はげちゃんの世界

人々の役に立とうと夢をいだき、夢を追いかけてきた日々

第23章 日本プロレスの夜明け

テレビ放送が始まった昭和20年代後半から30年代の日本中を熱くしたのは力道山のプロレスだった。アメリカ人に空手チョップの雨を降らせる力道山の勇姿は、水泳の古畑広之進などとともに、敗戦のショック覚めやらない国民に自信を取り戻させた。

1 力道山の誕生

 1-1 キムシルラクの故郷

金信洛(キムシルラク)の出身地は、朝鮮民主主義人民共和国の咸鏡南道浜郡龍源面新豊里37番地で、父親は金錫泰(キムソクタイ)と母親巳の三人兄弟の末っ子であった。家は貧しく漢学者であった父親は働かず、母親が米を作るかたわら雑貨屋を営んでいた。

信洛の少年時代は「シルム」という格闘技の力士として剛腕をうならせ、兄たちとともに家計を助けていた。5月5日や8月16日に行われるシルムで優勝すると牛1頭、準優勝には米1俵という賞品だった。信洛は長男とともに大会を荒らしまわった。

シルムは激しい相撲で、互いに距離を取りながら突っ張りや張り手を連発させる。まともに顔面に食らえばそのまま血反吐をはいて土俵に叩きつけられるという妥協を許さぬデスマッチだった。たまたま朝鮮にやってきてシルムを見学した百田巳之吉に目を止めた。

百田巳之吉は長崎県で興行師や置き屋の経営をしていた。大の相撲フアンで二所ノ関親方や元横綱玉の海の後援会幹事をつとめていた。信洛の雄姿を見てすっかりほれ込んだ百田は、信洛をスカウトして日本へ連れ帰った。昭和14年のことである。

玉の海は信洛を秘蔵子として可愛がったが、理由なき民族差別のまっただなかで生き抜くためには出世するより道はなかった。新弟子の生活は辛く苦しい。買い出し、薪割り、チャンコづくり、給仕、洗濯、関取衆の背中流し、巡業の荷物運び、使い走り等々。

金信洛は力道山信洛の四股名で昭和15年夏場所で初土俵を踏み、昭和17年春場所の東三段目で全勝優勝、昭和19年夏場所で東幕下優勝している。昭和23年5月場所では、前頭3枚目で殊勲賞を獲得、新入幕から四場所で東の小結に昇進した。

関取衆が起きると新弟子は土俵に上がれない。力道山はどんなに寒い朝でも、暗いうちから土俵に上がり稽古に励んだ。同期の力士を誘いむやみやたらとぶつかっていく。組み打ち、押し合いを何度も重ね、関取衆が起きてくるころには汗が滝になって流れ落ちた。

太鼓腹になるために、飯はどんぶりで一度に15~6杯をたいらげ、ビールは50本飲んでもびくともしなかった。昭和17年に二所ノ関部屋に入門した芳の里は、後輩にあたる若ノ花(後の二子山理事長)とともに、よく力道山に稽古をつけてもらった。

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 1-2 修羅の男

己の闘争心を掻き立てることにおいては、力道山のやり方は独特だった。芳の里や付き人の田中米太郎を連れて料理屋へ繰り出し、大一番の前日になると力道山は異常に興奮した。大鉢の中の料理を全部放り出すと、芳の里に向かって吠えた。

「芳の里、ここにその酒を入れろ」。たらいほどもある大鉢になみなみと酒を注ぐと、「よし、それを一気に飲み干せ」。途中で息を吸えば、傍らのビール瓶で力まかせに頭を殴られる。付き人の田中米太郎は、何度殴られたかわからない。

「おれが飲んでやる」と力道山は一息で飲み干した。この程度は序の口である。「これを食ってみろ」と差し出したのはガラスのコップである。芳の里は肝をつぶしたが、食わなければいやというほど打ちのめされる。

ガラスの破片が口腔に突き刺さり、口の中は血だらけである。見ていた力道山が苛立って叫んだ。「芳の里、こうやって食うんだ」。コップを手にした力道山は、縁に添いながらぐるぐる回してかじっていく。ガラスが細かく砕ける鈍い音が聞こえる。

すべて口の中に入れると、まるでいくつもの飴をいっぺんにかみ砕くようにして飲み込んでしまった。常識では考えられないことを人に強い、この野郎と思わせて相手の闘争心をかきたてる。

返す刀でおのれに対しては、血走った相手に挑戦状を叩きつけられた時のようなどん詰まりに追い込んでいく。自分を火と燃え上がらせ、張り詰めさせた闘争心を翌日の大一番で爆発させた。力道山はまさに修羅の男であった。

愛媛県松山市の巡業で稽古を終えてまわしを締めたままの力道山は、県大会の百メートル競争に飛び入りで参加し裸足で走った。みごとに1位となり、小学6年生の時に千葉県陸上部で敵なしだった芳の里の舌を巻かせた。

そんな力道山は、喧嘩も日常茶飯事で一晩に2回は当たり前だった。夜遊びには脚力を見込んで必ず芳の里をつれていった。巡業で地方を回っていると、かならず土地のやくざや有力者から座敷を設けられる。力道山は酒を飲むと人が変わった。

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酒乱である。だが力自慢の相手が因縁を吹っかけてきても3度までは我慢をした。4度も5度になるともう黙ってはいない。相手がたとえ10人であろうと、鍛え上げた剛腕で全員を殴りつけ血の泡を吹かせた。戦後史開封

芳の里が割って入る間もない速さである。呆然とその光景を見ている芳の里にことごとく相手をのばして力道山は叫んだ「芳の里、逃げろ!」。ふたりは一目散に走りだした。逃げ足は速い。かたがつけばかならずそうやって逃げた。

逃げるのは警察沙汰になることを恐れたからだった。これ以上やっては、相手を殺してしまうかもしれなかった。ものすごいスピード出世のため、力道山は兄弟子からうんさ臭がれていた。嫉妬、羨望、怨恨が、兄弟子たちのあいだに渦巻いていた。

神宮外苑の相撲場へ横綱でも国電千駄ヶ谷駅からとぼとぼ歩いてゆく時代に、オートバイで疾走してゆく入幕間もない力道山は、先輩格の力士たちから反発を買うのも当然だった。力道山が朝鮮出身であることは、兄弟子クラスなら誰も知っていた。

そのため稽古が終わると力道山はすぐに街へ出て行った。街へ出ていくとまた喧嘩三昧である。ときには髷を結った頭でスーツをピタリと決め、大型バイクのインデアンにまたがる。けたたましい爆音を轟かせ、猛スピードで焼け跡の東京を疾走した。

よく通っていたのは柳橋のふぐ料理屋である。座敷に上がるとかならず特別に注文。出されたのはマグロのように厚く切ったフグの刺身である。それを強靭な歯で噛み、一升瓶をラッパ飲みに一息で干す。あげくのはてに、弟弟子にガラスのコップを食べさせる。

何ものかに立ち向かう怒り、苛立ちのようなものがそう仕向けているようだった。己を傷つけ他人を挑発し、それによって再びおのれを奮い立たせる。まるで勝負の世界に棲む魔物に取りつかれ、自分の顔を思わずかきむしってしまう自家中毒患者のようだった。

力道山の勝負への執着は人並み外れていた。力道山の張り手が顔面に炸裂して大関東富士は張り倒された。のちに横綱となる千代の山との対戦では、攻める隙を与えずに張り手とつっぱっりで土俵の外へ吹っ飛ばした。だが、力道山は二人にかわいがられた。

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 1-3 自ら力士廃業

プロレス王としての力道山の生みの親となる一代の侠客、新田新作と出会ったのは昭和23年5月場所後に小結に昇進してまもなくのことである。新田新作は戦前から博徒として鳴らした人物で、戦争中は日本橋蛎殻町一帯の賭場を仕切っていた。

戦中は捕虜収容所に勤めアメリカ軍の捕虜たちにタバコや菓子などの差し入れをした。戦争が終わり解放され、アメリカ軍に復帰してGHQの高級将校となった人物がいた。彼は戦争中の新田の恩を忘れず、日本の復興のため焼け跡の整理を新田に任せた。

東京下町一帯の焼け跡の復興は新田が一手に引き受け、アメリカ軍のキャンプも建設した。新田建設を興し、GHQから入ってくる豊富な資材と潤沢な資金で、新田はたちまち実業家として財を成した。

背中から手首まで全身入れ墨をほどこした博徒は、戦災で焼けた明治座の復興も松竹に頼まれて見事に果たし、明治座の興行も一手に引き受けることになった。さらに、復興と興行に乗じて由緒ある明治座の社長まで手中に収めた。

GHQとのつながりが、新田を一介の博徒から実業家へと大転身させた。新田新作の名は日本橋一帯で知らぬものはなかった。路地裏の老婆でさえ「蛎殻町の会長」と呼んだ。その人物と力道山が出会ったのは、横綱東富士の紹介であった。

東富士はまもなく横綱になり、力道山は東富士の太刀持ちだった。「横綱、横綱」といってぴったりと寄り添ってくる力道山を、江戸っ子で人のいい東富士はかわいがった。新田は九州山に大関時代の東富士を紹介され、新田は東富士の最大の贔屓だった。

新田は人形町近くの浜町川岸に3千万円をかけて仮設国技館を建設して日本相撲協会に寄付した。これにより新田は、押しも押されもさせぬ相撲界の大立者として君臨することとなった。力道山が新田と親しくなったのはこの頃である。

力道山は、昭和24年5月場所に関脇として登場した。しかし、場所前にアクシデントが起こった。全身が熱っぽく、咳や淡がとめどもなく出た。吐き気が治まらず、体重が見る間に落ちて18キロも痩せた。力が全く湧いてこない。

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これまで1日も休場したことがない力道山は医者の制止を振り切って土俵へあがた。結果は3勝12敗で関脇の座は吹き飛んだ。場所前に川カニを食べたのが原因で肺ジストマに侵されていた。アメリカから取り寄せた薬を注射してもらい2か月後に退院した。

ところが、入院費用、薬代、注射代などとても個人で払える金額ではなかった。親方や相撲協会に相談しても知らぬ顔をだった。力道山の入院は二所ノ関部屋には知らされず、自慢のオートバイや自宅を売り払ったが足りなかった。

出羽ノ海部屋の有力後援者だった針金の製造工場を経営していた小沢に泣きつき、すべての費用を支払ってもらった。力道山の相撲界に対する不信感は、消えるどころかますます膨らんでいった。二所ノ関親方との関係も完全に冷え切っていた。

関脇に返り咲いた場所で8勝7負けと勝ち越したが、東の関脇にはならなかった。民族問題が力道山の出世を阻んだのである。さらに肺ジストマの後遺症が現れ、できものが体のあちこちにでき、それを掻きむしらなくても血が皮膚を食い破るように流れ出た。

昭和25年は大相撲の観客は7割入ればいいほうで、巡業に出れば決まって赤字となった。力道山の手元に金がほとんどなくなった。神奈川県の巡業で取り組みを終え、親方に法外な借金を申し入れて断られると力道山は二所ノ関部屋から姿を消した。

力道山は巡業先を飛び出したあと、贔屓である新田新作にあてがわれた日本橋浜町の自宅へ戻った。親方と喧嘩をしたら相撲取りをやめるしかない。一晩泣き明かした翌日両目は腫れ上がり、瞼がふさがったような姿で明治座の新田新作を訪ねた。

「わしはもう土俵に上がらん決意をしました」と新田に話して軽挙妄動を叱り飛ばされたが、力道山は何も言わずに明治座を出た。8月25日の夜明け、台所から刺身包丁を引っ張り出し、音をたてないように思いを込めて静かに砥石で砥いだ。

髷を結わえてある元結をほどくと、髪が両肩になだれ落ちた。左手に束ねて持ち、右手の持った刺身包丁を逆手にもって髪に当てた。うっと声を詰まらせるや、気合一閃、思い切って包丁を引いた。力道山はその場に立ちすくみ声を殺してひとしきり泣いた。

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2 プロレスとの出会い

 2-1 永田貞雄との出会い

昭和25年9月11日、力道山は関脇のまま肺ジストマのため廃業を発表した。新田にすがり浜町に二階建ての家をもらい新田建設資材部長となった。新田もしたたかにソロバンを弾いていた。当時建設資材は、官庁の判がないと手に入らなかった。

人気力士であった力道山が頼みに行けば、二つ返事で判を押してくれる。11月21日に力道山は転籍届を出して受理された。本籍の長崎県大村市から東京都中央区日本橋浜町に転籍。父百田巳之助、母たつの長男として出生。名は「百田光昭」となっている。

ご贔屓からのご祝儀はなく生活は質素になった。資材部長という肩書があっても、半分は食客のような待遇である。あれは力道山だといわれなくなると、暇を持て余す。力道山は旺文社のポケットサイズの英和辞典を持ち歩き、それを開いて勉強していた。

仕事の関係で知り合ったアメリカ人や外国人と接するようになると、珍しいものが手に入るようになった。それを売りさばいて金に換えるという、ブローカーのような内職もするようになった。力士時代の贔屓筋に紹介してもらってあちこちに売りつけた。

稀代の興行師、永田貞雄の懐に飛び込んだのもこのころである。永田は浪曲師を目指して初代天中軒運月の門下に入った。後に浪曲の興行師に転身し、二代目運月となり、伊丹秀子と結婚して昭和15年に日本浪曲協会の初代理事長に押された。

伊丹秀子の語る愛国浪曲「杉野兵曹長の妻」をヒットさせ、その後も「九段の母」「祖国の花嫁」「鈴蘭の妻」などの新作をだし、次々とヒットを飛ばした。戦後は歌謡曲の工業にも進出し、美空ひばりの興行を手がけた。

永田は美空ひばりの後見人であった山口組三代目組長田岡一雄とも親交を結び、新田新作とも親しかった。相撲界にも顔が利き、横綱千代の山の最大の贔屓であった。築地木挽町に「蘆花」という高級料亭を持ち、赤坂には大邸宅を構えていた。

7月に新田建設が手掛けている隅田川の川開きで「永田さん、花火を見ませんか」という新田新作の招待で、新橋の芸者を連れて永田が出かけるとそこに力道山がいた。髷を切ってオールバックの力道山に祝儀を渡そうとすると、

「社長、もう私は相撲取りをやめたんですよ」と、昔の癖でつい受け取ってしまうところを、力道山は丁寧に断った。「なかなか、立派な男じゃないか」と、ざっくばらんで親分肌の永田は力道山に親しみを感じた。

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千代の山の横綱昇進パーテーが開かれ、上野の精養軒で一次会が終わり、二次会へ行くときである。贔屓である永田は千代の山に声をかけた。「おい千代の山、だれか連れて来いよ。おれは、時津風親方と羽黒山と安芸の海を呼ぶから」。

二次会に千代の山が連れて来たのは力道山である。力道山は永田を覚えていた。千代の山ら贔屓にしている相撲取りには、惜しみなく金を使い面倒をみる男だった。千代の山を囲んで、記念写真を撮るときだった。永田はハッと一瞬息を止めた。

後にいた力道山が、永田の両肩に手をかけて抱きついてきたのだった。そのまま写真に治まった。これは相撲界の常識からいえば、明らかにやってはならないことだった。なぜならその場は、千代の山の横綱昇進の宴であり遠慮すべき動作である。

永田はそのとき「俺に秋波を送ってきたな」と思った。些細な動作のなかにも、人の気持ちは込められる。それを永田は見逃さなかった。永田は引退後の力道山の質素な生活ぶりを見ている。ちょうどお昼時だったので、何か食べさせてくれと事前に伝えておいた。

出されたのはホウレン草のお浸しと、味噌汁にご飯だけであった。夕食もまた質素だった。力士時代の田中米太郎や小松敏雄が訪ねてくると、七輪の上に金網を載せて焼くのは豚と鳥のレバーである。臓物は精肉よりも安く、量もたくさん買い込める。

力道山は、立川の米軍基地で働いている韓国人からただ同然で中古車を購入した。それを進駐軍の費用で痛んでいる部分を修理し、自分の金で車体を安く塗りなおした。淡い紺のシボレーである。当時、外車は日本人が持つことを許されなかった。

翌朝、永田が8時半に出かけるというと、力道山はシボレーを運転して30分前にやってきた。その実行力に永田は目を見張った。それもほとんど毎日である。永田は力道山をかわいがった。かわいくて仕方がなかった。

暮らしぶりは落ちたといえど品性まで落としていなかった。いつか必ずこういう生活から抜け出してやる。そんな野心を結ぶものが、なんであるかわからなかった。品性は落とさないが、酒を飲めばまたも荒れた。荒ぶる魂は救済の時を待っていた。

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 2-2 レスラーとの出会い

力道山はアメリカ軍属のボハネギーと知り合い、酔った挙句に喧嘩相手を探した。けしかけられてボハネギーが喧嘩をしても、軍属に対して日本の警察は手を出せない。新橋のナイトクラブ「銀馬車」へ繰り出し、二人は浴びるほど酒を飲んだ。

店内で肩がぶつかった。「てめえ、この野郎!」観れば筋肉隆々たる褐色の男である。その男が妙に落ち着き払った声で言った。「ユーはレスラーか。強そうだな」「何を言うか!」力道山は叫ぶや否や必殺の張り手を繰り出した。

現役時代に横綱千代の山でさえ土俵の外まで突き飛ばした張り手である。その得意の張り手が空を切った。相手は力道山の張り手を交わすと同時に、なんとその右手の関節をがっちり決めてきたのである。力道山は全く動けず、激痛が右腕に走った。

ボハネギーがあわてて間に入り、ようやく二人が離れると英語で話し始めた。その日系二世はハロルド坂田というプロレスラーだった。元重量挙げオリンピックのメダリストで慰問のため日本に来ているという。「プロレスをやってみないか」と誘われた。

自信を持ってはなった張り手を交わされ、逆にねじり伏せられるのは初めての経験だった。力道山は後にあいつに殺されちゃうんじゃないかと思ったと漏らしている。シュライナーズ・クラブで練習しているから一度見に来いよと誘われて出かけた。

当時、プロレスに触れていた日本人格闘家は「プロ柔道」の人々である。18歳で全日本柔道選手権に優勝し、戦前・戦中・戦後を通じて10年連続優勝を果たし、無敵を誇った木村正彦七段がその筆頭である。昭和24年に木村はプロ柔道団体を設立した。

異種格闘技戦を行い、26年に山口敏夫6段と渡米してプロレスのコーチを受けた。彼らはアメリカ各地で柔道のデモンストレーションを行うと同時にプロレスにも接した。相撲界でもハワイに渡って大ノ海、八方山、藤田山らが大相撲を披露した。

このとき、大ノ海と藤田山のふたりの力士がプロレスに出場している。9月30日に、米軍が接収してメモリアルホールと呼び名を会えている旧両国国技館で、日本ではじめてのプロレス興行が行われ、その数日後に力道山はシュライナーズ・クラブを訪れた。

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アメリカ人レスラーたちは、中庭の芝生の上で練習していた。力道山の姿をみつけた親分格のボビー・ブラウンが声をかけてきた。「ハロー、ユーのことはサカタから聞いた。いい体じゃないか。プロレスをやってみないか」と余裕の表情で力道山を見つめている。

ボビー・ブラウンが芝生に上がり、掌を上に向けて差し出し人差し指を動かして「カモン!」と力道山を誘った。軽くあしらわれているようでカッと頭に血がのぼった。相撲を甘く見るなと、上半身裸になるとブラウンに向かって突進した。

力道山は組み付いて投げ打った。ところがブラウンは自らくるりと力道山の腰の上で一回転し二本足で着地した。何度組み付いても、するりと逃げられた。挙句の果てなにがなんだかわからぬまま、ころりと投げられ倒されて押さえこまれた。

まるで赤子のように翻弄され、3~3分も経つと息が上がった。汗が吹き出し、その場にへたり込んでしまった。以後、力道山は元世界王者ボビー・ブラウンの指導を受けることになった。力道山は相撲の癖が抜けず、投げた後は一呼吸おいてしまう。

相手を芝生の上に投げ捨てるだけに終わってしまい、思い出して相手にかぶさるように投げを打ったのはよかったが、体のあずけ方がわからずにまともに相手の胸に体重を落としてしまう。そんなことが何度も続くと、相手はさすがに嫌がった。

新田にプロレスをやらせてくれと頼んだが、けんもほろろだった。昼間は新田建設の仕事がある。練習は早朝か夜だったが、それでも毎日通い続けた。ランニングも毎日欠かさなかった。みるみるうちに力道山の顔は引き締まっていった。

力道山はそのあいだにも、知り合ってまもない稀代の興行師、日新プロ社長の永田貞雄のところに通い詰めていた。淡い紺のシボレーに乗り込もうとして座席の足元に鉄アレイが転がっているのに永田は気付いたが、まだプロレスのことを打ち明けていなかった。

力道山はボビー・ブラウンに突然言われた。「そろそろ試合に出てみないか、私が相手になってやる。エキシビジョンで思い切りやってみればいい」。ついに力道山のプロレスデビュー戦である。

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 2-3 散々なデビュー戦

10月25日に力道山のプロレス練習が公開された。反対していた新田新作も半ばあきらめざるをえなくなった。勝手にせいと投げやりに力道山を見ていた。弟弟子だった小松は、兄弟子の大事なデビュー戦についていくのはごく当然のことだった。

10月28日の朝はどんより曇り、力道山はシボレーに乗り込みエンジンをふかした。小松はトランクスやリングシューズなどの入ったバッグを抱えて助手席にすわった、運転席の力道山の表情は恐ろしくこわばっていた。支度部屋で黒のトランクスをはいた。

小松は黒のリングシューズを履かせ、リングに上がるときに羽織っていくガウンを力道山に着せた。ガウンは浴衣である。髷を結った頭でスーツを着るほどの人気力士は、ガウンすら身に着けることができないほど困窮にあえいでいた。

浴衣の背中には深紅の大海老が染め抜かれていた。尾を思いきりそらせて、勢いよく跳ねているのだ。小松は花道の奥で見つめていた。後に秘書となる吉村義雄、アメリカ軍属のボハネギーもやってきた。新田新作も最前列に座っていた。

観客はまばらだった。ほとんどが進駐軍の兵士で日本人は数えるほどである。力道山ははじめから全力投入でブラウンに向かっていった。習いたてのハンマー投げやボディースラムをブランズに対して行った。

足を決めるトーホールドを、まるでまねごとのようにかけて見せた。師匠のブラウンはそれらの技を自分から受けた。技のぎこちない連なりは手習いの成果を初めて発表している新弟子だった。なりふり構わぬ必死の形相にかっての関脇の面影はなかった。

力道山は試合が始まって2~3分すると、フーフーと肩で息をするようになった。10分間に渡ってブランズに翻弄されて引き分となった。ブランズは余裕の表情で力道山と握手をかわした。あきらかに力道山に花をもたせたのだ。

ブランズは戦い終えて汗とひとつかいていない。ブランズに握手を求められるまで、膝に両手をつき状態をかがめて、いかにも苦しそうに全身で呼吸を繰り返していた。リングを降り控室へ向かう力道山の姿はまったく精彩が失せていた。

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3 動いた興行師

日本で有望な男を見つけ出しプロレスラーとして育てたいとブランズは、デビュー戦を終えた力道山に「試合をしてみて、きみはプロレスラーとして成功する素質があるよ。私が面倒を見るから、プロレスを続けてみないか」「イエス」と力道山ははっきり答えた。

戦前に、タロー三宅、ラバーメン樋上、キモン工藤といった柔道家がアメリカでリングに上がっていた。ブランズは、柔道家の木村正彦七段、山口敏夫六段、大相撲の大ノ海、藤田山の活躍を見つめ、プロレスの手ほどきをしたこともあった。

日本人でプロレスを始めた人々は力道山以前にもかなりの数がいた。だが、日本にプロレスを根付かせることはだれにもできなかった。11月18日に力道山は10分1本勝負でカナダ選手権保持者オビラ・アセリンと戦い引き分けた。もう息切れはしていないた。

のちに力道山と行動を共にするプロ柔道家の遠藤幸吉も、シュナイダー・クラブでプロレスの指導を受けていた。ブラウンズは「柔道や相撲といった国技を持つ日本人から、プロレスリングの世界チャンピオンは必ず生まれる」と力道山や遠藤幸吉に語っていた。

ブランズが離日するとき力道山は頼み込んだ「プロレスをずっとやっていきたい。アメリカへ行って本格的に修行したいので、帰国したらぜひ私を呼んでください」「OK、帰国後アメリカに呼ぶ手続きを取ってやろう。トレーニングを怠るなよ」。

当時、日本人の海外自由渡航は認められていなかった。正式な機関による招聘がなければ、出ていけなかったのである。力道山はプロレスに魅了されていた。同時に呑み込みの早い彼は、驚くほどの短時間でプロレスのイロハを習得していた。

力道山は永田貞雄の自宅を訪ねた。「社長、折り入ってお願いがあります」。妙にかしこまった様子に、永田はおやっと思った。「アレリカでプロレスが大変流行っています。日本でも流行ると思うんです。私はプロレスラーになってもう一度花を咲かせたい。

そのためにアメリカへ修行に行きたいんです。新田さんに相談しましたが認めてくれません。私は面白いと思うのですが、どんなものでしょう」。永田はプロレスを見に行ったことがあり、興行師としても興味があった。

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実際にプロレスを観るとこれがとても面白かった。レスラーたちは、コーナーポストの最上段から相手に向かって飛んで見せたり、リングの外で観客の椅子を奪って相手にぶつけたり、反則などもやり放題である。

格闘技であることは間違いないが、 サーカスのような要素が加わって立体的な面白さがあった。滅茶苦茶な茶番劇のような試合が展開され、永田は思わず腹を抱えて笑ったことを思い出した。力道山は二回ほど出場したことがあるという。

「それは面白いじゃないか」。永田がいうと力道山は力を得たように「わたしは力が余ってしょうがないんです。社長、わたしはこれを一生懸命頑張ってやってみたいんです」「俺から新田さんに話すよ」「お願いできますか」「俺に任せておけ、話をつけるよ」。

1月26日に永田が贔屓にしている千代の山の慰労会は柳橋の料亭でひらかれ、日本精工の今里広記社長、日本金属の矢野範二社長、日本ドリーム観光の松尾国三社長、等々というそうそうたるメンバーが招待されていた。そこに新田新作も加わっていた。

ボビー・ブランズの招聘状が力道山に届き、永田は力道山と千代の山に筋書を伝えた。新田は横綱東富士を連れてやってきた。そこへ千代の山が登場し、「リキさんが車で送ってくれました。いま下にいます」。力道山は廃業したとはいえ元関脇である。

「おおそうか、じゃあ力道山もここへ呼べばいいじゃないか」。永田の一声で筋書通りに事が進み、参加者がほろ酔い加減になると永田が立ち上がった。「ちょっと今夜は、みなさんに披露してご相談したいことがある」。全員が何事と永田を凝視した。

「実は新田さんにお世話になっている力道山のことです。相撲をやめてもう二年近く経ちファンも力道山、力道山といわなくなった。しかし、力尽きて相撲をやめたわけではありません。夜寝ていても力が余って眠れんくら血沸き肉躍っているのが実情だ。

プロレスというものがアメリカで流行し日本にも慰問に来た。力道山は、アメリカの元世界チャンピオン、ボビー・ブランと試合をして引き分けている。プロレスラーになってもう一花咲かせたい。それで、アメリカに修行に行きたいと言っている。

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新田さんは力道山がかわいいので、見ず知らずのアメリカで苦労はさせたくないやめとけといったそうです。プロレスは力だけではありません。いろいろな技を身につけなければ大成しません。力道山はアメリカで修行して、ぜひ成功したいと強く望んでいます。

私は力道山なら変わり身が速いからやれるんじゃないかと思うんです。このさい、力道山を望み通りアメリカに行かせてやったらどうかと思うんですが、みなさんいかがでしょう」。新田新作は黙って聞いていた。

第一声が上がった。「そりゃあ、いいじゃないか」。日本ドリーム観光の松尾国三社長である。「おれもアメリカへ行ったとき、プロレスというものを観たような気がする。投げ飛ばしたり飛び回ったりなかなか面白かったよ」。

「メモリアルホールで私も観たけど、椅子をぶつけたりロープの高いところから飛び降りたりしてね」。永田の言葉に「それは面白いじゃないか」と日本精工の今里広記社長が賛同し、「新田さん、力道山をアメリカへやったらどうですか。

かわいくて手放したくないだろうけど、力も衰えとらんということだし」。新田にとっては思わぬ展開だった。松尾や今里にそうまでいわれてはっきり答えた。「みなさんがそういってくれるのなら、私に依存はありません」。永田は心の中でやったと叫んだ。

今里が間髪入れずに提案した。「松尾さん、あんたの雅除園で歓送会をやったらよか」「うちだったらいつでも使ってくだい」。トップ同士の話は速い。手配を永田に任せることになると、永田はあらかじめ待機させていた秘書に電話を掛けた。

話は急展開で進み、秘書が来ると永田が指示した。「いいか、力道山の歓送会は2月1日、目黒の雅除園だ。案内状の葉書を千枚ばかりつくってくれ。大急ぎでやってくれ」。秘書は案内文を書いてその足で印刷所に注文した。あと5日しかない。

力道山のアメリカ行きは、財界の大物たちの後押しまで得て電光石火の決定をみた。雅除園に300名余人の名士が集まり、政界からや政治家や挿絵画家の岩田専太郎に作家の村上源蔵も招かれた。この1年前に力道山は転籍届を出して許可を受けている。

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4 レスラー力道山の誕生

 4-1 沖識名の猛特訓

2月3日、新田新作や永田貞雄らのほか横綱千代の海ら多くの人々に見送られて、力道山は羽田からハワイへ飛び立った。雅除園で1万円の祝儀を包んでくれた人が何人もあり永田は50万円もの祝儀を渡していた。公務員の初任給が7650円の時である。

ホノルルについた力道山を出迎えたのは、プロレスの師匠であるボビー・ブラウンだった。力道山は日系人で元プロレスラーの沖識名にあずけられた。沖識名は両親が沖縄出身の日系二世で、ハワイ相撲からプロレスに転向した。

1930年代後半の世界チャンピオン、ジム・ロドリゲスと死闘を続けた人物だった。沖は力道山を連れてワイキキ・ビーチを走った。砂が足を噛み、40度近い熱波が押し寄せ、汗が噴き出す。ジムでは、バーベルや鉄アレイを使って腕と胸の筋肉を引き締める。

膝を屈伸させて足腰を鍛えるスクワットは一度に三千回こなした。急所である首の筋肉を鍛えるために、四つん這いになって後頭部を思いきり押さえつけられ、首を後ろにそらせて押し返すトレーニング。体つくりの考え方が相撲とプロレスでは根本的に違う。

プロレス技の関節技や投げ技を教わったがすぐに身につくというものではない。二週間後、力道山は頼まれて空港に二人の日本人を出迎えた。のちにゴットハンドと呼ばれて世界的に有名になる大山倍達と柔道家の遠藤幸吉で、ロスアンゼルスへ向かう途中だった。

沖識名が力道山に質問した。「相撲の時の得意技なんだった」「突っ張りに張り手、それに外掛けです」「じゃ、カラテチョップをやったらいい」「カラテチョップ?」。ハワイのプロモーターのアル・カラシックも、さかんにカラテチョップを勧めてきた。

終戦間もない頃ハワイやアメリカ本土の人たちは、真珠湾攻撃を忘れていなかった。日系レスラーが出るというと、その恨みを晴らそうとでもいうように客が集まってヤジを飛ばした。日系レスラーはそれだけで客を集め、こぞって空手チョップを使いたがった。

アメリカ名を持っていた日系レスラーでも、リング名を日本名にした。それも、東郷平八郎元帥にちなんだ「グレート・トウゴウ」、あるいは東条英機と山本五十六をミックスして「ドージョウ・ヤマモト」。これらにリングネームはアメリカ人を刺激した。

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ハワイには日系二世レスラーがたくさんいた。力道山が見たレスラーは、悪役というよりもそろいもそろって太鼓持ちを演じている情けない日系レスラーの姿だった。羽織袴の上下や、束帯姿、下駄履きでリングに上がり、柏手を打って線香をあげる、塩まく。

相手の白人レスラーに攻め込まれると土下座して許しを請い客を沸かせる。そうしておいて、相手に卑劣の限りをつくし、ほどほどのところでフォールを取らせて負けてやる。力道山は特訓を終えると、海岸へ出て実力さえつければとヤシの実を何度も殴りつけた。

これまではまっすぐに打っていくチョップしかなかった。それを、右手の先を左肩のあたりまでぐっと引いて力をため、弓のように右腕をしならせて敵の喉元に右手の側面を叩きつける。この逆水平チョップは遠心力が加わるので力が倍加された。沖識名は唸った。

初試合はハワイへきて二週間後に、ホノルルのシビック・オーデトリアムで行われた。相手は「狼酋長」を名乗るチーフ・リトル・ウルフというインデアンで、無法の限りを尽くすレスラーという評判だった。プロモーターの言うことは守らなければならない。

力道山は相撲レスラーとして、紋付のコスチュームを着せられてリングに上がった。その屈辱を晴らすためには、実力を見せつけなければならない。敵を叩きのめすのは一撃入魂の手刀しかない。

反則パンチで殴りかかるウルフに、力道山は上半身を紅潮させて怒りを爆発させた。空手チョップを連発し、激高していくうちに相撲の張り手のようになった。リング下から上がってきたウルフに、機関銃のようなチョップを食らわせてマットに沈めてしまった。

殺し合いではないので急所は外したが、大相撲時代から鍛えた右手に相手は悲鳴を上げた。加減するためにやや手をくの字に曲げ、当たった一瞬のちに掌を相手の胸に叩きつけるのでバシーンとはじける音が場内に響く。観客は衝撃の凄まじさを耳で受け止めた。

日系人の観客はどっと歓声を送った。戦時中は収容所に入れられ、戦後は屈辱をなめさせられた彼らに、力道山の見事なほどの一方的な勝ちっぷりに、ヒーロー到来と喝さいを贈ったのである。ウルフはなかば失神状態だった。

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 4-2 力道山のアンビシャス

永田への手紙で「私の今日までの成績をお報せします。7試合で5勝2分です。昨夜の興行は5千人以上でした。ホノルルは地方都市ですから切符は4分の1がリングサイドで2ドル50セント、次が1ドル50セント、最後が1ドルです。

選手は8人登場して、1人平均250ドルで約2千ドル。毎週日曜日に興行があり九分通り入っています。興行税は20%で、小家主が客が入ってもいなくても15%を取ります」と書き、力道山はプロレス興行のやり方まで学んでいた。

一か月後の手紙はかなり様子が違ってきた。「日本においての将来プロレス発展のお役に立たばと思い、スクラップブックをお届けします。本日までの成績は13勝3引き分け負けなし、三役級と3~4人やりました」。力道山は日本にプロレスを植え付けたい。

事業としてやっていきたいとの野心を秘めていた。力道山と組んで日本プロレス協会を発足させることになる遠藤幸吉が、プロ柔道家の山口利夫6段もホノルルにやってきた。遠藤幸吉はグレート東郷のもとでトレーニングに励んだ。

力道山はホノルルで得意の張り手から空手チョップの原型を生み出し、トレードマークとなる黒のロングタイツを着用し始めた。太くて短い力道山の足をスマートにみせ、若乃花に噛まれた膝の傷も、太腿にある直径4~5センチの丸い火傷の痕も隠れた。

それだけではなかった。力道山は一緒に風呂へ入った豊登に「肺ジストマを患ってから体はがたがたなんだ。太腿にも放っておいたら血のこぶができ血が噴き出すんだ。リング上でそうならないように、タイツを履いて押さえているんだ」と語った。

永田への手紙に重要なことが書かれていた。「6月10日午後6時の飛行機でサンフランシスコへ行きます。その次はシカゴ、次はニューヨークです。ホノルルのプロモーターは私に日本へ帰ってプロモーターをやれと言っております。応援すると云っています」。

昭和27年6月9日、力道山はサンフランシスコ空港に降り立った。トレーニングを終えた正真正銘のプロレスラーとして歴戦の旅である。アメリカ人は真珠湾奇襲攻撃を忘れなかった。不意打ちを食わせた日本人は卑怯だというイメージを持っていた。

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アメリカの客たちは日本人が叩きのめされるのを見たい。ところが、日本人がアメリカのレスラーを空手チョップでやっつける。すると、この次はやっつけてくれるだろうと客がまた観に来る。しかし、また、アメリカのレスラーが日系レスラーにやられる。

そして、最後にアメリカ人レスラーが勝って留飲を下げる。日系レスラーが繰り出す空手チョップにアメリカ人レスラーはたじろぎ、客は東洋の神秘的な技に驚喜した。そのころの空手チョップは、単に掌をまっすぐに突き出す見栄えのいいものではなかった。

グレート東郷は名前でアメリカ人を刺激し、リング上で相手に迫られると手をこすり合わせてやめろと懇願する。相手が背を向けたとたん、コーナーに置いてある高下駄を振り上げて殴りかかっていく。観衆からはさかんにブーイングが浴びせられた。

力道山は「あれはハワイ生まれのやつで国辱ものですよ」と怒りをぶちまけていた。日系レスラーはあくどく滑稽に稼ぎまわっていた。力道山は彼らを憎み軽蔑した。それゆえリング上ではがちがちのストレート・ファイトを貫き通した。

アメリカ本土での第一戦は反則パンチを振るってくるアイク・アーキンスで、力道山は袈裟懸けに振り下ろす空手チョップを頸動脈から胸板に叩き込んだ。妥協もなくまともに乱打する空手チョップに、アーキンスは何度もマットにたたき伏せられた。

6千人という超満員の観衆は力道山にくぎ付けとなった。こんな日系レスラーは見たことがない。黒のロングタイツはアメリカでは悪役の象徴だった。アメリカ人レスラーは、力道山をセメント・レスラーと呼んだ。観衆には新鮮なレスラーとして映った。

リングに上がるたびに「リキ、カラテチョップ!」「ゴー、カラテチョップ、リキ!」と観客から熱望の声援がわいてきた。アメリカにはすでにテレビがあった。サンフランシスコのテレビ局は、試合があるたびにプロレスを放映した。

小さな画面の中を、黒いロングタイツの東洋の男が日に焼けた上半身をさらして弾丸のように走り抜けていく。その躍動美が、さらに力道山のファンを増大させていった。そして、元プロボクシング世界ヘビー級王者のプリモ・カルネラとの対決で引き分けた。

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 4-3 プロレスの真髄

プロモーターのマルコビッチは力道山の求心力に驚いた。カルネラは身長202センチ体重128キロで、動くアルプスの異名を持っていた。それが、力道山の空手が撃ち込まれると、アルプスのような体が大きく前後に揺れ、マットに崩れ落ちる。

マルコビッチは「今度はカルネラとタッグ組んで、シャープ兄弟の世界たっぶ選手権に挑戦するんだ」。日本を離れてまだ4か月である。闘志をむき出しにして戦ったばかりのカルネラとタッグを組む。敵同士ではないかと力道山は困惑した。

これがプロレス興行の奥深さである。敵同士であろうがシャープ兄弟と互角に渡り合える、新鮮なマッチメイクで観客を動員できるのは二人である。互角に戦ってお互いの力を認め合ったレスラー同士が、打倒シャープ兄弟で手を組んだというドラマが生まれる。

シャープ兄弟は世界ヘビー級世界チャンピオンのルー・テーズと共に、全米一のドル箱スターだった。試合は三本勝負で、一本目はカルネラが反則負けを喫し、二本目はベン・シャープに空手チョップを見舞って取り換えしたが、結局時間切れ引き分けに終わった。

世界タッグ選手権で力道山はマルコビッチに認められた。世界最大の格闘技誌「ボクシング・マガジン」は、力道山を世界のプロレス最強ベストテンに入れ、3ページにわたって特集した。そのせいもあってか、力道山の試合は必ずテレビ放送された。

プロレスとは何か、歴戦の中で力道山ははっきりとつかんだ。ハワイでインデァンレスラーをめった打ちにして沖識名に言われたことがある。「リキ、ユーの試合はよくない。プロレスには売り物がなければならない。お客はユーの相撲を期待している。

ユーはそれを見せずにむきになって勝負に出た。今日のような試合を続けたら人気はでない。プロレスは、お客さんに楽しく見せるプロスポーツなんだから」。手抜きを教えられたと思ったが、空手チョップという売り物が完成すると意味が分かるようになった。

売り物を出すタイミングを計り、相手の攻めも受けてやる。相手の潜在能力を引き出してやるくらいでなければならない。そうして、ここぞというときに伝家の宝刀を繰り出すのだ。レスラー同士の阿吽の呼吸で次第に盛り上げ、観客にドラマを見せるものである。

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力道山は沖識名から空手チョップを習い、自分で工夫を凝らしていたが見よう見まねでしかない。どうせやるならその道のプロに習って極めたい。ちょうど日本の空手家大山倍達が遠藤幸吉と全米をデモンストレーション中だった。遠藤に連絡して教えを乞うた。

大山はハワイで力道山と会った。昨年空港であったときは、挨拶もしなかった男が深々と頭を下げてきた。二人は道着に着替えて裸足で海岸まで走り出した。40度近い熱波に焼かれた砂が足をかみ、頬や脇の下から汗が噴き出した。

力道山は大山に空手チョップを見せるとまるで相撲の張り手だなと思い、逆水平チョップを見せると「確かにあなたの腕力をもってすれば相手は倒れるだろう。だが、これは空手ではない」「教えてください。稽古をつけてください」と力道山は懇願した。

大山は日本へ帰国するまでの一週間、ワイキキビーチで力道山とすさまじい稽古に励んだ。力道山は運動神経の良さから2~3度繰り返すと体得した。4日目に空手チョップの改造を行い、大山は空手の一発で牛を殺しウイスキーの瓶だって切れるといった。

翌朝の朝食時に「何度試しても瓶は切れなかった」という力道山に大山はあきれ、テーブルの上に空になったジュースの瓶を立て、大きく息を吸い込んで気を溜め、掛け声とともに手刀をジュース瓶に叩き込んだ。首がくびれたところから上がポロリと折れた。

部屋中から歓声が上がった。力道山は食い入るように大山の右手を見つめ、右手の厚みに圧倒されていた。大山は砂浜で逆立ちをして腕立て伏せを始めたが、体重140キロの力道山はできなかった。「あなたには腕の練習が必要だよ。今からできますか」。

力道山は「やる」と断言した。実際に彼は口だけではなかった。それからの三日間というもの、一生懸命にトレーニングに励んだ。力道山の努力に大山も感心した。まもなく、大山は帰国することになった。大山は最後に力道山にこう言い残した。

「幸せは人が教えてくれるものではない。自分からつかむものだ。あなたは、これまでも自分なりに創意工夫を凝らして訓練してきた。特技も同じこと。特技もまた、自分からつかむものなんだ。これからも、力道山式でやってください」。

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5 背水の陣を敷いて

 5-1 情熱は人を動かす

昭和28年3月6日、300戦以上してわずか5敗という戦績を引っ提げ、しかも日本人初のプロモータライセンスを獲得してアメリカから帰国した力道山を待ち受けていたものは、周囲の冷ややかな態度だった。

NWA全米レスリング同盟は、世界チャンピオンのルー・テーズ、世界タッグチャンピオンのシャープ兄弟というアメリカのドル箱スターをはじめ、名レスラーを多数抱える。力道山は、そのプロモーターであるジョー・マルコビッチからお墨付きをもらっていた。

お墨付きには、「力道山が日本でプロレス興行を行う場合NWAは外人レスラーの派遣など全面的に支援する」とあり、ハワイのプロモーターであるアル・カラシックの署名も添えてあった。日本でのプロレス興行はこの俺が取り仕切ると力道山は胸を張っていた。

後見人の新田新作は全く取り合わず、渡米に協力した日本精鉱の今里広記社長、日本ドリーム観光の松尾国三社長、吉本株式会社の林弘田高社長も自分の仕事に追われ、1年以上も日本を離れていた力道山の存在などもはや薄れてしまっていた。

日清プロの永田貞雄社長は、九州で興行師としての腕をふるっていた。3月の末に東京へ戻った永田に力道山は熱を帯びた声をあげ、アメリカのプロレス事情を伝た。稀代の興行師として飛ぶ鳥を落とす勢いの永田だったが、簡単に首を振らなかった。

海のものとも山のものともわからないプロレス興行に手を染めることが不安だった。だが力道山は食い下がった。「かならず成功します。自分はレスラーとしてやって実業家になりたいんです。私はアメリカの有名なレスラーを呼ぶことができます」。

実業家という言葉に永田は驚いた。力道山は朝に晩に永田を追いかけた。そしてかたときも離れようとしなかった。永田の力がなければ日本での興行は動き出さない。永田はメモリアルホールで見たプロレスがなかなか面白かったことを思い出した。そして、

ヘルシンキ・オリンピックで、日本の石井庄八がレスリングで優勝したことを思い出した。プロレスというからにはアマチュアのものよりずっと面白く、見世物的な要素も随分あるのだろう。永田はそう解釈し、ついにプロレス興行に乗り出すことにした。

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永田が稀代の興行師とうたわれた理由は潔さである。未知数のプロレス興行に乗り出すために、築地木挽町にあった自慢の高級料亭「蘆花」をあっさりと売り払った。当時の金で1千8百万円だった。5月に目黒の雅叙園で力道山の帰国パーティーが開かれた。

政財界から集まった300人を前に、永田はステージの上で力道山、新田新作と並び、代表してあいさつを行った。これから日本にプロレスリング興行をはじめて展開していこうと熱弁をふるった。この直後、日清プロの社員たちから反対の声が上がった。

「プロレスがアメリカで相当な人気があると言っても、日本ではルールすら知られていない。リキはプロレスしかできない。自分ひとりじゃ興行ができないんですよ。社長を利用しているだけのことです。あんな若造に踊らされちゃいけません」。

しかし、永田はもう矢は放たれたんだと旗を降ろさなかった。それを知らない力道山は日本人レスラー発掘に走り回っていた。プロレス修行中の遠藤幸吉は参加してくれるだろう。ひざを痛めて相撲界を引退した駿河海を口説き落とした。

新田新作が倉庫を道場にと許可を出し、かって付け人だった田中米太郎や後に羅生門と名乗った巨漢の新高山、大成山らを引き入れて、入口には「力道山道場」という看板が掲げられた。永田は新田新作や林弘高に働きかけて日本プロレス協会を作った。

会長に元伯爵で横綱審議会委員長の酒井忠正に座ってもらった。役員には政治家の楢橋渡、大麻唯男らの名を連ねた。設立は7月30日であった。力道山道場の披露パーティーに政財界人とマスコミを含めた百人程の列席者が集まった。

永田は、パーティーの席で力道山と遠藤幸吉に「模範試合でもやってくれ」と耳打ちした。パーティーのあと、力道山と遠藤幸吉はリングへ上がり、上半身裸のトレーナーパンツ姿でエキシビジョンマッチを公開した。白熱の攻防に列席者は度肝を抜かれた。

この12日前に大阪で柔道家の山口利夫6段がプロレス興行を華々しく打った。大相撲前頭筆頭出身の清見川と、柔道が勝つか相撲が勝つかという刺激的なテーマで試合を行った。内容は完全にプロレスマッチだった。

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力道山は苛立った。新田新作から「上万一家の貸元が、お前と柔道の木村を札幌で試合させたいと言ってきた。貸元から頼まれてしまったんだが」。呑み込みの新ちゃん、合点の新ちゃんの異名をとる新田である。親分肌で、頼まれたら嫌といえない性分である。

力道山は声を荒げた。「わたしはプロレスに命を賭けているんです。失敗は許されないので、こればかりはご勘弁願います」。確かに筋が取っていると新田は黙った。この世界ではもめごとは当事者同士では会わない。代理人を立てる。新田は永田に頼んだ。

上万一家は柔道新聞社長の工藤雷介を立ててきた。料亭桔梗で会った二人は同じ故郷九州の話題に花が咲いた。すっかり打ち解けてから、永田はざっくばらんに懸案の話を持ち出した。「呑み込みの新ちゃんは、軽い気持ちでいいよと貸元に行ったんでしょう。

力道山はプロレスに命を賭けているんです。新田さんは興行師でないので客が集まるかどうかはわかりません。約束を破るなんて、大げさなことじゃないんですよ」。工藤は白い歯を見せながら「私もどうせ、そんなことだと思うとりました」とあっけなかった。

この後、工藤は日本プロレス協会の事務局長になり力道山に協力していくことになる。そのころ吉本株式会社の林弘高が永田を尋ねた。「日本に来ているアイス・ショーのミスター・ローゼンが、プロレスがアメリカで受けていて面白いという。

あんた、プロレスを本気でやるのかい。それともやらんのかい」と、頭の回転が速い林は身を乗り出してきた。「いやあ、実は迷っているんだ」。「永田さん。プロレスというものは面白いかもわからんよ。わしも手伝いまっせ」と永田をけしかけた。

「じゃあ、やってみるか」と永田は決断した。力道山の金はつき、アメリカで買ってきた絨毯や英語の大辞典を高く売りさばいていた。昭和28年の秋に永田を訪ね、アメリカへ行ってシャープ兄弟と来日の交渉したいと申し出るとそれはいいとあっさり認めた。

力道山はハワイでNWA世界チャンピオンルー・テーズとタイトルマッチを行い、43分間攻め続けて不用意にヘッドロックにいったところをバックドロップで切り返されて敗れたが、この試合は力道山の名まえをその世界で不動のものとした。

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 5-2 興行師永田が動いた

アメリカで試合をしながらシャープ兄弟との交渉し、元世界チャンピオンのボビー・ブランズをレスラー、力道山の師匠格であるトレーナーの沖識名をレフリーとして来日してもらう話をとりつけた。一方、永田は新田新作にプロレス興行は任せると許可を得た。

永田に殺人的な毎日が訪れた。浪曲の興業のほかに美空ひばりの興行も手掛け、日本ではじめてのプロレス興行も進める。永田は。全国の興行網を使って、熊本、小倉、大阪、神戸、岐阜、名古屋、静岡、宇都宮、横浜の興行師たちと連絡を取った。

永田の頼みならひと肌もふた肌も脱ぐ興行師が全国に50人ほどいた。彼らは永田の号令一下、ただちに小屋と日程をおさえはじめた。興行を打つには宣伝がいる。それには新聞社の協賛が必要だった。永田はまず読売新聞社へ話を持って行ったがうまくいかない。

永田は日本精鉱の今里広里社長に何とかならないかと話した。今里はフランスのカンヌ映画祭へ集積していた大映の永田雅一社長に話を持って行った。永田社長から毎日新聞の本田社長に連絡があり、本田の号令一下毎日新聞社がプロレス興行の主催社になった。

柔道新聞社の工藤は力道山のパートナーにプロ柔道家の木村正彦が最適と推薦し、永田は熊本へ飛んで木村と会った。木村は「考えてみますけど一試合10万円をください」といった。いきなり莫大な金の要求に驚くよりもあきれかえり聞きおくだけにした。

東京で工藤と木村を待っていると突然電報が届いた。「ココニオリマス キムラ」発信元が熊本になっているので熊本にいていけないという意味にとれる。詫びも連絡の段取りもない。工藤は「連中はこんなもんですよ、常識が全くない」と永田と大笑いした。

しばらくして東京へやってきた木村は一試合10万円のギャラをゆずらない。力道山一人では試合にならないから永田はあきらめた。永田は柔道家出身の山口利夫6段と交渉し6万円で快諾を得た。山口は全日本プロレスに属していたのでクレームがでた。

レスラーの数がもっと必要と、山口のほかに清見川、長沢日一、ユセフ不・トルコなどの全日本プロレスのレスラーと一括契約し、山口のギャラを含めて20万円弱で決めた。シャープ兄弟のギャラは一試合7万円で、無冠の木村はべら棒に高いギャラだった。

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力道山はアメリカからシャープ兄弟やボビ・ブラウズの写真とプロフィールなどを毎日新聞に送ったが、いっこうに記事が出なかった。旗揚げ興行が一か月後に迫った1月21日、ライバルの朝日新聞に「シャープ兄弟ら来日」と記事が載った。

朝日に抜かれた毎日は奮い立ち、2月2日にアメリカのプロレス近況と代表的レスラーたちを記事にした。シャープ兄弟についての記事は詳細でスポーツ新聞や週刊誌もこぞって書き始め、いつのまにか新聞と週刊誌が「世紀の国際試合」と煽り立てていた。

永田はスポンサー探しにも躍起になっていたが、プロレスなど聞いたこともない企業の社長たちは二の足を踏んだ。マスコミにプロレスの名が出ると、ゼネラルというブランド名でテレビを売り出した八欧電機がプロレス興行の一切の面倒を見ることになった。

ポスターからチラシ、切符、観客用にプロレスのルールを書いた印刷物にいたるまで、八欧電機がまかなうことになった。NHKと日本テレビが中継を申し込んできた。一試合の放送権料は、日本テレビが17万円、NHKは25万円を出すことになった。

永田は自慢の料亭「蘆花」を投げ売って、8か月間ものあいだ力道山以下レスラー達を自腹でべさせてきた。寿司は一人で5~60個は食べるので飲み食いだけでも相当の支出だった。プロレスの興業に乗り出したときは、蘆花を売って作った金はなくなっていた。

国技館の借用は、日本プロレスリング協会の理事に日本相撲協会の出羽の海理事長に就任してもらい一発で実現した。借用料は30万円だった。永田は新日プロの社員と浪花節協会の手勢を借りて、国技館の升席の座布団の上にチラシを15日間毎日配付した。

入場料はリングサイドが1500円、最低は二階席の300円だった。新聞が書き立てスポンサーがついくことで、切符はすざましい勢いで売り切れた。力道山はレフリーの沖識名を連れて帰国した。シャープ兄弟がチャンピオン・トロフィーとともに来日した。

雨のためオープンカーでのパレードは中止となったが、2月19日の国技館は1万2千人の大観衆を呑み込んだ。何としてでも見たいという人々が引きも切らず、ダフ屋のさばくリングサイドの切符は8千円以上の値をつけた。

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6 熱狂した観客

第一戦カードは15分1本勝負の清見川対ハロルド登喜、20分1本勝負の駿河海対長沢日一、30分1本勝負は遠藤幸吉対ボブ・マンフリー、45分1本勝負で山口利夫対ボビー・ブランズ、メインイベントは61分3本勝負でシャープ兄弟対力道山木村正彦組。

力道山は黒のロングタイツで颯爽とリングに上った。大観衆へ両膝に手をついて深々と頭を下げた。190センチのベン・シャープ、弟のマイク・シャープがリングに上がると日本の観客はその長身と均整の取れた肉体美にため息を漏らした。

力道山は170センチ、木村正彦は160センチの小兵である。敗戦の痛手は癒えずアメリカ人へのコンプレックスは深い。1本目、シャープ兄弟は憎らしいほどの巧みなタッチワークで木村を攻め立てた。自軍コーナーへ引き込んで徹底的に木村をいたぶった。

力道山はレフリーの沖識名に反則をアピールし、大観衆はヤジと怒号をあびせた。木村がようやくタッチを果たすと、力道山は勢い込んでリングに飛び込んだ。修羅の形相で怒涛の空手チョップを、ベンとマイクに代わるがわるあびせた。観客は沸きに沸いた。

14分15秒、力道山が兄のベン・シャープを空手チョップの連打から押さえ込み1本目を奪った。どっという拍手と歓声が響き渡り、あのアメリカに勝ったという思いが日本の観客の留飲を下げた。ストーリーは力道山を中心に、四人の間で決められていた。

相手に応じて技を出し、自分の持ち前の力を十分に発揮していく。相手もまた同じである。こうして、互いに存分の力を出し合って試合を作り上げ、観衆の熱狂を引き出していく。阿吽の呼吸と暗黙の了解、観客を沸かせて何年か先まで持続させるのがプロである。

2本目は小柄な木村がマイクに場外へ投げ飛ばされた。ロープを飛び越え、リングの下に落ちる姿に観客は度肝を抜かれた。必死の形相でエプロンに上がってきた木村は、怒りもあらわに外からマイクの首を締めあげた。ロープを利用して力道山組の反則負け。

3本目は互いに入れ替わり立ち代わり攻防の限りを尽く、果てはベンと木村の殴り合いが演じられ、時間切れ引き分けとなった。日本対アメリカの対決構図は1万2千の観客を熱狂させ、ヘビー級同士のぶつかり合いは迫力満点で誰もがレスラーの体力に驚いた。

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力道山は一方的にやられる木村に代わり、空手チョップという日本の技でシャープ兄弟を叩きのめして強烈なインパクトを与えた。人々ははじめてみるその技に沸き、アメリカの巨人チームをバッタバッタと切り捨ててるさまに驚喜した。

試合が行われているあいだ街頭で異変が起こった。新橋西口広場には2万人もの群衆がひしめき合い、有楽町の朝日、毎日新聞社前でも、銀座の読売新聞社前でも、都内30か所以上の広場で群衆の小競り合いが起こっていた。電機店前にも人だかりができた。

それらの街頭には、21インチ、あるいは27インチの白黒のテレビが据え付けられ、プロレスの放送を実況していたのである。日本テレビは7時判から9時まで、NHKは8時から9時まで、ちょうどメインイベントが始まる時間帯である。

街頭テレビは都内ばかりではなく、横浜、川崎、大宮、水戸、前橋、宇都宮など関東一円にも置かれ、立錐の余地もないほどの黒山の人だかりを作った。電機店などの店頭サービス用におよそ5千台が置かれていた。テレビは1台15万円から20万円もした。

力道山の真実

日本テレビ社長の正力松太郎は「力道山が白人を投げ飛ばすプロレスは日本人に勇気を与える。プロレスはきっと日本で盛んになる。テレビ受像機の普及に大いに役立つぞ」といった。力道山は一夜にして日本の英雄となり、テレビは爆発的に売れ始めた。

蔵前国技館の三連戦で、大博打に打って出た日新プロ社長の永田貞雄は予想だにしていなかった。なんと千四百万人が街頭テレビにかじりついたのである。2日目のメイン・イベントは力道山対ベン・シャープの61分3分勝負である。

力道山は反則を畳みかけてくる兄にベンに対し、やられるだけやらせてみせた。超満員の大観衆は、野次と怒号を浴びせた。耐えに耐えた力道山が空手チョップで反撃に出ると観客はどっと沸いた。2対1でベンを破った力道山は熱狂の渦につつまれた。

永田は試合をじっと見続け、心の中で「リキという男は千両役者だ」と唸った。力道山はプロレスをはっきり「ショービジネス」としてとらえていた。興行面は永田にゆだね、マッチメイキングと演出でプロデューサーとしての才覚を発揮したのである。

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最終日は日曜日であった。シャープ兄弟が保持するWA世界タッグ選手権に、力道山木村組がいよいよ挑戦するとあって、ボルテージはいやが上にも盛り上がった。61分3分勝負の1本目は、木村がまたもめった打ちに会い24分57秒でフォールを奪われた。

2本目は力道山の怒りに空手チョップ乱打で、弟のマイクをわずか57秒でフォールした。3本目は反則を繰り返す兄のベンを力道山がロープの最上段から外に投げ落とすなどなど、激しい総力戦を展開した。リング外に転落するベンの姿に大観衆は沸きに沸いた。

街頭テレビで戦う木村の苦闘の表情や、力道山の怒りの表情が大写しとなり人々に迫力を与えた。白熱の攻防戦は壮絶な幕切れを迎え、力道山が両腕でベンの頭を締め上げた。ヘッドシザーズの猛攻である。そのままベンの頭を逆にしてマットの上を引きずった。

力道山が技を解くと、頭をあげたベンに観客がどよめいた。レフリーの沖識名があわててベンを心配そうに見た。鮮血が額からほとぼしっている。観客は度肝を抜かれた。沖識名は試合続行不可能と判断し、無判定試合を宣言しシャープ兄弟はベルトを防衛した。

これも巧妙に考え抜かれた演出であった。無判定試合のゴングで試合が終わると、力道山とシャープ兄弟はガラスの破片でも落ちていないかと、リング上をこれ見よがしに探し回った。ベンは隠してあったカミソリでわからないように切ったのだ。

しかも、沖識名がさっと拾って、隠したのだから見つかるはずがない。一流のレスラーというのは、技の駆け引きの呼吸と同時に、うまく血を流して見せる術も要求される。流れ出る血は作り物でもトマトケチャップでもない。真証証明の本物である。

繰り出す技は真剣で、それをまともに受けることのできる肉体の錬磨と、感性の柔らかさが一流のレスラーに要求される。国技館で行われたプロレスの国際試合は、想像を超えた魔界を人々に見せ、熱狂のうちに幕を閉じた。

その後、木村正彦の地元である熊本から地方興行へ踏み出した力道山一行は17日間で14試合という強行日程をこなし、満員御礼の連続だった。総売上げは8千万円を超え、テレビの発展にも大きく貢献した。力道山は、戦後復興の輝ける希望の星となった。

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謝辞:文中の敬称は省略させていただきました。

参考文献:力道山の真実(木下英二、祥伝社文庫)、戦後史開封(産経新聞社)など