから、もし彼女たちが純潔でないことがわかれば、罪人として流刑にされるか、ときには死刑に処せられる。想像されるように、このハイムはしばしば模造鵜の放蕩と犯罪の舞台となり、哀れな女たちは王族の欲情の犠牲となる。また、彼女たちの住居は、あらゆる恥辱の巣窟である。これらのことは公然たる事実である。(朝鮮事情,p.53)

すべての宦官たちは結婚しており、そのほとんどが妾を何人も囲っている。これらの妾は、手くだや暴力で誘惑したり、あるいは多額の金をはたいて買い入れた貧民の娘たちである。彼女たちは、貴族階級の婦人たちよりもさらに厳しく閉じ込められ、男の執拗な嫉妬心によって監視されている。(朝鮮事情,p.33~34)

朝鮮の貴族階級は、世界中で最も強力であり最も傲慢である。他の国々では、君主、司法官、諸団体が貴族階級を本来の範囲内におさえて、権力の均衡を保っているが、朝鮮では、両班の人口が多く、内部では対立しているにもかかわらず、自分たちの階級的特権を保持し拡大するために団結することはよく心得ており、常民も官吏も、国王すらも、彼らの権力に対抗することができないでいる。(朝鮮事情,p.192)

国王に仕えていた貴族あるいは奴隷は、国王あるいは国家の税金を納めるだけでよいのです。奴隷の数は全国民の半数以上に達します。というのは自由民と奴隷、あるいは自由民の夫人と奴隷との間に一人または数人の子供が生まれた場合、その子供たちは全部奴隷とみなされるからです。奴隷と奴隷との間に生まれた子供は、(女奴隷の)主人に帰属します。(朝鮮幽囚記p.38)

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朝鮮の貴族階級は、世界中で最も強力であり、最も傲慢である。他の国々では、君主、司法官、諸団体が貴族階級を本来の範囲内におさえて、権力の均衡を保っているが、朝鮮では、両班の人口が多く、内部では対立しているにもかかわらず、自分たちの階級的特権を保持し拡大するために団結することはよく心得ており、常民も官吏も、国王すらも、彼らの権力に対抗することができないでいる。 (朝鮮事情,p.192)

朝鮮の災いのもとのひとつに、この両班つまり貴族という特権階級の存在がある。両班はみずからの生活のために働いてはならないものの、身内に生活を支えてもらうのは恥じとはならず、妻がこっそりよその縫い物や洗濯をして生活を支えている場合も少なくない。両班は自分では何も持たない。自分のキセルですらである。両班の学生は書斎から学校へ行くのに自分の本すら持たない。慣例上、この階級に属する者は旅行をするとき、大勢のお供をかき集められるだけかき集め引き連れていくことになっている。本人は従僕に引かせた馬に乗るのであるが、伝統上、両班に求められるのは究極の無能さ加減である。従者たちは近くの住民を脅して、飼っている鶏や卵を奪い、金を払わない。(朝鮮紀行,p.137)

この世では、もっとも良いことでも、常に悪い反面を伴っている。これまで述べた質朴な習慣にも、いくつかの不都合な点がある。その中でももっとも重大なことは、それらの習慣が、一群の悪い奴らの怠けぐせを野放しにすることである。これらの者は、人びとの歓待をあてにして、全く仕事をしないで、あちこちをぶらぶらしながら生活する。もっとも図々しい者になると、豊かな人や余裕のある人の家にまるまる数週間も身を落ち着け、服までも作ってもらう。 (朝鮮事情,p.265)

朝鮮の重大な宿痾は、何千人もの五体満足な人間が自分たちより暮らし向きのいい親戚や友人にのうのうとたかっている、つまり「人の親切につけこんでいる」その体質にある。そうすることをなんら恥とはとらえず、それを非難する世論もない。ささやかながらもある程度の収入のある男は、多数いる自分の親族と妻の親族、自分の友人、自分の親族の友人を扶養しなければならない。それもあって人々はわれがちに官職に就こうとし職位は商品として売買される。 (朝鮮紀行,p.556-557)

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両班の「妻の仕事といえば、子供をみる以外は侍女を監督して内房(あんぱん=女性部屋)の秩序を維持することだけで、彼女たちの一生は何事もなすことなく過ぎてゆく。しかし、常民の婦人は、激しい労働にしたがわねばならない。彼女たちは食物を用意し、布を織ってそれで服を仕立て、選択し、家の中のすべてに気を配り、そのうえ夏には野良へ出かけて夫のするすべての仕事を助けなければならない。男たちは種蒔きや収穫のときは働くが、冬は休む。休みの時の彼らの唯一つの仕事といへば、山に出かけて燃料にする薪をとってくることだけで、残りの時間は遊んだり、煙草を吹かしたり、親せきややう宇人を訪ね歩くことに費やす。女たちは決して休むことなく、事実上奴隷のように働き詰めである。(朝鮮事情,p.228~229)

貴族は娼婦やその他の仲間たちと楽しみを求めてしばしば修道院へ行きます。というのはそれは山や森の中にあって、非常に快適で、国中で最も立派な建物の部類にはいるからです。したがってそれは寺院であるというより、むしろ売春宿か料亭だといったほうが適当です。いうまでもなく一般の修道院でも僧侶は泥酔するまで酒を飲みます。(朝鮮幽囚記,p.46)

改革があったにもかかわらず朝鮮には階級がふたつしかない。盗む側と盗まれる側である。両班から登用された官僚階級は公認の吸血鬼であり、人口の5分の4をゆうに占める下人は文字通り「下の人間」で、吸血鬼に血を提供することをその存在理由とする。(朝鮮紀行,p.558)

宗主国中国の影響のもとに、朝鮮の両班たちは貴族社会の全体的風潮である搾取と暴政をこれまで事実上ほしいままにしてきた。この点について日本は新しい理論を導入し、庶民にも権利はあり、各階級はそれを尊ばなければならないということを一般大衆に理解させ、無料新聞も同じ路線を取った
 朝鮮の農民には、日本と西洋の指導的手段を通して、食い物にされるばかりが自分たちの運命ではない、自分たちも市民としての権利を持ち、法的見地から見た平等に値し、収入を守られるべき存在なのだということが徐々にわかりはじめてきたのである。(朝鮮紀行,p.560-561)

朝鮮政府に政変をもたらした栄誉は、私に言わせるなら、カトリックの宣教師らでも、また法外なる利己主義により一貫して評判を落とし続けたアメリカならびにヨーロッパの山師らでもなく、偏に自らの垂範で朝鮮人に目を開かせ、最善の生活を提示した日本に帰せられる。(朝鮮旅行記,p.108)

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 5-5 刑罰の残虐さ

朝鮮で注目されるのは、犯罪者が死刑ないし奴隷の身分を宣告されるという事実である。その他の刑罰はほとんど存在しない。奴隷身分の刑は、もしそれが子孫にまで受け継がれなければ、わが国の終身徒刑に匹敵させることが可能であろう。奴隷身分の刑を宣告された者は政府の所有物となり、政府経営の仕事場で使役される。政府所有奴隷の数は、新たなる宣告を通じても、また出生によっても年ごとに増大している。若い奴隷たちは自らの父親な宿命を、やはり一生涯にわたって担い続け、さらには子孫へと受け継がせる。政府は自らが所有するぢ奴隷を私人へ売却するといった事態もしばしば生ずるが、その場合には、これらの不幸な人々が、彼らを購入した者の完璧なる、自由に処分可能な財産となる。(朝鮮旅行記,p.87)

私たちが滞在していた時、国王の兄弟の婦人についてそのような事件が起こりました。彼女は針仕事がよくできるので有名でしたので、国王は彼女に下着を作るよう命じました。彼女は国王を憎んでいましたので、それにいくつかのまじないを縫い込みました。そのため国王が下着を身に着けると、ゆったりすることができません。そこで国王はそれをほどいて検査させてみると、そこからまじないが発見されました。国王はその婦人を一室に幽閉しました。そこには銅板の床が作ってあって、その下で火をたいて彼女を死に至らしめました。彼女の親戚の一人は身分の高い家柄の出身で、当時太守の職にあり、宮廷で非常に尊敬されていましたが、彼は国王に手紙を書いて、婦人、まして彼女のような婦人には他の刑罰を課すことができたはずであり、また婦人は男性よりも寛容に扱われるべきであると述べました。国王はそれを読んで彼を呼び出させ、一日に脛を120回も叩かせ、首をはね、彼の財産と奴隷を全部没収させました。(朝鮮幽囚記p.40~41)

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宣教師たちは中国から、あるときは小舟をあやつって、またあるときは陸地をつたって朝鮮に入った。彼らは絶えず変装し、居所をかくして隠密裏に行動し、発見を免れるための多くの手段を準備した。彼らはおのおのの場所ごとに違った姓名を名のり、昼は寝て夜歩き、ときには乞食、ときには行商人、またときには喪服をまとった高級官人にもなった。フランス人宣教師とそれに同行した改宗者たちは、いずれも常に剣をたずさえていた。ある時、官憲が一行を襲って改宗者数名を殺害したが、そのときフランス人アムベールはそれ以上の犠牲を避けるため、その仲間二人とともに官憲に自首して出た。彼らは投獄され、もっとも過酷かつ非道な拷問をうけた。彼らは、最終刑執行前に予備的にそれぞれ笞66の刑に処せられたが、その刑罰だけでも多くの人々を死に至らしめたのであった。死刑執行の日、彼らは断首刑場に引き出され、そこで公開の拷問を死刑執行前にうけたが、その光景はとうてい言語でえがききることのできるようなものではなかった。アムベールは1839年にこうして死んだ。(朝鮮の悲劇,p.5~6)

朝鮮の裁判制度は、長いこと中国の強い影響下にあったため、途方もない厳しさが朝鮮法典の基本特徴をなす。(中略)朝鮮における裁判制度の実態はきわめてお粗末である。判事たちは投げやりに職務を執行し、原告の申し立てにも、また証人の声にもしかるべく耳を傾けることすらなしに、判決を下す例もまれではない。まず尋問を行い、次いで詳細な報告書を作成するのが本分である補佐役に、判事は全幅の信頼を寄せている。その報告書に基づいて判事は判決を宣告するのである。補佐役は様々な運命を決定する蔭の主役であるから、自らの立場を存分に乱用し、受領した報酬に合わせて審理を方向付けるのである。(中略)自らの個人的な目的を追求するこの側近連は、相当額の報酬と引き換えに判事に対する影響力を行使して、裁判事件の風向きを変えることもあえて辞さない。(朝鮮旅行記,p.310~311)

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最初のころ朝鮮に渡来した欧米人たちがみたように、当時の朝鮮の諸制度は多くの点で何か5~6世紀前の中国のそれに似ていたのだ。(中略)行政秩序を維持するために、王はあたかもアメリカの百万長者実業家の私設代理人に相当する密使(暗行御史)の制を持っており、密命をおび王に代わって全国各地を巡視させ諸般の事柄を監察して王に直接報告させた。監獄は呪詛のまとであり、拷問は自由に行われ、周期的な監獄清掃に際しては一時に数十人を絞首してしまい、裁判は売買された。(朝鮮の悲劇,p.27~28)

この朝鮮どんなに長く住んでいる者でも、住民が公正な裁判を受けられるといういささかの望みもなしに生きていかねばならぬみじめな状態で案外平気であるわけが、どうしても納得いかないだろう。文明国なら直ちに民衆の反乱を呼び起こすに相違ないような不正かつ野蛮な事件を見聞きしないで済む日は、ないに等しい。(朝鮮滅亡p.85)

過失致死犯は次のようにして罰せられます。彼等は酸っぱい、濁った、鼻を刺すような臭いのする水で死者の全身を洗いますが、彼等はその水をじょうごうを使って罪人の喉から流し込めるだけ流し込み、それから胃の所を棒で叩いて破裂させます。当地では盗みに対しては厳重な刑罰が課せられていますが、盗賊は非常にたくさんいます。その刑罰は足の裏を叩いてしだいに死にいたらしめるのです。(朝鮮幽囚記,p.41)

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一般に用いられる拷問の方法は以下の通り。即ち、膝下の脚部を殴打して、骨の脱臼や変形をもたらすための板、両腕を後へ回して結縛すること。髪の毛を縛って吊り下げること、編み紐を用いて足を挽くこと、特殊な木製斧で被拷問者の肉部を削ぐこと、火を体に押しつけて焦がせることなどである。(朝鮮旅行記,p.312)

李氏朝鮮の刑の残酷さはほかの国々では類例がなく、アーソン・グレブストは著書「悲劇の朝鮮」に見学した笞刑(ちけい)や死刑の模様を詳細につづっています。驚くのはこれらの刑の執行を見物人が目を見張りながら見ていることです

庭の中央に膝の高さほどの長い台が置かれ、その上に男が一人縄を打たれたままうつ伏せになっている。下半身はふくら脛まで、上半身は肩まで着物をはいで、尻など胴の部分が完全に裸にされている。(悲劇の朝鮮,p.234~235)

囚人は笞刑(ちけい)の宣告を受けたのであるが、刑の執行命令を待つ間に、執行人らは縛られた囚人の後頭部のすぐ上の虚空を鞭で切りながら嬉々としている。鞭が囚人の耳元を過ぎるときのその音はぞっとするものであろう。囚人は怯えた視線でこの残忍な遊戯を追い、すでに鞭が肉に食い込む痛みを感じているかのように全身をけいれんさせる。(悲劇の朝鮮,p.235)

刑の執行はすぐに始まった。看守長が命令を下すと、二人の執行人がそれぞれ配置についた、彼らは最後にもう一度鞭を空中で鳴らしてみてから笞刑を開始した。最初のひと打ちは鋭い音で、銅色の尻は真っ赤な痕跡を鮮やかに残した。哀れな囚人はびくっとして全身を縮めたので、縛ってある板が倒れんばかりであった。二度目の鞭で、彼は骨にしみるような悲鳴をあげた。その体が13回も繰り返しめった打ちにあうや、悲鳴をあげていた囚人も結局気を失ってしまった。(悲劇の朝鮮,p.235)

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すると、刑の執行が一時中断となり、囚人の頭の上に冷水がぶっかけられる。囚人はひとしきり体をぶるっと震わせてけいれんを続けたが、意識を取り戻した。(悲劇の朝鮮,p.235)

彼は呻きながら許してくれと哀願した。しかし法の執行にはいささかの情の挟まれることも不可能で、彼にはまだ笞刑12回分が残っていた。こうして刑の執行が終わってみると、囚人の体はもはや人間のそれでなく、ただの血だらけの肉塊にすぎなかった。(悲劇の朝鮮,p.235~236)

こんどは小さな建物から別の囚人が引き出された。40歳台に見える男で顎のひげをぼうぼうに生やしており、体はというとすっかり痩せさらばえている。悪臭が漂い、その目にはすでにあきらめの光がさしている。痩せ細った体を包むぼろ服は、彼がそれまでいた監獄がいかに汚く不潔なものであるかを物悲しく語って余りあった。(中略)官軍との血戦の末彼はついに捕らえられ、死刑宣告を受け、今日まさに私たちの目前でその一生を終えることになったのである。(悲劇の朝鮮,p.236)

準備はあっという間にととのった。さきほどの苔刑のときに使われたあの血のついた縄が、こんどは彼の足をしっかり縛りつけることになった。それから両腕が両脇に縛られて少しも身動きできぬようになった。すると執行人は彼の体を押して、彼はバランスを失ってその場に倒れた。いまや囚人は、死刑が執行されるまさにその場面に倒れる身となった。(悲劇の朝鮮,p.236)

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死刑執行人はさきほど笞刑を行った同一人物たちだ。彼らは太い棒を手にして現れた。(中略)囚人の足の内側に棒をはさんで、執行人たちは自分の体重をすべて棒の片側にかけた。囚人が続けざまに吐き出す叫び声は、聞いていてもじつに凄惨なものだった。足の骨が砕けつぶれる音が聞こえると同時に、その痛さを表現する声も囚人の凄絶な悲鳴も止まった。全身縛られた状態であるにかかわらず、上体を起こした死刑囚は、ほとんど座った姿勢になった。(悲劇の朝鮮,p.237)

顔には、死人のそれのようにまったく血の気がなく、唇は、固く閉じられてひとつの細い真っ青な線になっている。両の目は白目をむいており、額からは冷たい汗が雨のようにしたたり落ちた。首が力なく垂れた。体がだらりと地面にのびた。死刑執行人が棒をはずし、乱暴な手つきで実際に完全に手足が折れたかどうか調べている間も、囚人は、何も感じない死んだ羊のごとくじっと倒れたままだった。(悲劇の朝鮮,p.237~238)

死刑が執り行なわれる間、まわりでは見物人が目を見張りながら見ていた。彼らは、首を長く伸ばしながら、一瞬たりとも見逃すまいと息を詰めたまま悲劇の現場を見守っていた。(悲劇の朝鮮,p.238)

気絶した囚人は、ややあって意識をとりもどした。カなく首を左右にゆすりながら呻き声を出し、その場に身を横たえている。執行人らは、囚人の腕の骨と肋骨を次々と折ってから、最後に絹紐を使って首を絞めて殺し、その死体をどこへやら引きずっていった。(悲劇の朝鮮,p.239)

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ところが私には疑問がひとつ湧いてきた。この国にキリスト教が布教されてもうだいぶ経ったし、西洋の文化大国がこの国の行政の各部門を助けてからも一日二日でないのに、なぜ今だこのような野卑きまわりない拷問が続いているのか。エンバリーの言うように、獄内の出来事に関する生きた証拠が整っていないという、それだけの理由だろうか。それともほかの理由がまだあるというのか。(悲劇の朝鮮,p.239)

理由がなんであれ、こんな状況がまだこの地球の片隅に残されていることは、人間存在そのものへの挑戦である。とりわけ、私たちキリスト教徒がいっそう恥じるべきは、異教徒の日本人が朝鮮を手中にすれば真っ先にこのような拷問を廃止するだろうという点だ。異教徒の改宗に汲々とするあまり、そのまま見過ごしてはならない実状には盲目となってしまう私たちキリスト教徒の態度は、私たちに残された大きな課題のひとつである。(悲劇の朝鮮,p.239)

監獄改善に関しては多くの対策がなされてきたが、囚人の区分をはじめまだ手付かずのままになっている問題も多い。それでも、ソウルの監獄は改革が行われていない清その他の東洋諸国にくらぶれば、非常に好ましい方向に差をつけている。拷問は少なくとも表向きには廃止されたし、切断された首や胴体をさらしたり、笞打ちや身体のそぎ切りで死にいたらしめるようなことは日本の支配を受けていた時代になくなった。(朝鮮紀行,p.554)

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6.貢物にされた女性

 6-1 貢女とは

朝鮮王朝との戦いに勝った清国の要求に従い、国家の意思として差し出した女性を貢女と云います。同時代に中国と交流のあった朝鮮以外の国々で貢女はありません。

貢女は高麗時代に始まったもので、新羅を含む以前の時代には確認されていません。高麗時代の献上先は蒙古(元)、契丹、明で、歴代の朝鮮王朝は貢女だけでなく多くの朝貢を申し出ています

朝鮮には朝貢できるような産物がないため女性を差し出さざるを得なかったとする説がありますが、丙子之役で敗れた仁祖が1637年1月28日にホンタイジへ送った詔勅には次の記載があります。(表示できない漢字は「?」としました。)

歳幣以黄金一百兩、白銀一千兩、水牛角弓面二百副、豹皮一百張、鹿皮一百張、茶千包、水?皮四百張、靑皮三百張、胡椒十斗、好腰刀二十六把、蘇木二百斤、好大紙一千卷、順刀十把、好小紙一千五百卷、五爪龍席四領、各樣花席四十領、白苧布二百匹、各色綿紬二千匹、各色細麻布四百匹、各色細布一萬匹、布一千四百匹、米一萬包爲定式。

毎年黄金100両、白銀1000両のほか、水牛角弓面100副・豹皮100丁張、鹿皮100張など、20種目の物品を献納するとしています。詔勅の内容から、朝貢できる産物がかなりあったことが分かります。

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 6-2 高麗時代

高麗史の資料によると、更女を選抜するために「結婚都監」や「寡婦處女推考別監」という役所を設け、朝鮮王朝が組織的に対応していることがわかります。(表示できない漢字は「?」としました。)

高麗史27 元宗3、世家第27 元宗15年(1273年)3月
 壬寅 元遣蠻子媒聘使肖郁來中書省牒云“南宋襄陽府生券軍人求娶妻室 故差委宣使肖郁押官絹一千六百四十?前去下高麗國令有司差官一同求娶施行”肖郁令選無夫婦女一百四十名 督之甚急於是置結昏都監 自是 至秋窮搜 閭井獨女逆賊之妻 僧人之女 僅盈其數怨咨大興例給一女資粧絹十二匹分與蠻子蠻子?率北還哭聲震天觀者莫不悽.
 高麗を訪れた元使に「南宋襄陽府の軍人が妻を求めているので、国中で結婚を禁止し、夫のない婦女を献上するように」と指示され、結婚都監を置いて140名の貢女を選抜しています

高麗史16 世家巻第28 忠列王1 忠烈王元年(1275年) 冬の条 10月
 癸未 遣僉議贊成事兪千遇如元賀正告改官制獻處女十人.
 10人の処女を献上する約束をしています

高麗史16 世家巻第28 忠列王1 忠烈王2年(1276年)
 甲子 元遣楊仲信齎幣帛來爲歸附軍五百人聘妻 王遣寡婦處女推考別監正郞金應文等五人於諸道先是慶?道屯邊官軍頭目申中書省曰: "高麗人無時乘驛致其疲弱設有他變恐不及時." 中書省移牒禁之始立剳子色應文等各受鋪馬剳子以行.
 寡婦處女推考別監という役所を設け、組織的に対応しています

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 6-3 貢女の残酷な実態

ソウル大学奎章閣のイ・インスク人文韓国(HK)事業研究教授は、2011年4月末に出版される『朝鮮人の海外旅行』(文字の甕社)で、『高麗史』と『朝鮮王朝実録』を中心に貢女の残酷な実態をまとめています

以下は、インターネットニュース朝鮮ドットコム「文化一般」に全炳根(チョン・ビョングン)記者が書かれた記事と、「ヤフー翻訳」を利用したはげちゃんの日本語訳です。

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国に力がなく中国に捧げられた娘
         貢女(工女) 残酷史

入力 : 2011.04.20 03:11 修正 : 2011.04.20 10:06
 高麗時代から朝鮮王朝時代まで続いた「恥辱」。元・明なのど新しい国家が成立する度に、娘が貢女の候補になると顔に薬を塗って傷を付けたり、尼にしたり赤ちゃんの時に嫁がせたりと奇策を講じていました

娘が生まれたら秘密にしたまま暮らし、他人に知られるのが心配で隣人にも娘を見せられません。娘を隠していることが発覚すれば村全体が被害を被ることになり、親族は拘束されて取り調べを受け屈辱を与えられます。娘を選抜する過程でわいろが行き交い、お金がある者は切り抜け、お金がない者は娘を連れて行かれます。

高麗時代に李穀(イ・ゴク、1298~1351年) が、遠い元国の皇帝に送った上訴は切々たるものでした。 貢女を差し出すという恥辱は5世紀まで遡り、高句麗や新羅で中国北魏(北魏)にも娘を送ったという記録があります。しかも、高麗後期から朝鮮王朝時代が一番酷いものでした。ソウル大学奎章閣のイ・インスク人文韓国(HK)事業研究教授は、今月末に出版される『朝鮮人の海外旅行』(文字の甕社)で『高麗史』と『朝鮮王朝実録』を中心に貢女の実態をまとめました。

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◆ 自害や早婚で対応した

高麗時代の元宗15年(1274年)に元が140人の婦女子を連行したのが始まりで、忠烈王・恭愍王の時代に元に捧げた貢女は44回に渡り170人以上を越えました。朝鮮王朝時代にも太宗から孝宗の時代にかけて、明・清に対し9回にわたり146人が献上されました。学界は、中国の高官が私的に連れて行ったケースを合わせると、数千人に上ると推定しています

孝宗の時代、慶尚道の鄭煌(チョン・ファン)という人は、娘が貢女候補になったことを知るや、娘の顔に薬を塗って傷を付けました。また、娘を出家させることもありました。高麗時代には、乳飲み子を乳母が抱いて嫁がせることまでありました。このため、朝鮮王朝の世宗は「12歳以下の女子は婚姻を禁ずる」という法令を公布しなければならないほどでした。

朝鮮王朝時代の太宗8年4月、各地から処女30人が選ばれてソウルに移送されました。父母を亡くして3年以内の女性や、息子がいない家の一人娘を除いた7人が景福宮での最終審査に臨みました。中国の使臣は「美しい女がいない」と官吏を平たい棍棒で打とうとしました。娘たちも指名を避けようと、体に障害があるかのように口をゆがめたり、足を引きずったりしました。結局、娘達の父親全員が罷職されたり流刑に処されました。その年の7月に再選抜が始まりました。太宗は 「娘を隠したり、体を傷つけて薬を塗るなど醜く見えるように装った者」は厳罰に処するという命令を下しました。

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◆ 国内外権力関係の反映

貢女たちのほとんどは、他国で妻や妾として人生を終えましが、中には皇帝の目に留まり妃嬪(ひひん=君主の側室)の地位を与えられて権力の道を歩む者もいました。高麗出身の奇皇后は、母国高麗の王位継承に関与したくらいでした。貢女出身の妃嬪がいる父や兄も「皇親」として権勢を享受し、奇皇后の兄の奇轍(キ・チョル)は国王と並んで馬に乗り歓談を交わすほどでした。朝鮮王朝時代の太宗・世宗の代に相次いで2人の妹を貢女として送った韓確(ハン・ファク)は右議政と左議政などの要職を歴任しました。韓確の密通が発覚した際も、世宗は「私が罪与えることができない人」と言い見逃すしかなかったそうです。

中国に新たな権力が誕生したり、国内の国家権力が不安定になるたびに貢女を要求しました。高麗や朝鮮の新しい支配者は、中国の新しい権力に認められることが急務でした。世宗でさえ「貢女の献上は国内だけの問題ではなく、外国にも関係することであるから、中国皇帝の令に従うのみ」と云いました。イ教授は「貢女は、中世国家の欲望と男性の欲望が凝縮された国家間の力学関係から生じた副産物」としながら、「特定の時期に起こった事件というレベルを越え、その後も『慰安婦』『洋公主(米兵を相手にする歓楽街の女性)』のように、強大国と弱小国の間で繰り返されてきた出来事」と語りました。

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7.女性への弾圧

 7-1 妬(ねた)みについて

三国志の魏書東夷伝に、夫餘では「男女が私通したり、婦人が妬すと、すべて死刑にされる。妬みによる罪をもっとも憎んでおり、〔その罪により〕死刑にされると、死骸は国の南の山上にさらされ、腐爛するまで放置される。」と記録されています。

もっとも憎くまれた「妬みによる罪」は、嫉妬から引き起こされたあらゆる現象をひとまとめにしたものです。金沢大学学術リポジトリ、論考・研究ノート「妬婦」考で、林香奈氏は次のように述べています。

『大戴礼記』や『公羊伝』で「妬」を「家を乱す」もとと定義するのはそれが家庭内の不和だけでなく、絶世を招く原因と見るからであろう。女性の嫉妬が子孫繁栄の妨げになるという考え方は古くからあったようで、例えば「妬忌せざれば、すなわち子孫衆多なり」(『詩経』周南「螽斯」小序)、「『礼』内則に曰く、妾は夫人に事うること、舅姑に事うるが如し、嫡を尊び妬族の原を絶て、と」(『白虎通)嫁娶)、「内寵大いに盛んにして、女、道に遵わず、嫉妬して上をもっぱらにして、後継を防ぐ」(『漢書』巻八五谷永伝)といった記述がある。また漢の焦延寿撰『易林』にも「妬婦に子無し」(師之第七」)、「婦妬まば子無し」(豫之第十六」)といったよう辞まで見える。このように「妬」は即「子無し」に結びつくものとして捉えられている

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上述の如く、「子無し」そのものがまず離婚の大きな条件とされた。実際に「子無し」による離婚の例は少なからず残ってはいるが、その不合理性もまた古くから意識されていたことは、曹不「棄婦の嵐」や曹植「出婦の賦」などの作品を見ても窺い知ることができる。さらに「唐律疏義」巻十四婚疏義の「律に云う、妻の年五十以上にして子無きは、庶を立てて以て長とするを聴す。即ち是れ四十九以下は子無きもいまだこれを出すに合わず、と」あるように、唐以降は必ずしも「子無し」が離婚の理由とは見なされなくなっており、こうした傾向は、離婚は恥ずべき事として極力さけようとする風潮の強まる宗以降、一層顕著になっていったと思われる。そして、「子無し」だけを理由に妻を去ることができない以上、後嗣を絶やさぬために置いた妾と居座り続ける妻との関係が、家においては最大の問題となるのあって、その秩序を乱す「妬」なる女こそが実質的には最も忌み疎んぜられる対象となっていったのだろう

朝鮮半島の人々は殷王朝や西晋に倣って「妬みによる罪をもっとも憎む」ようになったと思われます。しかし、三国志の魏書東夷伝で、高句麗は「〔高句麗の男女の〕風俗は乱れている」とされ、周書の異域伝の高麗は「風俗は淫らなことを好み、恥としない。遊女があって、夫は一定の者ではない。」と記録され、徐兢の高麗図経で「かれらの人となりは、恩が少なく色を好む。一般に財物を好み重んじる。男女が結婚するのにも、軽く合して容易に離れ、典礼に則らない。」と記録されています。

記録によると朝鮮半島に居住する民族は酒と歌舞の好きな人々でした。後漢書扶餘伝には、「みち行く人は、昼夜の別なく歌(をうたい詩を)吟(ずること)を好み、その歌声がたえない。」と記録され、穏やかな日常であったことがうかがい知れます。しかし、男性は嫉妬を家庭内の不和や絶世を招く原因としたのではなく、女性を奴隷や慰安婦とみなす極端な男尊女卑の考えが根底にあるようです。

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 7-2 女性蔑視の記録

李氏朝鮮王朝の支配と、両班の官職慾を満足させるために、手段方法を選ばぬ残忍性で韓民族は変わってしまいました。韓国第5~9代の朴正煕(パク・チョンヒ)大統領を「わが民族史を考察してみると情けないというほかない。」とまで嘆かせた事象を、当時の朝鮮半島を訪れた人々はどのようにとらえていたのでしょう。

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  7-2-1 ヘンドリック・ハメル「朝鮮幽囚記」

1660年当時「この国民は妻を女奴隷と同じように見なし、些細な罪で妻を追い出すことがあります」と記録しています。

  7-2-2 シャルル・ダレ「朝鮮事情」

1866年当時「女性の一般的な地位は不快なほどみじめで低い状態にある。女性は、男性の伴侶としてではなく、奴隷もしくは慰みもの、あるいは労働力であるにすぎない」と記録しています。

  7-2-3 ウィリアム・グリフィス
           「隠者の国・朝鮮」

1870年代の伝聞として「部外者の指が触れたというだけで父は娘を、夫は妻を殺し、妻は自殺することがある」と記録しています。

  7-2-4 H・N・アレン「朝鮮見聞記」

1890年当時「朝鮮の女たちは虐待を受けている」と記録しています。

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  7-2-5 柵瀬軍之佐「朝鮮時事」

1894年当時「殊に奇なるは通常人の妾とす。彼等は良人の許諾或は勸奬に依り。夜々春を他人に鬻き。而して其の良人は月末に至れば。自ら奔走して妾が賣春の代を取り立て廻はれり。」と記録しています。

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  7-2-6 A・H・サヴェジランダー
         「朝鮮-静かなる朝の国」

1891年当時「朝鮮文学には、男に見られたというだけで自殺したり夫や兄弟に殺された愛すべき女性たちの悲劇が数え切れないほどある今日でさえ、夫が自分以外の男に話しかけられたという大罪のため妻を殺すことは、法に照らしてきわめて正当なことと考えられている!」と驚くような記録があります。

  7-2-7 イザベラ・バード「朝鮮紀行」

1890年当時「女性蔑視といったものは朝鮮の教育制度の産物に思われる」と記録しています。

  7-2-8 リリアス・アンダーウッド
           「まげの国の15年」

1890年当時「このかわいそうな少女たちは、恐ろしい生活苦から両親によって売られた身で、自身の運命に選択の余地がなかったのである。たくさんのかわいそうな朝鮮人の子どもが、(中略)数袋の米と引き換えに奴隷に売られ、妓生として仕込まれたり、ふつうの下女として使われたり、見たこともない男と結婚させられたりする」と記録しています。

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  7-2-9 ゲ・デ・チャガイ編
           「朝鮮旅行記」

1950年当時の記録に「弱みの露見した女は気の毒である。夫もしくは親族は大手を振って彼女の首を切り落とすこともあり得るからである。」「朝鮮の女が置かれている無権利状態のおかげで、朝鮮には、わが国で理解されるような家庭生活が存在しない。彼女は夫の女友達ではなくて、むしろ女奴隷ないし彼の召使いである」と記録しています。

1660年から1950年までの見聞記録によれば、朝鮮半島に住む女性は、奴隷や慰みものにされていたとの表現が目立ちます。

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8.貢女廃止への道程

 8-1 日清戦争前の朝鮮半島

19世紀から20世紀の初めにかけ、日本は弱肉強食の過酷な世界にいました。東南アジアを植民地化した欧米列強は北上する構えを見せていました。北から不凍湖を求めて南下してくるロシアは樺太(サハリン)から北海道に迫り、朝鮮に隣接するウラジオストックへと進出してきました。

頼りになると思われた清朝は、ロシアの進出を抑えきれず不平等条約で外満州を割譲させられていました。明治政府は自衛のためにも朝鮮の独立と近代化を願って手を貸しましたが、朝鮮半島の人々は清朝の属国であれば安心と、いつまでたっても目を覚まそうとしません。放置していれば朝鮮半島はロシアか欧米列強の草刈り場となります。

1885(明治18)年にロシアは清朝から満州鉄道建設権を手に入れ、朝鮮から海軍基地の提供を受けようとしていました。内政に弱点のある李氏朝鮮王朝は列国の餌食になる可能性があり、日本は清朝に共同で朝鮮の内政改革を提案しました。イギリスもこれを支持しましたが、清朝は拒否して朝鮮の属国関係の維持を図りました

不平等条約にしばられた半植民地国家の状態であった明治時代の日本は、単独で自国を防衛することは不可能な四面楚歌の状態でした。かってイギリス艦隊と戦った薩摩藩、攘夷論を振りかざしてアメリカ商船に砲撃を加えた長州藩は、圧倒的な火力により無残な敗北を期しました。この敗戦を教訓にして日本は自国の弱点をしっかり見つめ、西欧文明を取り入れて近代化に励みました

欧米以外で本格的な立憲政治は無理と云われていた時代、日本は1889(明治22)年に大日本帝国憲法を発布してアジアで最初の議会をもつ立憲国家となりました。新憲法は翻訳されて世界各国に通告され、イギリスの新聞タイムズは「東洋の地で周到な準備の末に議会制憲法が成立したのは夢のような話だ。これは偉大な試みだ。」と報道しました。

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清朝と韓国李朝は日本に理由のない優越感を抱き、古色蒼然の東夷思想や中華思想に浸かり日本に侮日感情を抱いていました。両国は欧米の進出には比較的寛大でしたが、日本の進出に対しては中華思想を乱す許しがたい国と云う感情を抱いていたようです。

1885(明治18)年頃のロシアは中国から満州鉄道建設権を手に入れ、朝鮮から海軍基地の提供を受けようとしていましたが日中英の三国は激怒して案を潰しました。このころのヨーロッパでは、ドイツ、オーストリア、イタリアの三国同盟に対して、ロシア、フランスの同盟強化があり、アフリカ分割の幕が開かれようとしていました。

朝鮮に帝国主義的野望の目が注がれ始め、ロシアが割り込みイギリスが牽制しました。内政に弱点のある李朝は列国の餌食になるため、日本は清国に朝鮮の内政改革の共同申し入れを求め、イギリスもこれを支持しましたが、清国は拒否して朝鮮の属国関係の維持を図りました。

清国は朝鮮国内で起きた「壬午事変」や「甲申事変」を制圧して日本の影響力を弱め、1886年に世界最大の軍艦「定遠」などを含む北洋艦隊を長崎に派遣して、その強大な軍事力を見せつけ日本に圧力をかけました。

清国からみると、日本は国土の狭い弱小国でしかありません。日本の人口は清国の一割にも及ばず、国民の知能は低劣で、軍隊の質も劣悪、指揮官は近代戦術を知らず、兵士は持久力がないため、とうてい清国の一撃には耐えられないだろうというのが、当時の東洋における常識でした。

日本は半島から清国勢力を一掃し、朝鮮を独立国にするための戦争を決意して軍事力の増強を図りました。日本の北辺に迫ってきたロシアが極東で支配的位置を占めるのをもっとも嫌ったのは、七つの海を支配した最大の帝国イギリスでした。日本が自分の自由意思で国際情勢を乗り切る国家になりたがっていると見抜いたイギリスは、日本を助けて育て上げロシアに対抗する防波堤にしようと考えました

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8-2 朝鮮の独立

1860年前後の李氏朝鮮王朝は経済的に破産し、軍事力もほとんどなく、政権は分裂内紛に明け暮れて崩壊寸前でした。中国の制度をまねながら、中国以上に儒教的な専制君主政治を何百年も強化し続けた結果、世界に類を見ない硬直した官僚国家体制となっていました

清朝も朝鮮王朝と同じ中央集権的官僚制度ですが、中国の各王朝は盛期が過ぎると必ず貧しい官僚の汚職が横行し、兵士が匪賊となって反乱を起こし、民が飢えて自然の法則のように転覆しました。歴代の王朝は流民の反乱によって崩壊し、異民族の侵入によって政権は交代していました。

朝鮮半島をロシアの手から守らなければ国家の存続はありえないと考えた日本は自衛のために軍事力の増強を図り、朝鮮半島から清朝勢力を一掃して朝鮮を独立国にするための戦争を決意しました。1894(明治27)に朝鮮南部で東学の乱(甲午農民戦争と呼ばれる農民暴動)が起こりました。李朝は鎮圧できず清朝に出兵を要請しました。日本は南京条約に基づいて軍を朝鮮へ出兵し、朝鮮半島で日清戦争が始まりました。

欧米列強は日本の敗北を予想していました。ロシアは日清両国に撤退を勧告するだけでそれ以上の行動に出ません。イギリスは当初清朝寄りでしたが事態静観を守りました。列強の相互牽制の隙をついて攻勢に出ることで、日本は不平等条約に手足を縛られた反植民地国家状態からの脱出を試みました

日清戦争は列強の見守る中で大国の清朝に挑戦する日本の孤独な賭けであり、どの国にも左右されない独自の行動でした。世界の予想に反して「眠れる獅子」と呼ばれた清朝は新興国の日本に破れ、古代から続いていた中華秩序が崩壊しました。欧米諸国は日本の勝利を喝采し、日本との不平等条約を解消して独立国と認めました。日本は完全な独立へ向けた賭けに勝ったのです。

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「眠れる獅子」と呼ばれてその底力を恐れられていた清が、1895(明治28)年に日本と「日清講和条約」を結び戦争が終結しました。

◎ 日清講和条約(下関条約、馬関条約)

第一条 淸國ハ朝鮮國ノ完全無缺ナル獨立自主ノ國タルコトヲ確認ス因テ右獨立自主ヲ損害スヘキ朝鮮國ヨリ淸國ニ對スル貢獻典禮等ハ將來全ク之ヲ廢止スヘシ
 清国は朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認し、独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止する。

日清講和条約の第一条は「朝鮮の独立確認」と「朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等」を永遠に廃止でした。この条約は1895(明治28)年4月17日に調印され、5月13日に交布されました。

日清戦争の終結まで李氏朝鮮は清国の属国であり続けました。毎年上納される物品の量はその後減らされましたが、三田渡の盟約の大枠は1895年に「日清講和条約」が結ばれるまで守られ続けられていたのです

1895年に日本が日清戦争に勝つと、李氏朝鮮は清国の属国としての桎梏をのがれて独立国となることができました。国号が清国と対等な国の大韓帝国に改められ、第26代の高宗王が中華圏における中国皇帝の臣下を意味する国王の称号を廃してはじめて皇帝を称しました

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大韓毎日申報(1907年10月1日に掲載された論文)
 おお、韓国よ!世界でもっとも価値あるものは独立ではないだろうか?人民の権利はその国の独立によってとげられる。より完全な独立は人民の権利の充実である。独立がそこなわれれば人民の権利も損なわれ、独立が失われれば人民の権利もそれとともに失われる。独立は一民族の命でありかつ身体であり四股である。それを持つことは民族が生きることであり、それを失うことは民族が死ぬことである。それゆえ「独立」の二字は、獲得すること困難でありかつ保全すること困難である。世界で最も価値あるものの一つを表している。(中略)
 思うても見よ! アメリカ、ギリシャそしてイタリアの、独立のためのたたかいの歴史がどんなものであったか?を。彼らはその持てるものをいかに多く失ったか? また彼らの生命のいかに多く失ったか? を
 韓国は、その独立をたやすく手に入れてきた。その国民は独立のためにたたかったことなく、その人民は独立獲得のために苦闘したことがなかった。独立は神の贈り物であり、容易に入手し容易に守られた。国民は、その贈り物の性質と国家的独立の価値を認識しようとしなかった。昔のある学者は書いている。労せずして万金を得るものは大いなる幸福かさもなくば苦難をこうむるであろう、と。独立は自主的な努力なしに到来しない。それのないところには、大きな苦難が到来するだけである。(中略)
 われわれがわれわれの独立を、もし直接に受けとったのであれば、われわれはその新しい地歩の強化と保全に自らをささげたであろう。また、われわれの政府や全政派がわが国民の進歩と開発に、もし一致して不断の努力を積み重ねたのであったならば、十年前に設定された独立の基礎(大韓帝国の成立を指す)は、まさに保全されたであろう。独立の価値に対する認識不足によって、われわれはまさに正反対のところに立っている。神の恩恵を尊重しなかったばかりに、われわれは国民の教育と強化にささげられるべきであった時間と勢力を怠惰な快楽のなかで浪費してしまった。われわれは神の贈り物をはねつけた。われわれの今日の不幸な状態は、われわれ自身の罪である。(朝鮮の悲劇p.237~239)

日清講和条約で締結された遼東半島の日本への割譲は、独仏露のいわゆる「三国干渉」によって清国へ返還せざるを得なくかりました。福沢諭吉の名言「ならぬ堪忍、するが堪忍」や、三宅雪嶺の「臥薪嘗胆」が全国民の合言葉となり、10年後の日露戦争で宿敵ロシア打倒へとつながりました。

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8-3 日韓併合

19世紀末から20世紀の初頭にかけて、中国の分割はアフリカのように進んでいきました。満州にロシア、山東省にドイツ、華北・揚子江流域・香港にイギリス、雲南省にフランスにと区分けされました。外国勢力の進出は中国人の反発をかき立てて1900(明治33)年義和団事件が起き、清国はこの機に乗じて欧米列国に宣戦を布告してドイツと日本の公使館員を惨殺しました。

この事件を期にロシアは満州と内モンゴルを保護領化して清国に派兵した軍を撤兵させず、朝鮮国境に砲台を建設してシベリア鉄道で軍の輸送を開始し、朝鮮半島は重大な脅威にさらされました。

日清戦争の勝利と朝鮮半島問題の処理を見て、イギリスは極東での最も良きパートナーとして日本を選びました。イギリスにすれば日本はもっとも使いやすい将棋の駒であり、やがて日本がロシアと戦うことを想定して日英同盟が1902(明治35)年に結ばれました。

日露戦争に勝利した日本に、イギリスはあらゆる大国とのバランス・オブ・パワーを保ち続ける義務が発生したことを教え、1905年の日英同盟更新時に日本の朝鮮支配を承認して、インド防衛の同盟義務を負わせました。

日露戦争後はロシアに対日協調の機運が盛り上がり、1907年に日露協商が成立して日本の挑戦半島支配と南満州の勢力範囲、ロシアの外モンゴル支配と北満州の勢力範囲が合意され、南下するロシアの脅威は一段落しました。

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1910(明治43)年8月22日、韓国併合条約が調印されて同月29日に発効、大日本帝国は大韓帝国を併合してその領土であった朝鮮半島を領有しました。日韓併合を世界列強はアジアの平和に最善策として支持しました

併合と云うのは国際法上の強制ではありません。併合はイギリスの同盟国として合法的に国際関係の原則に基づいて行われたもので、ヘレン・ミュアーズ氏は「アメリカの鏡・日本(伊藤延司訳)」で次のように述べています

日本は韓国の「独立」という実にもっともな動機から、中国、そしてロシアと戦った。第二次世界大戦後の日本は、自分たちは何のために戦ったか忘れてしまったかもしれないが、日本はとにかく当時の国際慣行を律儀に守り、それにうながされて行動したのだ

大多数の韓国国民は他国から干渉されないで生きることを望んでいただろう。しかし、そんなことは誰の頭にも思い浮かばなかった。韓国は戦略的に重要だが軍事的に脆弱だから、力のある国が管理する。それが大国の論理だった。ただイギリスもロシアも相手に管理させたくなかったのだ。イギリスにとっては、中国の方が大事だった。そうでなくても、多くの国に「コミットメント=かかわり」をもっていた。アメリカも抱えられるだけの「コミットメント」をもっていた。だから、イギリスにもアメリカにも、韓国の「指導」を引き受ける考えはなかったので。こうした情勢の下では、日本の存在はありがたかった。

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歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだけではなく、過去の事実について過去の人がどのように考えていたかを学ぶことです。過去のそれぞれの時代には、それぞれの時代に特有の善悪があり特有の幸福がありました。日韓併合は当時の国際的リアリズムに即して見るべきで、指導者が国民の幸せを考えていたかどうかが重要になります

韓国人の呉善花氏は「地球日本史3」の「朝鮮はなぜ眠り続けたか」で次のように述べています。

大きな流れでみたとき、朝鮮の独立は極度に困難な事業だった。しかし、その最大の原因は、李朝自身が清国から日本へ、清国からロシアへ、あるいは他の列強諸国にも望みを託し、という具合に庇護の先を乗り換え続け、徹底して自主独立の意思をもつことなく大国依存に終始し、自らの手で次々に独立の芽を摘み取っていったことに求められる。李朝は最後まで王権と官僚群のために国家を利用し続けたのである。

実際に歴史を振り返れば、コリア半島の事大主義の相手は必ずしも漢族中華王朝だけではなかった。たとえば紀元前108年に漢王朝に挑戦した衛氏朝鮮は漢の武帝に滅ぼされ、それから約400年間、コリア半島の一部はいわゆる「漢四郡」により直轄支配されている。

高句麗は1世紀に後漢、4世紀には非漢族の鮮卑族が建国した前燕、前燕を滅ぼしたチベット系といわれるテイ族の前秦にそれぞれ冊封された。また、百済は唐に、新羅も北斉、陳、隋、唐に朝貢し、それぞれ冊封を受けている。

10世紀にコリア半島を統一した高麗は、漢族の宋、明だけでなく、契丹系の遼、女真系の金、モンゴル系の元にも朝貢し、それぞれ冊封を受けた。李氏朝鮮も漢族の明、女真族の清と冊封関係を維持した。李氏朝鮮が清の冊封体制から離脱したのは、1894年の日清戦争後のことである

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1929年にカーネギー財団から朝鮮半島に派遣されたアメリカ人記者らは、「日本は併合以来19年間にして、数百年間停頓状態にあった朝鮮と近代文明国との間に渡り橋を架けてやった。・・・また朝鮮人の苦しみもあるかも知れぬが、日本は莫大な利益をもたらしていることは明らかである」などと、李氏朝鮮時代よりも日本統治によって朝鮮人民は救われているとの評価をしていました

1945(昭和20)年8月115日、大日本帝国は大東亜戦争での敗戦に伴い、同年9月2日にポツダム宣言の条項を誠実に履行することを約束した降伏文書調印により、正式に大日本帝国による朝鮮半島領有は終了しました。

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8-4 階級差別の廃止

『日本を呪縛する「反日」歴史認識の大嘘』で黄文雄氏は、「創氏改名は朝鮮人の名前を奪ったか」で次のように述べています。

朝鮮における「姓」とは、先祖の祭祀を中心とする男子単系血族集団である宗教の称号である。たとえば「全州李氏」「慶州崔氏」といったものである。日本時代以前の朝鮮では、夫はこの姓と名が記されたが妻は姓のみで名は記されず、しかも姓も夫とは異なるものであった

「創氏改名」の「創氏」とは、一族の呼称(姓)のみの朝鮮人に日本人のような家族の称号(氏)を与えるものだった。だから創氏改名しても、姓が「奪われる」というものではなく戸籍には姓も記載されていた

1940(昭和15)年2月、朝鮮住民の国民化が図られ、日本人並みに「氏」の設定(創氏)が義務付けられた。一定期間中に創氏の届出をしなかった者については、「姓」をそのまま「氏」とした(法定創氏)。「全州李氏」なら「李」が氏になるという具合だ。そして夫婦で氏を統一し、戸籍には女性の名前も記載した

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1660年から1950年までの外国人見聞記録によれば、朝鮮半島に住む女性は奴隷や慰みものにされていたとの表現が目立っていました。このため「妻は姓のみで名は記されず、しかも姓も夫とは異なる」という状態だったのでしょう。日本は男女平等を尊び、「夫婦で氏を統一し、戸籍には女性の名前も記載」したとあります。

実際には、強制ではなく、あくまでも自己申告制の「任意」であった。朝鮮総督府への申告制というのは、被治者が治者側と同階層になれるというものであり、「日本人と同じになりたければどうぞ」という寛大な措置で、本来ならば上流階層にのみ与えられるべき一種の特権だった。当時の届け出期間中、朝鮮人の約八割が創氏改名(法定創氏以外)を行っている。

しかも、国民の半数にもおよぶ戸籍さえ許されていなかった奴婢が、姓氏を得たのは日帝時代になってからである。自己申告による創氏改名というのは、朝鮮半島の人々に与えられた特権だったのだ。

李朝朝鮮における各階級の比率にはさまざまな統計があるが、1690年の大邱の人口における比率を挙げれば、両班7.4%、良民(常民)49.5%、奴婢43%である。これは、当時の全国的な比率に近いといわれている。

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形状大学の教授だった四方博氏の統計によれば1690年には7.4%しかいなかった両班人口は、1858年には48.16%まで増加している。これは、両班は基本的に世襲制であったものの、李朝後期に身分の売買が行われていたためだが以前として人口の半数は奴婢のままだった

李朝末期には、奴婢のなかに公賤と私賤の区別が生じた。私賤は婦女子がほとんどで、奴隷として使役された。彼女らは日韓合邦当時でも、1人30円で売買されており、その価格はアメリカの奴隷よりも安かった

婦女子の奴婢は、特定の夫を持たず主人に属していた。また、主人も一人ではなく何人かの間を渡り歩くのが風習であった。彼女たちが子供を産んだ場合は、主人の所有物とされ、子供も奴婢として転売された

その朝鮮において史上初の階級差別廃止政策である門閥廃止、万民平等という社会改革を断行したのが朝鮮総督府である。その目的はほかでもなく近代的な国民の創出である。これによってすべての朝鮮人が、階級を問わず戸籍を許され、人口の40%を占めた奴婢が姓氏を持つようになった

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 8-5 女性と奴隷差別の廃止

日本在住の韓国系中国人の金文学・金明学さんは「韓国民に告ぐ(祥伝社文庫)」で次のように述べています。

著作「日本はない」で田麗玉(チョン・ヨオク)は、日本人は電車の中で読書する人がただの一人もおらず、だれもが居眠りしていたと書いているが、これは私の経験から言えばとんでもないデタラメで嘘八百の大法螺話だ。このようなインチキでデタラメな日本見分の情報が、出版界を汚染させているから問題なのだ。(p.185)

98年夏、広島に観光旅行にきたソウルの女子高生の言葉が印象的だった。「日本人は電車の中で居眠りをしているって本で読んだけど、実際はものすごくたくさんの人が本を読んでいたわ」。(p.185)

古本に対する姿勢は、中国や日本と比べるとまさに天地の差がある。日本は古本をなによりも大切に扱う国だ。東京には世界的に有名な神田古書街があるし、大阪には上田古書三番街がある。一般書店のように広くて清潔な緒方の古本屋があるかと思えば、こぢんまりした専門分野の書店もあり、古書一冊一冊がきれいに包装されている古本屋も数多くある。一般書店のように、本棚に整頓された本を眺めているだけでさわやかな気分になる。日本では古本屋で時間を潰す人が少なくない。清渓川の古本屋の主人のように催促することもないし、買わないからと言ってぶつくさ文句を言う人もいない。(p.194)

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五千年の悠久の歴史を誇る文化国家・韓国に広くて清潔な古本屋一つろくになく、そのうえ日本や中国の町の古本屋よりもはるかに劣る古本屋すらせいぜい数軒しかないとは、いったい韓国と言う国はどの面を下げて文化国民を自称するのだろう? たしかに新しい本すらまともに読まない韓国人が、まして古本なんておこがましいのかもしれない。(p.195)

呉善花の著作「チマパラヌ(スカートの風)」が一、二、三弾と立て続けに出されたとき、日本にきていた大部分の韓国人は、彼女のことが憎くて歯ぎしりするほどだったそうだ。興奮した留学生たちの中で、日本でこんな本がこれ以上出版されないように措置を取らねばならないと激高して騒いでいた人間に、わたしは直接会ったことがある。しかし、先にも述べたように、彼ら彼女らのほとんどが、その著書を読んですらいなかった。(p.265)

問題はまさにここにある。読んでもいない本をどうして悪いと決めつけて、勝手にこき下ろすことができるのだろ。誰もがみんな悪いかと言うから、つられてその波にのって悪いのだと一蹴する韓国人が、いったい自分の意見を本当に持っているのがどうか実に疑わしい。(p.265~266)

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8-6 韓国民平癒への道

韓国第5~9代の朴 正煕(パク・チョンヒ)大統領は、「韓民族の進むべき道(朴正煕選集、鹿島研究出版会)」で次の言葉を遺されました。

軍事クーデターを通じて政権を掌握した李成桂は、1392年代の高麗王朝を倒して朝鮮王朝を建設した。武人李成桂は高麗末の多難な時期に北方の女真族の侵略を避け、海岸を侵していた倭寇を撃破した名将であるばかりでなく、混乱していた高麗末期の民心と対外情勢の推移を洞察することのできた政治家でもあった。(p.48)

だからといって李成桂が威化島回軍を起こしたときにも、新たな民族国家建設のためのはっきりしたビジョンをもっていたわけではなく、また統一新羅が対唐事大主義を招いて以来の、高麗朝の儒教輸入と事大主義に対する不満から、民族的自主精神をもったものでもなかった。(p.50)

李太祖は即位する前から親明策を標榜し、即位後は王位の承認、国号の選定を明帝に乞い、国号を「朝鮮」とすることの承認を受け、朝鮮国王の金印誥命を求めて以来、事大政策は李朝全時代を通じて明と清に対し一環したものであった。(p.51)

実学者である星湖も、党争の原因を「唐裕蓋国設科、頻而取人広也」あるとして、その対策に遊休「両班」を農業に従事させるべく「帰土務農」を主張したし、視野を広げて両班たちを帰農定着させ、商業の道も国家が補助すべきと提議した。(p.78)

党争はわが歴史上にきわめて有害かつ恥辱的な内紛習性を残した。とくに官位と官職慾を満足させるためには手段方法を選ばぬ残忍性と、排他的な朋党結合、そして妥協の寛容を知らぬ苛烈な闘争史は、後代における議会民主主義と政党政治の可能性をそこない、ついには解放後のわが国民主々義輸入十七年史を失敗に帰せしめた一大要因であったといっても過言ではない。(p.79)

新羅が進んで中国の属国となることで中国の風習が移入され、李朝の王と王族、宦官や士大夫などの両班が悪逆非道を繰り返えしました。多くの韓国民は精神を蝕まれて民族の誇りを失い、両班は韓国民に中身のない優越感を誇る「韓国病」を植え付けたのです。

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また、韓国第5~9代の朴正煕(パク・チョンヒ)大統領は、「国家・民族・私」で次のように分析されています。

漢の武帝東方侵略の古朝鮮時代から高句麗、新羅、百済の三国時代、そして新羅の統一時代をへて後百済、後高句麗、新羅の後三国時代、さらに高麗時代から李朝五千年の歴史は、一言で言って退廃と粗雑と賃貸の連鎖史であったといえる。(p.234)

姑息、怠惰、安逸、日和見主義に示される小児病的な封建社会の一つの縮図にすぎなかった。(p.234)

言葉では先頭をゆき、行動では最後につきながら、論争や派閥争いといえば夢中になるこの悪い遺伝を、われわれはもう拒否すべきときがきたのではないか。(中略)わが民族史を考察してみると情けないというほかない。(p.238)

われわれが真に一大民族の中興を期するなら、まずどんなことがあっても、この歴史を改新しなければならない。このあらゆる悪の倉庫のようなわが歴史は、むしろ燃やして然るべきである。(p.238)

朴正煕氏は、李朝社会の悪遺産として「事大主義(自律精神の欠如」「怠惰と不労働所得観念」「開拓精神の欠如」「企業心の不足」「悪性利己主義」「名誉観念の欠如」「健全な批判精神の欠如」を挙げています。

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韓国の明知大学校助教授、中央大学校、東国大学校経営大学院教授を経て、現在は加耶大学校客員教授となられた催基鎬氏は「韓国・堕落の二千年史(p.37))」でつぎのように解説されています。

長編小説「無情」で近代韓国文学の祖とされる、強烈なナショナリストだった近代韓国の先駆者でもある李光洙(イクアンス)は、新羅の朝鮮統一と、李朝の成立によって、韓国民族の民族性が次のように歪められたと指摘している

 ア. 虚言と偽騙(ぎへん=相手に誤った情報資料を計画的に与える)行
  為がはびこることによって、相互間の信頼心が失われた。このために
  詐欺的な態度がひろまるようになった。
 イ. 空理空論を弄び、美辞麗句を重ねる。頂上の権力者は生殺与奪の権
  をはじめ、不可能なことがないほど、思うままに権力を振るい、一切
  の責任を負わない。
 ウ. 表裏不同だ。人の面前では諂い、背後では悪し様に言う。恥を全く
  知らない。
 エ. 卑屈、物事に怖じけ恐れる。他人の思惑ばかりを気にして、決断す
  る能力が低い。
 オ. 反社会的利己心によってのみ動かされ、交易には無関心だが自己、
  家族、党派については極端な利己主義を発揮する。

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1895(明治28)年に日清両国は「日清講和条約」を結び、古代から続いていた中華秩序が崩壊し、「朝鮮の独立確認」と「朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等」が永遠に廃止されました。

日韓併合時代に朝鮮半島の奴隷や慰みものにされていた女性は、男女平等となり戸籍に女性の名前も記載されました。黄文雄氏は『日本を呪縛する「反日」歴史認識の大嘘』で次のように述べています。

朝鮮の階級制度がカースト制度と同様、いかに牢固たるものであったかを見れば、この奴婢の開放がリンカーンの奴隷解放以上のものであることはわかるはずだ。

外国人の見聞録から、過去の事象について当事者や第三者がどのように考えていたかを辿ってきました。朝鮮半島の民衆の心の底に染み付いたであろう事象から、現代人の考え方や行動が理解できます。

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9.朝鮮への鎮魂

 9-1 熱狂した朝鮮

名越二荒之助編著の「日韓共鳴二千年史」を基に、日本と共に戦った朝鮮人の大東亜戦争(アメリカは「太平洋戦争」と呼ばせた。)を振り返ってみます。

明治43(1910)年の韓国併合以来、京城(現ソウル)に本拠地を置いた日本の朝鮮総督府は朝鮮の福利向上のために様々な政策を実施しましたが、なかなか朝鮮の人々は心を開いてくれませんでした。(p.434)

大正8(1919)年には、朝鮮全土で反日独立闘争が起こり(3・1独立運動)、中国から「難治の民」と呼ばれた朝鮮を統治することの困難さを日本は改めて思い知らされることになったのです。(p.434)

ところが、昭和12(1937)年7月7日の盧溝橋事件に端を発した支那事変において日本軍が中国軍を打ち破り、連戦連勝するようになると朝鮮民衆の対日感情はにわかに好転し始めたのです。二千年前の漢時代から朝鮮を圧迫・支配してきた中国の軍隊をいとも簡単に打ち破る日本軍の強さに朝鮮人は驚き、そして、その驚きは尊敬に、尊敬は熱烈な愛国(日本への協力)へと変わっていったのです。(p.434)

目に見える劇的な変化は、出征兵士の歓送迎でした。(中略)北支へ出動する日本軍の部隊が次々と朝鮮半島を縦断して北上するに及び、見ず知らずの人々も町内、村内または一地方挙げて駅まで出てきて、これを送別するようになったのです。誰誘うとはなしに、駅と言う駅は国旗の波と万歳の声で溢れるようになりました。(中略)特に、京城駅には、昭和12年9月中だけでも43万人、一日平均14,300人余りが詰めかけ、日本の兵士達をいたく感激させたといいます。(p.434~435)

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朝鮮強化団体連合会編「支那事変に現れた朝鮮同胞の赤誠」(昭和12年10月発行)というパンフレットには、そうした朝鮮人の愛国ぶりが具体的に紹介されています。例えば、日本軍人の無事を祈る千人針が流行していることや、朝鮮神宮への参拝者が急増し、(中略)各界代表百数十人が発起人となって「国威宣揚武運長久祈願祭」が挙行されたこと、血書を書いての従軍志望者が何百という数にのぼり、中にはその希望が達せられないので自殺した青年までが現れて総督府を困惑させていること等々、大変な熱気なのです。(p.435)

興味深いことは、朝鮮の民衆ばかりではなく、それまで日本に対して冷ややかであった朝鮮の民主主義者や民族団体までが手のひらを返したように積極的に愛国運動を始めたことへの日本側の戸惑いが、そのパンフレット(支那事変に現れた朝鮮同胞の赤誠、昭和12年10月発行)の端々ににじみでていることです。(p.435)

大東亜戦争開始の2日後である昭和16(1941)年12月10日、3・1事件の中心者であった崔麟が理事を務める国民総力朝鮮連盟主催により、京城(現ソウル)で決戦報告大講演会が開催されました。(日韓共鳴二千年史.p.438)

この大講演会で申興秀は「祖父の代から受け継いできた黄色人種の積憤をいまこそ晴らさなければならない。一度決戦する以上、帝国行路の癌である敵性国家を粉砕し、(略)新東亜建設に邁進しなければならない」と演説し、善成専門学校教授の張徳秀も「米英の圧迫と屈辱から東亜民族の開放を叫ぶ決戦を開始したのである。いまや東亜民族は圧迫と搾取を受けて骨しか残っていないが、いまやその骨で断固として決起し、仇敵米英を打倒しなければならない」と述べ、それぞれこの大東亜戦争はアジア開放の戦いであることを強調したのです。(p.438)

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12月14日には朝鮮臨戦報国団が米英打倒大講演会を開きました。この講演会で(中略)朝鮮の農民運動の指導者である李晟煥(リセイカン)は「貪欲の牙城、白人帝国主義の張本人米英をいまこそ撃滅せずしては、我等の子孫の発展を望むことはできない」と、米英植民地主義の打倒を訴えたのです。(p.434)

当時の日本人にとっては、戦争勃発はむしろ当たり前のこととして受け止められた。それに対して朝鮮人や台湾人、そしてアジア諸民族は、「欧米植民地勢力の打倒」「大東亜の開放・共栄圏の建設」という聖戦意欲で盛り上がった。(p.424)

中でも朝鮮・台湾の若者は、日本人として直接この聖戦に参加できるという使命感に燃えていた。だから志願兵制度が採用された時、朝鮮は四十数倍、台湾は六百倍を超える志願者が殺到した。異民族がこのように熱狂した事は、史上例がないといわれる。(p.424)

大東亜戦争は、日本人だけが戦ったのではない。朝鮮人・台湾人は正規の日本軍人として参加し、アジア民族も協力した。その結果、朝鮮人二万一千余人、台湾人二万八千余人の人々が戦死し、靖国神社に合祀されている。(p.424~425)

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採用者数応募者数倍率
昭和13年   406名   2,948名  7.7倍
昭和14年   613名  12,348名 20.1倍
昭和15年 3,060名  84,443名 27.6倍
昭和16年 3,207名 144,743名 45.1倍
昭和17年 4,077名 254,273名 62.4倍
昭和18年 6,300名 303,394名 48.2倍

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           ※ 上に掲載した写真は日韓共鳴二千年史より転載しました。

現時点ではどのようにも批判できますが、「大東亜戦争の目的は東亜十億の民を侵略の魔の手から救い、東亜の新秩序を建設し、東洋を東洋人の東洋にしようとすることである」(朱燿翰「毎日申報」1943.11.18)という情勢認識が当時の朝鮮で一般的であったのは紛れもない事実なのでした。(p.440)

実際、欧米列強の支配の下にアジアの諸民族が呻吟し、欧米の経済的締め付けを受けて日本経済は致命的な打撃を受け、独立そのものも脅かされていました。世界中がアパルトヘイト(人種差別)であった当時、同じく黄色人種である朝鮮民族が日本民族とは運命共同体として、この戦いに賭けたことをだれが批判できるでしょうか。(p.440)

かくして242,341人もの朝鮮人青年が大戦中に軍人・軍属として戦い、22,182人が戦病死しました。当時は日本国籍であったとは言え、朝鮮の方々がともに大東亜戦争を戦い、これだけの尊い犠牲を払ってくれたのです。欧米列強を敵に廻したあの大東亜戦争は、こうした朝鮮や台湾の人々の協力なしにはあそこまで戦うことはできなかったに違いありません。(p.440)

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 9-2 償いは済んでいる

戦後73年目を迎えても、我が国では依然として「日本はアジア近隣諸国を侵略した。きちんと謝罪して、戦争の償いをすべきだ」という意見が聞かれます。平成7年の初夏、作家の上坂冬子さんは著書「償いは済んでいる~忘れられた戦犯と遺族の五十年」と訴えます。

アジア近隣諸国との国交回復にあたっては平和条約をきちんと結び、賠償を支払ってきているではないか。それに連合国軍が一方的に行った戦犯裁判によって、戦後の5年間に国内で52人、国内外あわせて1千人を超える人々の命を日本人は差し出し、その犠牲を引き換えに償いは済んでいるのではないか。上坂さんはこう訴えているのです。(p.482)

連合国側は各国それぞれにアジア各地に軍事法廷を設置し、我が国の将兵約6千人をB・C級戦犯として一方的に軍事裁判にかけたのです。(中略)この戦後の戦犯裁判で、実に千名を超える将兵が死刑にされ、約五百人が無期懲役、約百人が戦犯収容所での虐待やリンチによって死亡しました。(中略)戦犯として処刑された人々は、死刑にされるほどの罪を犯していたのでしょうか。(p.482)

その後、戦犯裁判の実態は詳しく調査され、死刑判決を受けた人々の約三分の一は冤罪であったと言われています。無実の罪にありながら、平和と友好の礎になろうと心に決めて死んでいった千人以上の尊い犠牲を無視して、したり顔で「日本は償いをしていない」と言い募ることは許されない。上坂さんのこうした憤りに深く共感します。(p.483)

私たちはこの尊い犠牲を考えるうえで、どうしても忘れてはならないことがあります。ほとんど知られていないことですが、現在判明しているだけでも日本軍の軍人・軍属であった朝鮮人47人、台湾人173人がB・C級戦犯として刑を受け、23人の朝鮮人と21人の台湾人が死刑に処せられているのです。(p.483)

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 9-3 反日洗脳教育

フリーランサーの金完燮(キムワンソブ)さんは、「日韓『禁断の歴史』」で次のように述べています。

韓国の反日洗脳教育は韓国が光復(韓国では日本の植民地支配からの独立開放をこう呼ぶ)後、米国から帰国した大韓民国の初代大統領、李承晩によって始まった。(p.107)

人間というものは非常に弱いものらしく、簡単にオポチュニスト(ご都合主義者)になってしまう。太平洋戦争が終結するまで、朝鮮の人々は日本人と言う意識を持ち、外地(当時日本領であった朝鮮半島や台湾)の日本人として、内地人(日本本土の日本人)と共に鬼畜米英を掲げて戦争を戦い、腰を折らんばかり深くお辞儀して天皇陛下に忠誠を誓っていた。(p.107)

ところが、米国を中心とする連合国の勝利という他力によって朝鮮半島の日本からの独立が成されるやいなや、我こそは抗日闘争の義士だと名乗る詐欺まがいの人士が雨後のたけのこのように続出し、朝鮮半島における日本に対する態度は180度変わった。反日でなければ社会的に抹殺されるような殺伐とした雰囲気が生み出されたのである。(p.107)

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例えば、朝鮮の日本からの独立を求めた3・1独立運動(1919年3月1日)の首謀者の一人、崔麟は1931年に時中下会という団体を設立した際、次のように主張した。(p.107)

「真心と赤誠をもって朝鮮人は帝国臣民たることを自覚・辞任し、日本人は朝鮮人を真の同胞国民として認めなければならない。内心に爆弾と剣を抱いて日本国民でござると仮想・偽装し、同一同胞と言いながら優越感を示すならば、渾然一体の日韓一家は成立し得ない。朝鮮の民族性を尊重し、朝鮮文化を崇拝しながらも我々は日本帝国臣民たる事が出来、日本定刻の世界に対する氏名に貢献しながら大東亜の平和に尽力することができるのである。」(p.107~108)

さらに彼は日本の戦争遂行に協力する言論人として朝鮮内の世論を誘導した。「同胞は早くから…この日の来るのをどれほど待ち焦がれていたことか。朝鮮半島の民衆は創氏を行い、喜んで帝国軍人となり、どこから見ても皇国臣民になったのである。これからは全力を尽くして練磨育成を励み、君国の楯として恥じることのないよう心身を鍛えなければならない。」(p.108)

しかしながら、戦後の親日派弾劾裁判で崔麟は「日本の軍門に屈せざるを得なかった」と弁明している。(p.108)

以後「反日」のための歴史的事実の捏造は度を極めた。また日本を悪者に仕立て上げることで国内不満を逸らし、歴代政権の正統性を確保しようとする、日本にとっては迷惑千万の悪しき慣習がここに形成されていったのである。日本に少しでも肯定的な評価をすれば「親日派売国奴」のレッテルが貼られ、韓国社会では生き残っていけなくなったのだ。(p.109)

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 9-4 日本の病根

再び、名越二荒之助編著の「日韓共鳴二千年史」を基に、日本と共に戦った朝鮮人の大東亜戦争(アメリカは「太平洋戦争」と呼ばせた。)を振り返ってみます。

戦後、ソ連に抑留された日本人は簡単に洗脳されて、ソ連強化の生産競争に血眼になりました。ソ連は日本兵約70万人を「武装解除後に本国へ帰還させる」と約束したポツダム宣言を無視して、シベリアなどに抑留、共産主義イデオロギーで洗脳しつつ、強制労働を強いた。(p.428)

権力やイデオロギーに迎合したのは、ソ連に抑留された日本人ばかりではありません。アメリカの占領下におかれた日本人もそうでした。今も語り草になっている「黒塗り教科書(教科書の中で民主主義に反する表現と思われる記述に墨絵を縫って読ませないようにした)」は、占領軍の命令ではありません。時の文部省が気をきかして迎合的に指令を出したのです。(p.428)

占領軍が日本の戦争責任を追及すべく東京裁判を始めると、すべての責任を開戦当時に首相であった「東條英機」個人に転嫁しました。昨日まで救世主のように仰ぎ、「神国日本」を誇っていた日本人がたちまち豹変したのです。(p.429)

アメリカのスチャート・グリフィンという従軍記者は、この軽薄なる日本人の便乗ぶりを怒って「神國いずこ(大地書房)」という本を書きました。彼はこの中で「こんな愚かな民族は皆殺しにすべきだ。しかし殺すには時間と金がかかる。教育して使うよりほかない」と痛駕しています。(p.)

日本は現在もなお自己を客観化できず、東京裁判の発想から脱皮できないまま、今日に至っています。そのため、「謝罪」を優先し、国家としての顔を見失ったままです。日本の病根は韓国よりも深い面があることに気付かねばならないと思うのです。(p.429)

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アジア経済人懇話会の前野徹理事長は、著書「歴史の真実」でわが愛する孫たちへ伝えたいと次のように述べています。

二十世紀は、ながらく続いた白人支配の構図がくずれ、白人種による有色人種への差別が払拭され、人類は平等だという概念が確立した世紀でした。このきっかけをつくったのがほかならぬ日本です。(p.93)

1902年、イギリスは「光栄ある孤立」政策を破り、日英同盟を結びます。この同盟は、有色人種と白人種が対等の立場で結んだはじめての軍事同盟でした。(中略)中国で義和団事件が起こり、中国にかかわる各国が鎮圧に出兵しましす。(中略)日本の第五師団が入り北京を開放しますが、ここでも日本兵たちの態度は立派でした。(p.93)

ロシア兵などは略奪に血道をあげる者が少なかったのに対して、日本兵は略奪を全く行わなかった。(中略)日本占領区は断然治安がよく、中国の人々も自分の家の前に日本国の国旗を立てていたほどでした。日本軍は規律正しくふるまい、現地の人々にはまったく危害を加えずさっさと引き上げます。この態度が、イギリス本国にもレポートとして報告され、多くのイギリス人に感銘を与え、「有色人種は信用ならないが、日本人は別格だ」となり、日英同盟の締結へと進んでいったのです。(93~94)

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実は、この有色人種差別と数世紀にわたる西洋のアジア・アフリカ支配が東京裁判を読み解く最大のカギでもあります。なぜ、違法な裁判を開いてまで日本を侵略国として決めつけなければならなかったか。(p.94)

それは、日本を侵略国としてスケープゴートすることによって、西洋のアジア支配が正当化され、帳消しになるからです。いま、アジアの国々でも大東亜戦争当時を知らない世代がほとんどです。たとえば、お隣の中国では、歴史と言えば毛沢東以降のことで、満州国での日本軍のふるまいがどうであったか、中国に駐屯した日本兵の態度はどうだったかなど、実際に見た人はほとんどいなくなり、ただ侵略国日本のイメージだけが先行し、あたかも悪鬼のごとき日本人の印象が伝えられています。(p.94)

ほかのアジアの国々も似たような状況にあり、日本が果たした役割、大東亜戦争以前の欧米の植民地支配による蹂躙は、歴史の彼方に忘れ去られようとしています。(p.94)

ひるがえって日本の若い人々。今、みなさんに刷り込まれている戦中の歴史は、根底からゆがめられています。そのため日本人も、日本は侵略国だという歴史を信じ、アジアの人々の誤解にクビを縦に振ります。まさに連合軍が意図した最大の目的が完遂されようとしています。(p.94)

オランダ代表判事のレーリングは著書でこう述べています。「日本は西洋諸国の植民地を開放した罪によって罰せられたが、その四半世紀もたたないうちに、1960年に国連が植民地を保有することを不法行為であると宣言し、その後、国連総会が植民地の保有を犯罪として規定すらした。国連総会は民族自決のための闘争を奨励し、自由の戦士を合法化して、国連加盟国に支援するよう求めた」。(p.95)

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中国は蒋介石の「恨みに報いるに恨みを持ってせず」の方針のもと、領土の要求、賠償金の請求もすべて放棄しました。自国の民、二百万人を殺戮した日本軍人に対しても、危害を加えるどころかすぐさま日本兵に対する武装を解除し、日本への帰国を認めます。(中略)南国では、多くの日本軍人がB・C級戦犯として裁かれ、死刑に処せられたというのに、一番の被害国である中国をすべて許した。これは歴史上前例がないことです。(p.106)

1974(昭和49)年3月12日、山下奉文陸軍大将名の「尚武集団作戦命令」と口達による「参謀部別班命令」で任務を解除されて帰国命令が下り、てフィリピンのルバング島より小野田寛郎予備陸軍少尉が帰国されました。

1944年から1974年まで大東亜戦争を戦い続けた小野田寛郎さんが、広島の原爆慰霊碑の「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」を読んで、これはいったい誰が作ったのかと驚いたそうです。

「日本が負けたのが過ちで、二度と負けるような戦争はしない。」と誓っているのであれば分るが、民族の誇りを持って負け戦に命を懸けて戦った戦友達を馬鹿にしている、帰れなかった戦友達の代わりに爆破してやろうかと思ったそうです。

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 9-5 忘れられた慰霊

再度、名越二荒之助編著の「日韓共鳴二千年史」を基に、日本と共に戦った朝鮮人の大東亜戦争(アメリカは「太平洋戦争」と呼ばせた。)を振り返ってみます。

韓国や日本のマスコミは、韓国や台湾出身の戦犯とその家族に対して日本政府が十分な慰霊や補償をしないのは、「侵略戦争に対する反省が足りない」か「民族差別の感情からくるものだ」と激しく非難します。確かに日本政府の対応は残念ながら決して温かいものではありませんでした。しかし、それは「反省が足りなかった」からや「民族差別」からではありません。(p.489~490)

「政府首脳が靖国神社に参拝したり、戦没者を慰霊することは侵略戦争の賛美につながる」「戦争用語は軍国主義賛美だ」という、一方的な意見ばかりが横行していたため、日本政府は日本人、朝鮮人を問わず戦犯そのものに対して冷たい態度をとらざるを得なかったのです。(p.490)

戦犯の遺族ばかりか、戦没者の遺族たちの多くも「戦没者の慰霊は軍国主義の賛美だ」という一方的な意見が横行する中で、肩身の狭い思いをしてきたというのが実情です。自国の戦没者を貶め、その慰霊すら満足にしてこなかった日本が、日本の軍人・軍属としてアジア開放のために戦い不慮の死を遂げた韓国・台湾の戦犯たちの存在に思いを致すはずもありません。(p.490)

ですから、戦犯たちの慰霊は民間の手によって行われてきました。すべての戦犯処刑者たちをまつる慰霊碑は戦後50年を経た平成7年4月29日、民間の手でようやく建立されました。(中略)遺族の手によって除幕された高さ2メートルの漆黒の大理石六基には、A級・B・C級の判明している処刑者1,176人全員の名前が刻まれました。勿論、碑には、韓国・台湾の戦犯たちの名前も刻まれています。(p.490)

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日本文化連合会代表世話人の小見昇氏は(中略)戦犯として死刑となった人たちの中に、韓国・台湾出身者がいて、位牌・遺骨もなく供養されていないことを知り、(中略)戦犯刑死者の位牌をつくり(中略)私費を投じて永代供養を営んだのです。(p.490)

日本軍人としてB・C級戦犯となった韓国人の釈放後の生活について懇ろに面倒をみたのは、安全補償問題研究会事務局長の末次一郎氏のグループでした。韓国に帰国すれば冷遇を受けるばかりか徴兵にも応じなくてはならないことを嫌がって帰りたがらないその人々に対して、末次氏は一時居住施設を確保、後には都営住宅に入居できるようにしました。(p.491)

ところが、これらの言動は日本のマスコミによって黙殺され、日韓両国の対立をあおるセンセーショナルな報道のみが横行しています。その非は勿論日本のマスコミの報道姿勢にあります。(p.491)

韓国の人々にも、ぜひとも理解してほしいのです。日本の戦没者への慰霊を忘れない人々こそ韓国の戦没者、戦犯たちのこともまた真剣に考える人々であるという事実を。そして、それらの人々こそが、両国の真の友好を願っている人々なのです。(p.491)

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戦争中は、日韓ともに「聖戦完遂(当時のスローガンで、聖なる戦いを完全に戦い抜くこと。)に燃えたが、戦後は日韓ともに貴重な歴史体験に背を向けてしまった。日本には先の戦争を愚かなる侵略戦争ととらえる者が多く、韓国は「日帝三十六年」の怨念を、この戦争時代に凝縮して反日感情を燃やしている。この複雑な両国民のしがらみを、どうとらえ、教訓化したらよいのであろう。(p.422)

現在の日本の歴史教科書には、安重根のテロから3・1運動、創氏改名への反対、従軍慰安婦といった日本に抵抗し、犠牲となった朝鮮のイメージしか紹介されていません。韓国の歴史教科書も同様です。(p.436)

最近は慰安婦問題が喧しく論議され、戦死者への慰霊が忘れられている。道義を重んじる日本人なら、朝鮮・台湾両国の戦死者に対し鎮魂の心を忘れてはなるまい。(p.425)

歪曲された歴史が含まれる国定教科書を強要しないでと歴史教科書の国定化に反対した韓国の高校生たちが、朝鮮半島の民衆の心の底に染み付いた両班の言動から目覚め、歴史を正面から注視できるよう願ってやみません。日本人も東京裁判の発想から脱皮して目覚めましょう。

李承晩大統領がアメリカの軍政下から大韓民国政府樹立を宣言し、実効支配地域を北緯38度線以南の朝鮮半島のみとしたまま、1948年8月15日に独立祝賀会が行われて大韓民国は独立国家となりました。

1965年に日韓両国は、「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」を結び、日本は朝鮮に投資した資本及び日本人の個別財産の全てを放棄するとともに、無償資金と借款を援助することを約束し、韓国は対日請求権(相手国家に対する個別請求権)を放棄することに合意しました

日本国と大韓民国との間の協定は、当時の人々が最善策を考えて結ばれたもので、今の時代の基準からみて不備があったとするのは当時の関係者を冒涜することです。数年後に異なる見解が生まれるなら、どこの国も韓国と協定や条約を結ばなくなるでしょう

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