はげちゃんの世界

人々の役に立とうと夢をいだき、夢を追いかけてきた日々

第19章 即席ラーメンの歴史

終戦後の食生活で最も革新的だったのは即席ラーメンの登場である。食堂へ行かなくても、行列に並ばなくても、ラーメンが簡単に食べられる。若いころはとにかく腹が空いていた。しかもそれほどお金に余裕がなかったので即席ラーメンはありがたかった。

1 チキンラーメンの誕生

昭和20年の秋、疎開先から焼け野原の中にビルの残骸が残る大阪へ戻った日清製粉の安藤百福は、瓦礫が残る空き地に無数の屋台が並び食を求めて群がる人々の行列を見た。この光景を見たのが即席めん開発のきっかけだった。

昭和30(1955)年の春に、明星食品がお湯を注ぐと食べられる50度前後の低温の油で揚げた「鶏糸麺(大和通商製造)」と、高温のラードで揚げた「長寿麺(東名商行製造)」を販売したが、完成度は今一で量産はむずかしかった。

この当時、アメリカから援助物資の小麦粉が大量に輸入され、官公庁はパン食を勧めていた。安藤は屋台に並ぶ人の群れを見て、うどんやそばのような麺料理が日本人の食生活に合うと考え、構想十年を経て未知の分野であるラーメン作りに挑戦した。

理想は「お湯をかけるだけで2~3分で食べられる麺料理」であった。大阪府池田市の自宅の裏に小さな小屋を建て、古道具屋から製麺機を購入して据え付け、小麦粉などの原料は自転車で買い出しに出かけた。

小麦粉に水を加えてこねて生地をねり、つなぎに卵や片栗粉、ヤマイモなどを加えながら家族総出で連日連夜試した。めんは最初からトリガラスープで味付けすることに決めていた。あとは保存のために麺を乾燥させる技術だけである。

チキンラーメン

この技術は天婦羅を見て思いついた。水で溶いた小麦粉を熱い油の中へ入れると、微細な穴が全面にうがたれる。油で揚げ、油熱乾燥させためんに湯を注ぐと、小麦粉に開いた穴に湯がゆきわたり短時間でゆで上がり状態に戻った。チキンラーメンの誕生である。

翌33年6月、東京有楽町の阪急百貨店でお湯をかけて2分間で食べられる「魔法の食品」とうたったチキンラーメンの試食即売会が行われた。うどん1玉が6円、食パン1斤30円、国鉄の初乗りは10円、入浴料が16円の時代に1袋35円である。用意した500食はその日のうちに売り切れた。

販売見本を見た問屋さんは「こんなけったいなもん、どないもなりますかいな」という反応だった。それが数日後には流通業者の心配をよそに売れ行きは爆発的となった。大阪市中央卸売市場で正規の販売食品になったのは、試食会からわずか2か月後である。

日産300食だったが、翌34年4月には6千食に達した。発売当初のチキンラーメンは鶏を丸ごと調理して味付けしていたため、栄養満点というイメージがプラスして受験生や残業のサラリーマンに受け入れられ、41年には年間1億1千700万食にも達した。

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2 主婦の支持を確立

昭和35年10月、魚肉ハム・ソーセ-ジの加工や缶詰製造が主だった東洋水産の社長に研究室勤務の柏木隆史が呼び出され、「お湯をかけて2分でできるラーメンが関西で人気を挙げつつある。お前ちょっとやってみてくれ」と指示された。

ラーメンを作るときに、粉に入れるかん水も知らなかった柏木はめん棒で製麺から始めた。めん開発が軌道に乗り始めると、静岡市の柑橘連工場を借りて生産した。カツオの削りぶしや昆布だしでスープをとるノウハウは水産会社にとってのお家芸だった。

昭和37年から東洋水産は味付け麺の「まるちゃんラーメン」を送り出し、38年に和風即席めん第一号「たぬきそば」の開発に成功する。この時期に大手水産会社の日本水産や日本冷蔵(ニチレイ)、大洋漁業(現マルハ)日魯漁業(現ニチロ)なども参入した。

昭和36年に明星食品から市場調査を依頼されていた矢原昌元は「即席ラーメンを一過性のブームに終わらせないためには、主婦たちの支持を得なければならない」と、コペルニクス的転回に気付いた。お湯をかけるからナベで煮るへの転換である。

明星食品の主力商品は「味付きめん」だったが、「味付けめんは簡便性には優れているが、肉や野菜を入れにくく味のバラエティ―に欠けている。スープ別添えの方が主婦に受ける」と明星食品の奥井社長へ進言した。営業部は冒険だと猛反対した。

味付きめんの製造を中止し、翌年スープ付き「明星ラーメン」を発売したが一か月が過ぎてもめぼしい反応はなかった。しかし、9月ごろから注文が殺到し作っても作っても間に合わない状態となった。東洋水産も同時期にスープ別添えのハイラーメンを開発した。

スープ別添え方式は、塩味やみそ味、とんこつ味も可能になることに気づき、各社はこぞってスープ別添えめんに参入してきた。カップめんをのぞけば、今でも煮るラーメンが主流派となった。明星食品もスープ別添えの出前一丁を発売してこれを販売主力とした。

昭和36年年7月社名をサンヨー食品株式会社に改称し、「マルちゃん」ブランドにてインスタントラーメンの製造・販売を開始38年8月長崎タンメンを発売した

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3 苦難のスープ作り

エースコックを創業した村岡慶二は、めんの「つるつる感」ともやしの「シャキシャキ感」の、食感の違いがおいしさを生み出すということに気づいた。2つの食感を楽しめるよう、幅広いめんと細いめんとで食感の違いを出せばおいしくなると考えた。

そこで幅の広い「ワンタン」の入ったラーメンを開発することとなった。当時、開発員の中に手延べそうめんの職人がいた。その手延べ職人が、 「ワンタン」の食感や長さなどの開発を担当し、試行錯誤の末に1人で完成させた。

ワンタンは完成したが、ワンタンに合うスープを開発しなければならなかった。スープの担当者は、オニオン・ガーリック、山椒、ゆずなど様々な旨みを加えておいしいスープを追求したが、なかなか社長のOKをもらえなかった。

スープ担当者が社員旅行そっちのけでスープの開発に試行錯誤していると、ふと研究室の棚にあった小瓶が目についた。ラベルには「松茸風味」と書かれていた。その時、スープ担当者はそれほど魅力を感じていなかったのだが、なんとなく気になり調合してみた。

夜も遅かったので、とりあえず味を微調整して帰った。次の日、社員旅行から帰ってきた社長に試食してもらうと、なんとこれがOK!今までにない新しい味が完成した。エースコックは昭和34年に第1号ラーメンとして味付の「北京ラーメン」を発売した。

もともとスープ別添えラーメンの元祖は、福岡市の泰明堂(現マルタイ)が1956年に発売したマルタイラーメンで、めんは棒状の乾麺だった。日本即席食品工業協会によると、業界全体の即席めん生産量は36年に年間5千5万食が37年に10億食となった。

さらに、昭和38年には20億食と倍増を続けた。各メーカーが新製品開発にやっきとなっているなか、昭和41年にサンヨー食品が出した「サッポロ一番」はホームランとなり現在もトップブランドである。

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4 サッポロビールの苦情

サンヨー食品は長崎タンメンを出していたが、「東京はしょうゆ味の人気が強い。塩味の長崎タンメンの人気もそうは長く続かないだろう」と危機感を持っていた。専務が全国のラーメンを食べ歩き、札幌市内で「これはうまい」と言える店を探しだした。

チャルメラ

専務はこっそりスープをビニール袋に入れて持ち帰り、その味を研究したところ今までにない味ができた。札幌ラーメンのイメージを出すための名前は「サッポロ一番」と決めたが、サッポロビールのロゴを無断拝借してサッポロビールから苦情がでた。

サンヨー食品の社長が、サッポロビールの社長に挨拶に出向くと『どうぞお使いください』と認めてくれた。それ以来、サンヨー食品は顧客の接待や宴会では必ずサッポロビールを使っている。サッポロ一番のスープの手本となったラーメン店は現在も営業中。

しょうゆ味のサッポロ一番は、1月に発売して4月にはスープ付き明星ラーメンを追い抜いた。8月には大阪へ進出し、43年に発売したサッポロ一番ミソ味も大ヒットして即席麺業界に不動の地位を築いた。

一方、札幌一番にシェアを奪われた明星食品は必死の巻き返しをはかった。研究者たちはチームを組んで評判の良いラーメン店を食べ歩いた。うまい店と思われ店をリストアップし、その中から神田小川町にあった一軒を選んだ。チャルメラ

この味を再現しようと、さまざまな味の組み合わせを試してホタテだしの「明星チャルメラ」が誕生した。47年のミュンヘンオリンピックでは、日本選手団が現地に持って行く指定銘柄となった。

即席麺業界では毎年100数種類の新製品がでるが、1年後に残るのはわずか5品。2年後にはさらににその半分と言える。その中にあって、「サッポロ一番」、「明星チャルメラ」、「出前一丁」、エースコックの「ワンタン」などは、今も売れ続けている。

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5 カップヌードルの登場

昭和41年に市場調査に米国へ出かけた日清製粉の安藤は、サンプルのチキンラーメンを紙コップに割って入れ、フォークで食べる米国人の姿を見た。それまでの即席めんはどんぶりと箸の存在を前提としていた。欧米でも通用する商品にするには容器が必要だ。

帰りの機内でサービスに配られたマカデミアンナッツの容器でヒントを得た。縦長で片手で持てる大きさのアルミ容器は、紙とアルミ箔を貼り合わせたふたで密閉されていた。包装材料を同時に食器とし、調理なべにもすると外国でも受け入れられる。

即席めんを入れる容器選びは、陶磁器、ガラス、紙、プラスチック、金属等々、考えられる材料を試した結果、残ったのは発泡スチロールだった。縦長のスタイルはやがて他メーカー、サンヨー食品のカップスター、東洋水産のホットヌードルなどに広まった。

カップヌードルは社内でも売れるかどうか疑問視された。袋入りの即席ラーメンが30円というのに、定価は100円だった。意見を求められた問屋は「値段が高しいどっぶりならどこの家庭にもある」というので、食品問屋以外のルートで販売することとなった。

その結果「出動先でも食べられると」自衛隊や警察への販路が開けた。昭和47年2月に、武装した連合赤軍メンバーの5人が長野県軽井沢町の別荘に人質を取って立てこもった。立てこもりは10日間にも及び、警察官ら3人が死亡する悲惨なものとなった。

各テレビ局はこぞって現地から中継したが、事件の動きが少ないときは、厳寒の山中で機動隊員らが食事する光景を映し出した。その中に日清食品の「カップヌードル」があった。テレビ中継は、名前が売れていなかったこのカップ型ラーメンのPRに役立った。

「現地は零下15度の寒さだった。食事は乾パンと握り飯ぐらいだった。カレーライスも作ってみたが、すぐ凍って食べれたものじゃない。キッチンカーを用意させ、お湯を沸かしてカップヌードルを食べた。生き返った心地がした」と現場の指揮官が述べている。

正規の警備食ではなかったため、オヤツ用として1個50円で販売した。警官たちが美味しそうに食べるのを見て、取材中の新聞記者たちも買いに来た。46年の2億円という売り上げが47年には67億円になり、48年には180億円となった。

袋めんの売り上げが限界に近づき、42~43年ごろから頭打ち状態にあった即席めんの市場もカップヌードルでにわかに活気づいた。日本即席食品工業協会によると、平成5年の生産量は、カップ麺25億食、袋麺21億千万食と、カップ麺が逆転している。

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6 地域限定戦略の成功

カレー粉などの香辛料の最大メーカーハウス食品が即席麺業界に進出したのは昭和48年だったが、つけ麺などがヒットして袋めん市場で15%のシエアを得てあっという間に大手となった。だが、九州地方ではなぜか振るわずシエアは1%台を低迷していた。

カレーやシチューに比べ、ラーメンは地域によって支持、不支持がはっきり分かれる食品で、嗜好の差をもっとも繁栄する食品といえる。それなら、同一商品の全国展開にこだわらず、地域の味覚に合う商品を出したらどうかとハウス食品は考えた。

地域限定戦略による「ご当地ラーメン」の袋麺が誕生した。当時としては冒険的だったが、福岡支店の職員が福岡のラーメン店を回って客の好む味を確かめて商品化したのは、九州で断トツの強さを誇るとんこつ味の「うまかっちゃん」である。

戦後史開封

骨を折ったのは、地元へどう浸透させるかだった。ネーミングを博多方言ふうにつけ、袋の表から会社名のハウスを削った。宣伝には「博多っ子風情」で知られる地元のる漫画家や、一般公募した地元中高生を使い、あくまでも地元の味を強調した。

それまで九州は、44年に初のとんこつ味の「屋台ラーメン」を出したマルタイの牙城だった。消費者から「あれはマルタイさんの商品でしょう」と間違われ困ったと、当時の業務部長は述べている。「うまかっちゃん」が出てから博多ラーメンは薄味になった。

58年に「うまかっちゃん」は関東以西の日本全域に逆進出する。ハウス食品はさらに、新しい限定地域向けの商品開発に取り掛かり、関西の「好きやねん」、北海道の「うまいっしょ」を発売した。

業界各社は「うまかっちゃん」以後、「明星九州っ子」、日清食品の「ふくおーか」など九州向けとんこつ味商品を何度も発売してきたが、ハウス食品の優位は動かなかった。博多弁の「うまかっちゃん」は「うまいですもんね」という意味である。

九州を制したハウス食品に対し、東洋水産は北海道で60%の市場占有率を誇る。関西では日清食品とエースコック、東京ではサンヨー食品に人気が高い。カップヌードルは全国共通だが、どん兵衛は関が原を境に東はかつおだし、西は昆布だしを中心にしている。

中堅メーカーのヤマダイは地域戦略に乗れなかった。48年10月に始まる石油ショックが原因だった。前年に出した「ニュータッチヌードル」の売れ行きは好調だったが、ヤマダイの本社は茨城県だった。小麦粉も重油も手に入らず、商社とのコネもなかった。

名古屋からわざわざトラックで買い付けに来たお得意さんもいたが、注文を受けられなかった。ヤマダイが石油ショックから立ち直るのに数年かかり、それから20年が過ぎた平成6年にようやく九州へ進出できた。

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7 ノンフライめんの登場

昭和50年の初め、鐘紡生産技術研究所でコンピュータの入力を担当したいた村上三平は意外な辞令を受け取った。大学での専攻はロケット工学だった村上が、試作めん工業化チームの設備担当者に任命されたのだった。

鐘紡は少し前から即席めん市場に参入していたが、上司は村上に辞令を手渡す際に「食品研究所でノンフライカップめんの商品化を可能とするおもしろい麺の試作品ができた。なんとか生産ラインに載せたい」と指示された。

ノンフライは、めんを乾燥させる際に油で揚げないめんのこと。油の質が悪くなって残る恐れがないうえ、低カロリーでコシが強くスープの味を活かせるなどの利点がある。すでに袋入りで明星食品の子会社から「サッポロ柳めん」や「明星中華」が出ていた。

約60度の低温熱風で長時間かけて乾燥させていたのだが、油で揚げるのに比べて麺に開く穴が小さすぎ、お湯をかけるだけでは水分が染み込みにくく、熱も十分に通らない。カップめんではめんが戻りにくく、味にもナマ感が残った。

食品研究所で試作されためんは、このナマ感問題を解決していた。残った問題は、めんに適度な穴をうがつ乾燥技術の開発だった。マイクロ波や遠赤外線を照射するなどを試したが、めん質が悪くなったりコスト高などでうまくいかない。

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村上は、鐘紡の繊維工場でコットンやナイロン、ポリエステルなどの合成繊維を高温短時間で乾かす方法に気付いた。翌年、カネボウ食品は初のノンフライカップめん「ノンフライタンメン」を発売する。出荷数が1年間で100億円に達する大ヒットだった。

特に55年に出した「広東拉麺」シリーズはノンフライの味への自信から、カップめんの価格が130円の時代に150円で売り出した。これは、高級即席めんブームを作った明星食品の「中華三昧」につながていった。

「中華三昧」は56年に発売され、またたくまに高級めんブームを巻き起こし、千円の即席めんも登場した。だが、カップめんの売り上げ増により、成長を続けてきた即席めん業界も昭和62年に入ると初めて売り上げがマイナス成長を記録した。

これを切り抜けたのがエースコックの村上寛だった。「カップヌードル」の発売からすでに15年、中高校生の体格は年々大きくなり食べる量も増していた。登場したのは1.5倍量の「スーパーカップ」、食べるのに時間がかかるのでのびにくいめんを採用した。

エースコックは昭和42年に、100グラムの大判(通常85グラム)の袋めん「駅前ラーメン」を出し、一時は全国トップシェアを獲得した経験があった。エースコックの新開発のびにくいめんの「スーパーカップ」は初年度で250億円を売り上げた。

他社も次々と試作を重ね、大型カップめんは一時スウーパーマーケットの即席めん売り場で三割近くを占めた。これは消費者の注目を集め、再び即席めんに興味を向ける役割を果たした。

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参考資料:戦後詩開封1(産経新聞社)ほか。