はげちゃんの世界

人々の役に立とうと夢をいだき、夢を追いかけてきた日々

第22章 チャンバラ映画

物のない時代に、生きることに精いっぱいだった人々の大きな慰めは映画だった。戦前からチャンバラ映画は、単純な娯楽性とスカッとする立ち回りで、どの映画館も超満員の観客を集めた。戦後GHQの規制で禁止されていたが昭和25年ごろから復活した。

1 禁止されたチャンバラ

戦前から日本映画の人気を支えていたのは、五大スタート言われた時代劇俳優、坂東妻三郎、嵐勘十郎、大河内伝次郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門だった。しかし、GHQ(連合軍総司令部)の占領政策で刀を振り回す時代劇映画は禁止された。

このため、市川右太衛門は得意の華麗な立ち回りを披露することができず、世話物の「お夏清十郎」や「ジルバの鉄」でジルバを踊るマドロスを演じていた。「多羅尾伴内」シリーズでは片岡千恵蔵が七変化の探偵を演じ、林家木久扇が頻繁に真似をしている。

時代劇は勧善懲悪の単純な娯楽で、だからこそ多くの人の楽しみにつながっていた。GHQから「例えいい人でも武士の殺し合いはダメだ」と禁じられていたが、昭和3年に初監督として時代劇一筋で通してきた松田定次は、何が何でも時代劇を撮りたかった。

東映の前身である東横映画は、プロデューサーのマキノ光雄が中心になり昭和22年から京都で製作を始めた。監督の松田定次、マキノ雅弘、脚本の比佐芳武、俳優の市川右太衛門、片岡千恵蔵と、時代劇を知り尽くしている映画人が集まっていたがむなしかった。

脚本家の小川正は、庶民のために役人に反攻する国定忠治の物語ならアメリカへの反抗心を呼び起こして共感を呼ぶはずと考えた。忠治は侠客だが商人として登場し民衆のために水田に水を引くという物語で、悪代官も登場し立ち回りもあった。

小川正が書いた脚本で松田は昭和21年に坂東妻三郎主演の「国定忠治」を撮った。そのころGHQの映画検閲官にウォルター御旗という日系二世がいた。父親がハワイや西海岸で日本映画を輸入していたせいで、戦前から小川はこのウォルターを知っていた。

ウォルターと小川はゴルフを通じて親しくなり、いつも厚木飛行場近くの進駐軍ゴルフ場でプレーをしていた。ウォルターは賭け事が大好きだった。伊豆・川奈ゴルフ場で、1ドルから始めてホールを連続して取れば倍々になっていく賭けゴルフをした。
七人の花嫁

18ホールすべて負けると天文学的な金額になるという危険な賭けに小川は勝ち、金の代わりに「国定忠治」を検閲で通すように求めた。ウォルターはああしろこうしろといろいろ条件を出して10回位突き返したが、上映すると映画は大当たりだった。

チャンバラ映画が堂々と撮れるようになったのは昭和25年で、市川右太衛門は「旗本退屈男」シリーズを松田監督の「七人の花嫁」で復活させた。三日月型の眉間の傷に派手な装束で巨悪を暴くという退屈男は、佐々木味津三の小説の映画化である。

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2 復活したチャンバラ

右太衛門は「デパートへ行くと婦人服でも今までにない派手なものが飾ってある。これまで抑えられていた気持ちを発散したいという考えが商売人にもあったのでしょう。それならこっちの衣装も一段と派手にしようと、とにかく張り切った」と語った。

以来、右太衛門は明快で派手なチャンバラ映画のチャンピオンとして日本人の心を引き付けて行った。東横映画が赤字会社だった東京の大泉映画などと合併して東映になったのが昭和26年、その直後にサンフランシスコ講和条約で時代劇の完全解禁が実現した。

東映は設立間もなくはスターたちにギャラも払えない有様で「ハラマント映画」と言われた。中村錦之介は昭和29年正月過ぎの松竹「ひよどり草紙」に出演し、新東宝「花吹雪御存じ七人男」に出演後、福島通人プロデューサーが東映に錦之介を売り込みに来た。

東映では岡田製作課長が全ての映画の予算を握り、徹底した予算主義を敷いていた。マキノ光雄と岡田が錦之介一人では承知せず、福島が景品として付けたのが美空ひばりだった。錦之介と美空ひばりの獲得に成功した岡田は、新しい時代劇を作ろうと意気込んだ。

最初は強い印象は持たなかったが『笛吹童子』の撮影初日に「今度入った錦之助、あれは本物や。大物になるで」と言うので、岡田も撮影を見に行ったら「本当だ」と感心し、すぐに東京本社にいたマキノ光雄に電話して「錦之助は大スターになる」と報告した。

右太衛門と知恵蔵の両御大が戦前からの時代劇ファンを集めれば、錦之助や千代之介、大川橋藏ら若手は女性や子どもを引き付けた。東映を爆発的に飛躍させたのが「笛吹童子」だった。昭和29年の大型連休は全国の東映系笛吹童子映画館に長い行列ができた。中村錦之助と東千代之介主演の「笛吹童子」を見るためである。

昭和29年に1年間NHKラジオで放送された少年少女向けドラマ「新諸国物語・笛吹童子」の映画化で、萩丸(千代之介)と菊丸(錦之助)兄弟が父とその居城を奪った悪党を倒すまでの物語だった。原作者は北村寿夫主題歌の作曲は福田蘭童である。

ラジオは「ヒャラーリヒャラリコ」という独特のテーマソングとともに爆発的な人気を呼んだが、映画館でも「萩丸はどんなかおをしているのだろう」という子どもたちであふれた。錦之介は半年もかからず大人気者となった。

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3 躍進したチャンバラ

錦之助主演の「紅孔雀」のロケではどこにカメラを置いても人垣が映ってしまう。下から空に向けたらいいだろうと思ったら、木の上にも人が鈴なりになっていたほどだった。錦之助のファン集いは朝から会場の周りを三重もの人垣ができていた。

東映はまだ経営が厳しい状況にあったが、「電気紙芝居」とか「ジャリすくい」などとバカにされながら、翌年にはやはり「新諸国物語」紅孔雀で錦之助と千代之介コンビで映画化した「紅孔雀」が少年観客層の圧倒的な人気を集め、特大のヒットを記録した。

岡田はほぼ一回り年下のひばりの歌の実演や地方興行などと撮影のスケジュール調整の世話をした。「唄しぐれおしどり若衆」で、ひばりの切なる希望で相手役に錦之介を指名し、二人が組んだのがきっかけでここから東映のツキが始まった。

30年代の東映は、正月や盆には忠臣蔵や次郎長ものなどの主役級をぞろりとそろえたオールスター映画を企画し幅広い客層を集めた。映画が大当たりするとマキノは岡田に毎晩徹夜で一本を5日間で撮らせた。

昭和32年に東映はその勢いを象徴するかのような作品を公開した。日本初のシネマスコープと呼ばれるワイド映画の「鳳城の花嫁」である。当時の技術でワイド映画はコピーしないと上映できず、コピーは画像が荒れるという欠点があった。

知恵蔵や右太衛門の映像が荒れたら一大事である。そこで主演に御大の次のクラスだった大友柳太郎が選ばれた。ギャラを「ハラワント映画」と言われてから6年後の快挙である。片岡千恵蔵と市川右太衛門の二大スターの作品に若いファンはいなかった。

マキノと岡田はそれらに中村錦之介や東千代之介の作品を組ませてバランスを取り、二本立てで公開した。岡田は「あれだけ短期間でスターダムにのし上がったのは、私の知る限りでは、錦之介と石原裕次郎だけです」と話している。

また、月形龍之介や大友柳太朗を加えた娯楽時代劇と相まって、東映の進路に清新な活気を吹き込んで幅の広がりをもたらし、第一期黄金時代の原動力になった。創立5年目の昭和31年に配給収入で東映は業界首位に躍り出た。

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4 切られ役の苦難

京都太秦の東映京都撮影所内を歩いている者はいなかったという伝説がある。チャンバラ映画の全盛期の昭和30年代、スタッフは歩いている余裕はまったくなく、走って所内を移動していたそうだ。

この道35年というベテラン殺陣師の谷明健によれば、そのころ一度に11冊の脚本を持っていたことがあり、同時に11本もの映画の殺陣を担当していたことになる。主役を演じる俳優の近衛十四郎も一度に台本を6冊持っていたという。

チャンバラ時代劇は刀を持っての立ち回りが欠かせない。その型を決めるのが殺陣師で立ち回りのシーンでは監督よりも権限がある。18歳で東映に入った谷は、最初は切られ役の俳優からスタートした。

谷は切られ役の悲哀を語った。あの頃は一週間くらいぶっ続けで徹夜だった。撮影で切られて倒れたら、そのままいびきをかいていた人もいた。当時は薬局で覚せい剤を売っていて、みんな注射を打って元気を保っていた。切られ役はみんなヒロポン中毒だった。

チャンバラ全盛時代になると殺陣師が足りなくなり、殺陣師助手をやるようになった。といっても大衆整理役である。エキストラは新聞広告で募集するような時代で、何百人の中には本物のやくざがいて撮影中にけんかをはじめる。これを仲裁するのが仕事だった。

そのうち殺陣師の代役を務めるようになったが、監督もスターもその通りやってくれない。あるスターは夏のロケで谷ではできんと2時間も演じてくれなかった。今に見ておれという気落ちと、もう止めてやるという気持ちの繰り返しだっと語る。

ヒロポンが覚醒剤取締法によって使用禁止になるのは昭和26年からである。木谷邦臣が東映に入った33年ごろには600人の専属俳優がいた。木谷は2万回は切られている俳優で、最初は寝ているだけの死体役しかまわってこない。

何とか役を取りたいと暇さえあればセットを見学し、顔を売りながら立ち回りを覚え、切られ役集団の東映剣会に入ることができた。刀は竹みつとは言え当たれば痛い。胴なんかはよくみみずばれになったそうだ。

坂東妻三郎は実際に相手の体に当てないと気が済まず、大友柳太郎は抜き胴がよく胸に入った。でも切られ方でスターが目立つわけで、稽古でうまく切られる工夫を身に着けていたという。

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5 スターとお姫さま女優

昭和33年に上映された大映の「忠臣蔵」は、大石内蔵助に大看板スター長谷川一夫が扮し、浅野内匠頭には若手の二枚目スター市川雷蔵、ほかには鶴田浩二、勝新太郎という豪華絢爛たる顔ぶれに加え吉良上野介には、民藝の名優滝沢修を起用した。

女優陣には、京マチ子、山本富士子、木暮実千代、淡島千景、若尾文子といった当時のトップスターを起用した。「早撮りの名人」と言われた渡辺邦男監督は、初めて大映でメガホンを取りなんと35日間で完成させた

大映の美しき姫


      右から、京マチ子、山本富士子、小暮美千代、若尾文子

昭和33年4月に大映が「忠臣蔵」を制作して大ヒットしたのを受け、翌年1月に東映発展感謝記念と銘打って総力を結集した、シネマスコープでカラー作品の大忠臣蔵桜花の巻菊花の巻を上映した。3億6122万円の配給収益を得た。

大石内蔵助に大御所の片岡千恵蔵が扮し、浅野内匠頭には人気急上昇の中村錦之助、大石主税に北大路欣也、不破数右衛門に山形勲、吉田忠左衛門に大河内傳次郎、橋本平左衛門に月形龍之介、岡野金右衛門に大川橋蔵、堀部安兵衛は大友柳太朗。

千坂兵部に山村聡、吉良上野介に進藤英太郎、徳川綱吉に里見浩太郎、脇坂淡路守は市川右太衛門というオールスター総出演だった。女優陣は、内匠頭夫人に大川恵子、糸路に丘さとみ、おかるに櫻町弘子、初音太夫に花園ひろみ、お幸に千原しのぶを配した。

200本もの映画に出演している丘さとみは撮影所にあったお城にちなんで、「東映城のお姫さま」と呼ばれていた。でも、お姫さま役は数えるほどしかなく、マキノ雅弘監督にはよく、お色気を勉強しなさいと言われたものですと当時を振り返っている。

丘は20代をまるまる撮影所ですごした。5月ごろ、琵琶湖に一日中浸かっているロケがあった。体がしんから冷え切ってしまい、撮影所に帰ってふろに入ったらそのまま眠ってしまったという。危うく溺死するところだった。

馬からもだいぶん落ちたし、断崖絶壁の上で目隠しされて突き落とされそうになるシーンを撮ったこともある。時代劇は男性天国でしたが、当然のことと思っていましたと懐かしそうに語る。

東映城のお姫様


  東映のお姫さま女優達 右から、丘さとみ、大川恵子、櫻町弘子、千原しのぶ、花園ひろみ

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6 裏方のご苦労

今も東映京都撮影所では映画全盛期に育った職人さんたちが第一線で活躍している。昭和27年に入社した森誠は、まず最初に習ったのは着物のたたみ方だった。最盛期は24~5人の衣装部員がいたが、それでも製作本数が多いから大変だった。

劇中で芝居小屋の場面がある映画の場合、500人もの観客役をエキストラが演じた。全員に異なるデザインの衣装を用意しなければならない。撮影が終わった後には山の様な着物が残っていた。これを全てたたまなけれならない。

30本近い時代劇映画の美術を手掛けた鈴木考俊は昭和13年に映画界へ入り、28年の「危うし!鞍馬天狗」から東映の契約となった。全盛期の撮影所は人で足の踏み場もなかった。忠臣蔵のセット数は67枚もあり、それを一ヶ月で撮影しなければならない。

徹夜で組んだセットを昼頃にはばらすという具合で、炭を入れた石油缶を一晩中当てて壁紙の絵の具を乾かしたこともあった。ずいぶん無茶な注文も受けた。秋のロケで、氷を張った田んぼが必要になりロウを溶かしてまいたこともある。

セットでの撮影で雪が解けるところを撮りたいといわれ、シンナーを流した上に発報スチロールの雪を降らせたこともあった。東京五反田の東映劇場支配人を最後に退職した石渡尚美は、チャンバラ映画最盛期の昭和32年に就職した。

最初に配属されたのは新宿の劇場だった。ひっきりなしにお客さんが入ってくるので、一日中入口に立っていらしゃいませの繰り返しだったという。当時映画館が急増したためフイルムは三館で順番に回していた。

専門業者がフイルムをもって自転車で運ぶのだが、上映中のフイルムがもうすぐ切れるというのにまだ次が届かないことがある。劇場の入り口で待ち構え、受け取ると映写室まで駆け上がっていた。

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フイルムが届かなければお客は黙っていないが、混雑に関しての苦情はでなかった。主役が切られそうになると「危ない、逃げて」と声が飛ぶし、いい場面では拍手が起きる。客席全体が映画と一体にになって楽しんでいたと懐かしむ。

土曜日はオールナイト上映をしたこともあった。各映画館は毎週2本立てで競争し、映画街は人目を惹き付ける大看板で彩られた。入場券のもぎりの仕事も忙しかったが、最終上映が終わってからポスター張りにでかけ、帰りは午前2~3時だった。

昭和28年から映画館の看板描きをしていた鈴木守夫は、毎週アイデアを考え出すのが楽しみだったという。船の模型を作ったり、額縁から飛び出るような看板を作ったりといろいろ工夫した。戦後史開封

中村錦之助の「宮本武蔵」のときは、片足が道路まではみ出るような10メートル位の高さの全身像を作った。お客さんがすげぇなあといって見ていたという。恋愛映画を見ても子どもは楽しくないが、何と言ってもチャンバラは子どもだちが楽しめた。

そのころチャンバラに熱中した少年の一人が林家木久蔵(現:木久扇)である。鞍馬天狗の物のまねで売り出した木久蔵は、その縁で晩年の嵐勘十郎と親しくなるなど、主な時代劇スターのほとんどと会った。まるで神様と会った気がしたと語っている。

落ちている木の枝からまっすぐなものを選び、紙やすりでささくれを取って刀にする。鍔は古いメンコを三枚重ね合わせて造った。戦後の何もないときに子どもの心を揺さぶった最高のものはチャンバラだった。なんであんなに夢中になったんでしょうねと語る。

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7 斜陽産業と化した映画界

石渡が入社した翌年の昭和33年、映画館の入場者数は史上最高の11億2千7百45万人を数えた。一人が年間10回以上映画館へ足を運んだことになる。(高校一年生だった私も、確かに年間10本以上もの映画を観ていた。)

だが、11億人と史上最高を記録した映画館入場者は翌年から急激に下降し、わずか5年で半分以下に減ってしまった。最大の原因はテレビだった。特に、昭和34年4月の皇太子ご成婚で普及台数が急速に伸びてから、お茶の間の娯楽が主流となった。

昭和39年2月、時代劇映画の衰退で元気のなくなった京都撮影所のてこ入れを図るため、岡田茂は京都撮影所長を命じられた。てこ入れと言ってもテレビで「銭形平次」などの時代劇を作ることだった。映画界はテレビを見下していたが東映は同居した。

東映の大川社長はテレビ時代を逆手にとって機敏に動いた。34年開局のNETテレビ(現テレビ朝日)に資本参加し、新人の山城新伍主演でテレビ映画「風小僧」や「白馬童子」を撮るなどテレビ界に進出していった。

テレビに時代劇を譲った東映は任侠路線へ進出した。昭和38年の「人生劇場飛車角」を皮切りに「日本侠客伝」や「網走番外地」などが相次いでヒットし、鶴田浩二や高倉健などの新しいスターを生みだした。

昭和17年に日活と新興キネマ、大都映画を統合して大映が生まれた。チャンバラが禁止されると母もので勝負し、26年に「羅生門」がベネチア、29年に「地獄門」がカンヌ国際映画祭でグランプリを受賞、グランプリの大映と呼ばれた。

大映の永田社長は、映画会社はもうけるだけではだめだと芸術作品も奨励していた。長谷川一夫に加えて29年にデビューした市川雷蔵、勝新太郎らスターも人気を集め、なかでも「眠狂四郎」や「座頭市」シリーズはお客さんで映画館は一杯だった。

東映が時代劇から身を引いていき時代劇の老舗であった大映は孤軍奮闘していたが、ついに昭和46年12月21日に倒産した。このころには、東映からも市川右太衛門や中村錦之助などのスターは去って行った。

映画製作五社は人気俳優に依存する「スターシステム」を取り、「五社協定」として知られる俳優の囲い込みを行っていた。しかし、石原裕次郎が三船敏郎や宇野重吉の協力を得て製作した「黒部の太陽」以降、人気のある俳優の引退や流出が相次いだ。

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8 生き残りを賭けて

テレビドラマが本格的に作られるようになり映画産業は有名無実化した。日活は性風俗を扱う映画(日活ロマンポルノ)を制作するようになり、小林と渡哲也は東映へ移り、宍戸錠はテレビへ進出した。日活はアダルトビデオの登場で1990年代に一度倒産する。

東映から別れた新東宝もすぐに倒産した。東映は太秦映画村のようなテーマパークを作り、テレビ朝日でテレビコンテンツを作るようになった。大映テレビは大映本体から別れて生き残ったテレビ制作会社である。

東宝も多角化し、テレビの制作事業や芸能プロダクションを立ち上げた。1980年代にはアイドル映画も制作するようになり、2000年代には東宝シネマズというシネマコンプレックスを立ち上げ成功を納めている。

1969年から山田洋次監督の「男はつらいよ」シリーズが国民的人気を勝ち取った。1976年に角川春樹が映画製作に進出し、「人間の証明」「野性の証明」「戦国自衛隊」など、封切り公開された作品は立て続けに大ヒットした。

1976年の「犬神家の一族」では製作を東宝、配給は東映など、おどろおどろしい横溝正志の推理作品がシリーズで映画化された。以降の作品でも映画会社のそれぞれの強みのみを採用し、従来の映画界の枠を打ち破る独自の映画製作を進めていった。

1977年に東映が配給した「宇宙戦艦ヤマト」では日本映画で初といわれる徹夜組が出た。1979年には「銀河鉄道999」が公開され、邦画の邦画配収第一位となりアニメ映画史上初の快挙となった。

1984年に伊丹十三が51歳で「お葬式」で映画監督としてデビューし、最初は小さな映画館で上映され徐々に高い評価をうけて上映館が拡大し、ついには日本アカデミー賞、芸術選奨新人賞を始め30を超える映画賞を受賞する状態までになった。

1997年、今村昌平の「うなぎ」がカンヌ映画祭のグランプリ、河瀬直美の「萌の朱雀」がカメラ・ドールを獲得した。ヴェネツィア映画祭では北野武の「HANA-BI」が金獅子賞を獲得し、「日本映画のルネッサンス」という標語まで誕生した。

興行面でも周防正行の「Shall we ダンス ?」などがアメリカをはじめとする諸国で成功を収めた。国内でも1997年に宮崎駿の「もののけ姫」が記録的なヒットし明るい話題が続いた。斜陽産業化した映画はその後極端に動員数を減らすことはなかった。

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謝辞:文中の敬称は省略させていただきました。

参考文献:戦後史開封(サンケイ新聞社)、東映と大映資料など