はげちゃんの世界

人々の役に立とうと夢をいだき、夢を追いかけてきた日々

第1章 三浦毅さんを名誉町民に

河北新報が2012年1月27日の朝刊で「埼玉県の公立学校で4月から使われる道徳教材の要旨」を拝読しました。南三陸町ではなぜ若い娘が一人で避難の放送をしていたのだろう、さっさと逃げ出すような上司はいるだろうかと疑惑を抱いて調べました。

1.南三陸町を襲った災害

南三陸町のWebページに掲載されている「旧志津川町の年譜用」より、過去に南三陸町(旧志津川町)を襲った災害を検索しました。

1896(明治28)年6月、三陸大津波、死者441人、流失家屋175戸。

1915(大正4)年11月、三陸沖地震のため志津川湾小津波。

1933(昭和8)年3月、三陸大津波、死傷者22人・流失家屋7戸。

1952(昭和27)年3月、十勝沖地震の津波。

1960(昭和35)年5月、チリ地震津波、死者41人、被害総額51億7千万円。

1962(昭和37)年4月、宮城県北部地震。

1963(昭和38)年12月、チリ地震津波災害復旧事業で、防潮堤と水陸門完成。

1966(昭和41)年9月、26号台風による集中豪雨(1日の雨量が224mmに達
             し、志津川・入谷の被害甚大)。

1968(昭和43)年5月、十勝沖地震津波襲来(水産関係に1億6千万円の被害)。

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1968(昭和43)年12月、津波災害復興区画整理事業完成。

1972(昭和47)年1月、豪雪により山林に大被害。自衛隊が出動する。

1976(昭和51)年9月、集中豪雨126mmを記録。死者1人、家屋浸水518
             戸。

1978(昭和53)年6月、宮城県沖地震(志津川の被害額2億2千万円)。

1986(昭和61)年8月、集中豪雨(降雨量282.5mm)、住宅浸水・土砂崩れ
             など4億5千万円の被害。

1987(昭和62)年8月、入谷地区に巨大なヒョウが降り、葉タバコなどの農作物に
             1億円の被害。

1991(平成3)年2月、志津川大雪、昭和8年以来の積雪56cmを記録。

1996(平成8)年1月、防災対策庁舎完成。防災無線戸別受信機を全戸に設置。

2004(平成16)年1月、歌津町との合併後の新町の名称が「南三陸町」に決定。

2005(平成17)年10月、津川町・歌津町の対等合併により南三陸町発足

1896(明治28)年6月の三陸大津波で死者441人、1933(昭和8)年3月の三陸大津波で死傷者22人、1960(昭和35)年5月のチリ地震津波で死者41人と、津波により504人もの尊い命が奪われていました。

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2.東日本大震災

2011(平成23)年3月11日金曜日午後2時46分18.1秒に、仙台市の東方沖70kmの太平洋の海底を震源とする東北地方太平洋沖地震が発生しました。岩手県沖から茨城県沖までの南北約500km、東西約200kmのおよそ10平方kmという広範囲が震源とされています。地震の規模はモーメントマグニチュード(MW)9.0で、日本周辺における観測史上最大の地震でした。

津波に襲われた東京電力福島第一原子力発電所の1~4号機は全ての電源を失い、地震発生時に運転中だった原子炉は燃料を冷やすことができない状態が長時間続きました。2号機では原子炉圧力容器が破損し、1号機と3号機では原子炉で発生した水素の爆発により建屋が大きく破損し、定期検査中で運転していなかった4号機では3号機から流入した水素により建屋が破損、これらにより大量の放射性物質が大気中に放出されました。

東日本大震災全体で約30万人もの人が避難生活を余儀なくされ、そのおよそ半数の約15万人が福島県から県内外へ避難しました。長期にわたる避難生活を強いられ、健康を害して亡くなる「震災関連死」があとを絶たないそうです。

事故による多くの被災者はふるさとを追われ、避難する過程で家族や地域コミュニティを失い、広範囲に分散して生活することを余儀なくされています。被災自治体は基本的な行政サービスを提供することすら困難になり、避難者の多くは見通しの立たない避難生活の中で生活再建をできず、どこで生活の基盤を成り立たせれば良いのかさえ判断がつけられない状況に置かれています。

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3.巨大な津波

東北地方太平洋沖地震の発生で、場所によっては波高10m以上、最大遡上高40.1mにもなる巨大な津波が発生し、東北地方と関東地方の太平洋沿岸部に壊滅的な被害をもたらしました。2016(平成28)年の3月10日時点で震災による死者・行方不明者は18,455人、建築物の全壊・半壊は合わせて400,326戸が公式に確認されています。

巨大津波に襲われた南三陸町は死者620人行方不明者212人という被害を被りました。家屋の全壊は3,143戸、半壊と大規模半壊は178戸、半壊以上は約62%に当たる3,321戸にのぼりました。

この震災での犠牲者の死因のほとんどが、津波に巻き込まれたことによる水死でした。津波の中には、大量の砂や海底のヘドロ、港湾施設の重油などの有害物質などが含まれています。砂やヘドロが気管を詰まらせ、有害物質が肺に入って身体を侵され、押し流されてくるがれきが当たって意識を失い、3月の雪の舞う中で低体温症となるなど、阿鼻叫喚地獄が繰り広げられました。

南三陸町を襲った未曽有うの災害の中で、平成23年3月19日に消防団などの状況把握により33の避難所に9,746人もの避難が確認されました。防災無線の放送にせかされて避難された人々もいました。

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4.天使の声

インターネットで公表されている「遠藤さん教材に」という河北新報の1月27日付朝刊記事は次のとおりです。

宮城県南三陸町の防災対策庁舎から防災無線で町民に避難を呼びかけ続け、津波の犠牲になった町職員遠藤未希さん=当時(24)=が埼玉県の公立学校で4月から使われる道徳の教材に載ることが26日、分かった。

埼玉県教育局によると、教材は東日本大震災を受けて同県が独自に作成。公立の小中高約1,250校で使われる。

遠藤さんを紹介する文章は「天使の声」というタイトル。遠藤さんが上司の男性と一緒に「早く、早く、早く高台逃げてください」などと必死で叫び続ける様子が描かれ、「あの時の女性の声で無我夢中で高台に逃げた」と語る町民の声を紹介している。

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続いて、「天使の声」という教材の要旨が紹介されています。

突然、ドドーンという地響きとともに庁舎の天井が右に左に大きく揺れ始め、棚の書類が一斉に落ちた。「地震だ!」、誰もが飛ばされまいと必死に机にしがみついた。かつて誰も経験したことのない強い揺れであった。未希さんは、「すぐ放送を」と思った。

はやる気持ちを抑え、未希さんは2階にある放送室に駆け込んだ。防災対策庁舎の危機管理課で防災無線を担当していた。「大津波警報が発令されました。町民の皆さんは早く、早く高台に避難してください」。未希さんは、同僚の三浦さんと交代しながら祈る思いで放送をし続けた。

地震が発生して20分、すでに屋上には30人ほどの職員が上がっていた。すると突然かん高い声がした。「潮が引き始めたぞぉー」 。午後3時15分、屋上から「津波が来たぞぉー」という叫び声が聞こえた。未希さんは両手でマイクを握りしめて立ち上がった。そして、必死の思いで言い続けた。「大きい津波がきています。早く、早く、早く高台に逃げてください。早く高台に逃げてください」。重なり合う2人の声が絶叫の声と変わっていた。 津波はみるみるうちに黒くその姿を変え、グウォーンと不気味な音を立てながら、すさまじい勢いで防潮水門を軽々超えてきた。容赦なく町をのみ込んでいく。信じられない光景であった。

未希さんをはじめ、職員は一斉に席を立ち、屋上に続く外階段を駆け上がった。その時、「きたぞぉー、絶対に手を離すな」という野太い声が聞こえてきた。津波は、庁舎の屋上をも一気に襲いかかってきた。それは一瞬の出来事であった。

「おーい、大丈夫かぁー」「あぁー、あー…」。力のない声が聞こえた。30人ほどいた職員の数は、わずか10人であった。しかしそこに未希さんの姿は消えていた。

文章で遠藤未希さんの様子は推測できますが、上司で同僚の三浦さんの様子をうかがい知ることはできません。遠藤未希さんを放送室に残し、三浦さんはいち早く屋上へ逃げて助かったのでしょうか。上司であれば部下の命を大切にし、男性であれば女性を先に逃がそうとするはずです。

結婚を目前にしていた若い女性をヒロインにしたくなる感情は理解できますが、埼玉県教育局が作成した教材と河北新報が要旨として紹介した内容は真実を伝えているのでしょうか。「河北新報のいちばん長い日(文芸春秋)」にも記録は残されていません。

南三陸町では、なぜ若い娘が最後まで避難の放送をしていたのだろう、手伝う人はいなかったのだろうかと疑問を抱いてネットで調べました。

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5.防災行政無線機の記録

事実を知るうえでもっとも参考になったのは南三陸町防災行政無線の復旧を告げるNHKのニュース「防災行政無線に記録されていた声」と、キャンピングカーで放浪の旅Ⅱの主宰者が現地を調査され「最後まで防災無線で叫び続けた人は2人いた~南三陸町~」という記録です。正確な情報をありがとうございました。

平成23年3月11日(金)午後2時46分、東北地方太平洋沖地震が宮城県南三陸町を襲いました。危機管理課課長補佐の三浦毅さん(51歳)は、防災放送担当職員の遠藤未希さん(24歳)と共に、防災対策庁舎の二階放送室で防災無線機のスイッチを入れました。

地震発生の直後から未希さんの声で「震度6弱の地震を観測しました。津波が予想されますのでただちに高台へ避難してください。」と呼びかけが始まりました。三浦さんと未希さんは時折り交代しながら町民に避難するよう呼びかけ、防災行政無線機には庁舎内の緊迫した様子も残されていました。

南三陸町沿岸の防潮堤や水門は5.5メートルあり、12メートルある防災対策庁舎まで津波が来るとは誰一人考えません。危機管理課の職員は水門閉鎖確認などの情報を収集しながら窓の外に気づき、「潮が引いています。波の変化があります。消防署、消防署」と連絡をとろうとしていました。

「異常な潮の引き方です、逃げてください。高さは6メートルの大津波警報が発令されました。早く、早く高台に避難してください。」と、しだいに未希さんの声は切迫度を高めていきました。

「高台へ避難してください。ただいま宮城県内に10メートル以上の津波が押し寄せています。逃げてください」。62回の呼びかけが行われ、市街地側の人々は未希さんの声を歌津側の人々は三浦さんの声を聞いた記憶があるそうです。

危険と判断した危機管理課職員が、防災放送担当の遠藤未希さんに「上へあがっぺ、未希ちゃん、あがっぺ」と避難を促しました。放送室でなおもマイクに向かって叫んでいる三浦さんに「もう逃げろ!」と同僚は袖を引っ張りましたが、「あと一回だけ」と三浦さんは一人で放送室に留まりました。

大津波は防災対策庁舎の屋上を洗い流しました。庁舎内にいた人はもちろん、屋上にいた町民や職員など41名が波にさらわれ助かったのは10名だけでした。防災無線の放送は、約1万7千人の町民に避難を促し約9千人が避難できました。

日本経済新聞の記事
 上の写真は、南三陸町役場防災対策庁舎の三階屋上を襲う津波です。(3月11日午後3時34分、南三陸町総務課の加藤信男さん撮影、南三陸町Webページより転載)

未希さんの遺体が見つかったのは43日後。葬儀会場に駆けつけた町民は、「あの時の女性の声で無我夢中で高台に逃げた。あの放送がなければ、いまごろわたしは生きていなかった。」と、涙を流しながら未希さんの写真に手を合わせていたそうです。

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6.命を懸けた三浦毅さん

2011(平成23)年3月28日(月曜日)の日本経済新聞(夕刊)に下段の記事が掲載されました。主観見出しは、防災無線「あと1回」…。主見出し「9000人救った町職員不明」、袖見出しは、行方探す妻「父さんらしい」です。どのようなことが起きていたのか写真では判読しづらいので、記事の全文引用でご紹介します。

防災対策庁舎を襲う津波

東日本大震災で高さ十数メートルの津波に襲われた宮城県南三陸町で、最後まで住民の避難を呼びかけ続けた男性がいる。巨大な波が近づく中、町役場の放送室に一人とどまり、防災無線を通じて約1万7千人の町民に避難を促した。同町では約9千人が避難できたが、男性の行方はいまもわかっていない。男性の妻は最愛の人の手がかりを求めて避難所などを捜し歩いている。

「6メートルの津波が予想されます。早く逃げてください」。地震直後、同町危機管理課課長補佐の三浦毅さん(51)は後輩に変わって防災無線のマイクに向かい、声を張り上げた。

「もう逃げろ」と同僚が袖を引っ張ったが、毅さんは「あと1回だけ」と放送室を離れず、その後見えなくなった。無事だった同僚からこの話を聞いた時、妻のひろみさんは(51)は「自分より周囲の人のことを考えるお父さんらしいな」と感じたという。

毅さんの防災無線を通した呼びかけは大勢の町民だけでなく、同県気仙沼市で暮らす次男(20)も救った。次男はたまたま同町で仕事があり、同市まで車まで引き返す途中、毅さんの声に気づいた。海岸沿いの道から慌てて高台に向けてハンドルを切り無事だった。毅さんの防災無線の声は途中でガガガという雑音でかき消された。

約2年前に危機管理課に配置された毅さん。昨年12月に町が導入した防災無線の責任者を任され、張り切っていたという。ただ、9日に起きた三陸沖の地震の際に消防団との連絡がうまくいかず、地震前日の夜は珍しく落ち込んでいた。ひろみさんは「頼られる人だからこそ、責任を感じていたのでは」と振り返る。

地震当日の朝、ひろみさんは職場へ向かうため、いつものように毅さんより5分先に家を出た。「今日は歯医者に行ってくるね。」「はいはい、いってらっしゃい」。

玄関先での慌ただしいやり取りが最後の会話になった。「せめて見送っておけば」。ひろみさんにはそれが心残りだ。地震のあった夜、毅さんからの連絡を寝ずに待ったが、携帯電話は一晩たっても鳴らなかった。

地震から2周間以上立った現在も、ひろみさんは毅さんからプレゼントされたマフラーを首に巻き、手がかりを求めて避難所や遺体安置所を毎日訪れている。ただ、夫の情報が入手できるあてはない。「お父さんの声で助かった人がいる。それだけが救いです」。裕美さんは大粒の涙をこぼしながら、小さく笑った。

住民の避難に命がけで立ち向かった南三陸町危機管理課課長補佐の三浦毅さん、一人でも多くの人々を救おうとして殉職されたあなたを地方公務員だった私は誇りに思います。ありがとうございました、ご冥福をお祈りいたします。

南三陸町のみなさん!命尽きるまでマイクで避難を呼びかけた三浦毅さんを、決して忘れないでください。

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