はげちゃんの世界

人々の役に立とうと夢をいだき、夢を追いかけてきた日々

第6章 木もれび掲載短編集

白石区の学校事務職員が集う研修サークルの会誌「木もれび」より、アマチュア無線免許取得の「あ~、花の中年」、文句を言いながら現実から逃げてはいけない「原稿用紙のない世界」、後輩への苦言と指針「蜘蛛の糸」を転載。

1 あ~、花の中年

雪深い2月のことでございます。職員室の片隅みで若い先生方がコソコソと話しこんでおります。若ハゲどもがまたなにかタクランデルな、などという失礼なことはまるで考えずに声をかけたのでございます。

なにやってるんだい。「アマチュア無線の免許を取るんだ」。へー、簡単に取れるのかい。「あんなもの、一ヶ月月もあれば取れるよ」。じゃ、オレも加えてくれというわけであっさり仲間入りしたまでは良かったのですが、給料計算をしていたある日のこと、「ヤマさん、願書出したのか」。なんの。「無線のよ。」「そんなものいるのか。「あったりまえだべ、国家試験を受けるんだ。」。アレッ、仲間に入ったら免許くれるじゃないの。

なんというオロカな考えでいたものよ。我身にアキレておりますと、「願書の〆切りは明後日だぞ。」とノタマウではありませんか。驚きあわてて中央区へ外勤する先生に、悪いけど、願書買ってきてよと頼みますと、「ムタだからヤメレ。」の一言。

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とにかく、翌日手にいたしました願書に収入印紙と写真が必要とのこと。学校のカメラを出してみますと幸いなことにフイルムが残っております。写してもらったフイルム片手に暗室へ飛び込みました。そこはそれ、ふたむかしほど前には写真部に席を置いた経験が役立ち、一時間もあれば出来上がります。

写真現像の楽しさは、現像液にひたされた印画紙にゆっくりと現れる映像の確認で、経験のない方にはご理解いただけないことでしょうが、このトシになりましても恋人にあえるかのように心ときめくものでございます。あぁそれなのに、印画紙に現れた顔のみにくさ。

油ぎった中年の、あのイヤラシイ顔。そこへ、良くとれているという評価を背にうけて山本陽子との再婚をアキラメなければならんだろうと悲しくも心に誓いながら、銚子一本分の収入印紙をはりまして、その日のうちにメデタクも郵送したのでございます。

卒業式に入学式とあわただしく時は流れて4月の中旬、一通の葉書が舞い込みました。受験番号794408、受験日は5月19日とある。これは大変、あとひと月。受験仲間に「どんな本を読めば良い。」と相談いたしますと「まだやってないのか、それじゃオチルわ」。

本屋さんへ行きますと「お子さんでなく、あなたが受けるのですか。一カ月ではチョットねー」。何度も何度も立ち上がる腹を寝かしつけ、クヤシ涙にくれながら飲む酒のカラサがいつになく身に染み入るのでございます。

さて、「中学生程度の電気の知識に多少ラジオの知識があれば、」とのはしがきに勇気づけられ、おもむろに読みはじめた本文の不思議さ。なにが書いてあるのか解らない。たしかに日本語であることは認めるのですが、意味がまったく通じない。

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クーロンの法則にオームの法則などは、ご幼少のミギリに耳にした記憶はあるはずですが、分数式に文字式、方程式ときては不得意。ましてや比例と反比例の意味もわからず、国語辞典片手にオロオロするばかり。同様の悩みをいだいたのでしょう、二人の仲間が受験を断念いたしました。ハジをかくより手を引く賢明さを、知っていたのでございましょう。

日はまた昇り、いくたびか夜のとばりが訪れて、理解できぬまま辞典のみが黒くなってゆきます。そして私は、死ぬ思いで2日間、いや2日間も酒を断ちました。一日目はむかしを偲ぶため。残りの一日は、むかしと同じ経験をくり返えために。

明けて5月19日。職員朝会を終えて結核予防会へ。空腹時に流れ入るバリュームに舌づつみを打ちつつ小雨に煙る創成川をあとに引き返し、塩からい給食を支払っているぶんだけ胃袋へつめこみ、年休を取って試験場へとまいります。

試験時間は1時間半、忘れかけていた緊張感がアルコール漬けのこの身を引き締めるのでございます。1時間が過ぎますと、出来た方はそれぞれ退出の許可がおりるのでございますが、出ていくヤツは小中学生ばかり。悲しみに打ちひしがれて取り残されるは、私同様に花の中年ばかり。

ともかく、5時からの宴会に幹事を仰せつかっておりますことから、時間の経過が正答を生み出すことはないと考え、後ろ髪引かるる思いで別れを告げてきたのでございます。

7月の中旬に「ヤマさん、きたぞ。」という若きハンサムの声。なにが。「通知よ、ほら」。棄権の二字がくっきりと見えるハガキを手に「試験を受けなかったけれど、親切なもんだなぁ。」と、髪の毛が半分薄れた半寒(ハンサム)がしきりに感心しております。

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棄権が2人、合格が1人。不合格が1人と判明しましたが、肝心のヒーローである私に通知がありません。まことにオチコボレタ存在とはイヤなもので、くる日も来る日も悩ましく、酒に身をゆだね続けたのでございます。

年齢は私の脳をどこまで老化させ、アルコールは私の大脳をどれほど虫ばんだのでしょう。専売公社より感謝状をいただくことなく、自主的主体的な「酒と煙草消費税多額納税者」の末路は。ガンの恐怖におののきながらも我が身を犠牲にして、ひたすら国庫を富ませた愛国者の努力はむくいられずして終わるのでしょうか。

それだけに合格の通知を受けたときの喜びは、言い表すすべもございません。目を「テレビカメラ」に、脳を「VTR」に変えるという「一夜づけ」の技法は、約500頁の内容を理解なくして記憶させるという、歴史に残る一大事業を成功させたのでございます。

そして、「あんた、テスターの使い方も知らないのに合格したもなあ。」という賞賛の声を無視し続け、この歳にしてついに、名言を体得したのでございます。

「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」(1987年昭和53年11月3日作)

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2 原稿用紙のない世界

最近の私と申せば明けても暮れても原稿書きに追われれ、つくづく憂鬱つな日々を送っております。もう飽き果てまして、原稿用紙のない世界に行きたくなっても無理からぬことでございましょう。

ハワイやグアムの浜辺で焼けつくような真夏の太陽をあび、真っ青に澄みきった大海原を泳ぎたい。真っ黒に日焼けして、空を染めるほどに燃えあがる恋もしてみたいなどと歳がいもなく考えております。しかし、思いどおりにならぬは人の世のつね、旅にでたくとも先立つものがございません。たとえお金がなくとも、〆切りが迫る原稿用紙から逃げだしたくなるのは、人情というものでございましょう。

それは、札教研半日集会の日でございました。田辺先生の「いわゆる。」から始まるご質問に震えながらも、励ましに勇気づけられた日のことでございます。ご来光を思わせる高塚先生のヒカルヘッドに照らされながら、羊肉をいただいた夜のことでございました。

ホロ酔い気分で外に出ますと、突然やみの中から「だんはん、旅に出とうおますか」。えっ。「銭のかからん旅やがな」。ただ。「そうや、ただや」。

私の心の中を見透かす言葉に思わず立ちどまったのでございます。いいとこかい。「ええ所やで」。天国へでもつれてゆくきかい。「だんはん、天国へ行きとうおますのか」。よせやい、天国じゃ退屈しちゃうよ。「ほなら地獄なんぞはどうおます。おもろい所でっせ」。地獄に原稿用紙はあるかい。「そないなものありますかいな」。どうだい、一杯やりながらくわしく聞こうか。

その男をいざない、小さな居酒屋へ入ったのでございます。いつ飲みましてもアツカンのお酒がのどを通る心地良さは格別なもので、まことに生きていることのうれしさを実感いたします。

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地獄てのはどんなところさ。「へえ、寒地獄と熱地獄がおます」。なんだ、2種類もあるのかい。「そうでんがな。地獄は寒熱それぞれ8つの大地獄がおます。わてらは、8大寒地獄とか8大熱地獄と読んでおます。大地獄には4つの出入口がおまして、1つの出入口には4つの小地獄が用意されておます」。

ずいぶんあるんだな~、全部でいくつになるんだい。「そやなあ、寒熱16大地獄に出口が4かける16ですから64、小地獄は64かける4で256ヶ所でんな」。ふ~ん、それで8大地獄には名前があるのかい。「おますけど、漢字で書けばだんはんにも読めませんで」。

タイプの活字がございませんのでカタカナを使用させていただきます。「寒大地獄は第1から第8まで、アブダ・ニラブダ・アタタ・クワクワバ・ココバ・ウンバラ・ハドマ・マカバドマと呼んどります。熱地獄も同じ順序で、トウカツ・コクジョウ・シュウゴウ・キョウカン・大キョウカン・ショウネツ・大ショウネツ・アビと呼びますがな」。

変な名前ばかりつけたもんだな。なんだいアブダとかウンバラってのは。「解りまへんやろなあ、寒くて身体中に現れるできものやひび、あかぎれの呼び名でおます。アブダはアバタの原語やし、ウンバラは蓮華の花や」。地獄に蓮華かい。「蓮華の花のような避け目が、身体中にできるほど寒いっていう意味ですがな」。

あんたなあ、アツカンを飲みながら体のひえる話しはやめなよ」「ほなら、熱地獄はどうおます」。雪見酒をやりながら温かい話しはいいね。チョット、酒がなくなったよ、2~3本つけてくれ。

いまだに見たことがない所、未知の世界を知るという喜びが私の胸を踊らせました。知りたくなったら満足するまでという性格が、わずかののちに苦しみに変わることをこのときは気付かなかったのでございます。関西弁らしき言葉使いと、不思議な話しにつりこまれまして、いつしか銚子シの数が増えてゆくのでございます。

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8大熱地獄てのはどんなところさ。順に説明してみてよ。「へえ、まず第1は等活地獄でおます。生きもんを殺した者が堕ちるところで、殺された生きもんと同じ苦しみを何度もひとしく甦って受けるため等活地獄と呼んどります。第2の黒縄地獄は他人さまの物を盗った者が堕ちるところで、熱く焼けた黒い鉄の縄で打たれることから黒い縄、コクジョウといっとります。第三はシュウゴウ地獄でんな」。

シュウゴウてのはずいぶん騒がれた算数の考え方だろう。「そりゃ集合で、わいのいうのは衆合でんがな」。じゃあ、まとめてめんどうみるところだ。「へえ、最近はおなごもずいぶん増えとりますが、不純な異性行為をしたもんが堕ちるとこ。次はキョウカン地獄で、酒を飲んだもんが、泣き・叫び・わめくほどの苦しみを受けるところでおます」。

ちょっと待てよ。酒を飲んだら地獄に堕ちるのかい。「そうでんがな、酒を飲んで他人さまに迷惑かけたらだんはんも堕ちまっせ。きいつけなければあきまへん。次が大キョウカン地獄で、ウソツキが前の地獄よりもひどい苦しみを受けることになっておます。第6はショウネツで、その次は大ショウネツ地獄だす。間違った考えや一人よがりの主張を他人さまに押し付けたり、仕事をなまけたり異性を犯したもんが苦しんでおます。最後はアビ地獄や。両親や肉親を殺した者が、休みなく燃えさかる炎の中でのたうちまわっておます」。

聞くは一時の恥、聞かざるは末代の恥でございます。私共は時にアビキョウカンの苦しみとか、トタンの苦しみなどと申しますが、その言葉の由来は地獄のありさまからきたようでございます。あまり飲まずに帰っていたなら、このような地獄の苦しみを味わわずにすんだのでございますが、酔いは体をほのかに暖め、知り得た喜びはしだいに疑問を生みだすものでございましょう。とめどもなくわきあがる興味は、時の流れを忘れさせたのでございます。

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地獄はどこにあるのさ。「地下でんがな」。地下たってどのへんさ。「第1地獄は地下1千由旬のところにおます」。変な言葉がでてきたな、ユジュンてのはなんだい。「由旬はクルシャの八倍の大きさで、1クルシャは牛の鳴く声が届く最大距離でおます。1クルシャの8倍が1由旬で、そやなあ、牛車が1日かかって行ける距離やから、15kmロから16kmぐらいやろか」。

じゃ、あいだを取って15kmにしなよ。「そうでんな。第1地獄までは15,000kmになりますやろか。第1地獄から第7地獄まではすべて1千由旬ずつ離れておりまして、広さは1万由旬平方ありますがな」。第8地獄はどうしたい。「最後の第8地獄だけは特別大きく、8千由旬離れたところにあって、8万由旬平方の広さがおます」。じゃ、地獄の果てまでどのくらいあるのさ。「そやなあ、地獄は円形やから円の面積から直径を求めて、それに地獄間の距離を加えるとおよそ760万kmのところになりまんな」。

夜はしだいに更け、チラホラと遠くでまたたくネオンの明かりが赤や黄色の点となって小さな盆の中で踊っています。テーブルの上に並んだ銚子を手にとって、少しでも残っていないかと底を叩きました。

ところで、地獄では無限の苦しみを受けるそうだが、本当に無限なのかい。「無限やおまへんで。きっちりと寿命がきまっておます。寒熱どっちでも、第1地獄での寿命は1兆6,600億年で、第2地獄から第8地獄までは前の地獄の8倍の寿命と決められておます」。随分なげえな。寒熱8大地獄全部での寿命は何年になるのさ。「そやなあ、およそ349京年になりますやろか」。

どうも、あんたの話しはおかしいよ。だって、そうだろう。地獄の果てまで760万kmじゃ、地球を突き抜けて小惑星帯までになるし、地獄での寿命が349京年でもあと四十億年ぐらいで地球は消えちゃうんだ。そのあとはどうなるのさ。「そないなことわても知りまへん。むかしからそない云われておりますのや」。

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酒はもうなくなったな。ところで、さっきから聞こうと思っていたんだが、あんただれさ。「わては、だんはんの夢をかなえるために現れたものでおます。原稿用紙は見たくもないだすやろ。旅に出たいんは知らない経験をしたいことと違いまっか」。まあ、そういうことだな。「そうだすやろ。だんはんの望みきっちり叶えてあげまっせ。そやから本当の地獄に気がつかにゃあきまへんで」。

いい終わりますと、男はやみの中に消えてしまったのでございます。不思議なことがあるものとテーブルの上を見て驚きました。あれほど並んでいた銚子シが一本もなく、盆の変わりにカラになったコップがひとつ、寂しそうに残されているではありませんか。店の主人に聞きますと最初から一人で飲んでいたそうです。愕然としました私はまるでキツネにバカにされた思いで、とぼとぼと家路をたどったのでございます。

この夜に妻は病に倒れ、医者よ薬よと走り回りながら、掃除洗濯はもちろんのこと、栄養のバランスと味付けに悪戦苦闘する三度三度の食事作り。子どもを学校へ送りだして献立を考え、水枕に氷を入れてタオルで頭を冷やすという明け暮れに、原稿用紙に向かうひまのない4日間。

家事などと云うそれまで知らなかった経験をたっぷり味わい、慣れないい仕事のつらさに耐えかねて小さな観音像に手を合わせたのでございます。困ったときの神頼みとは、このような姿をいうのでございましょう。しかし、どんなに手を合わせても観音さまは答えてくれません。

2日目の夜が過ぎ3日目の朝となって、私は観音像をしげしげとながめたのでございます。なんとも不思議なことに、手を合わせて祈り続ける私に向かい観音さまは手を合わせているではございませんか。ハッとそれに気づいたとき、観音さまは語りかけたのでございます。

分かっておくれ、わたしに苦しみを訴える人間よ。気づいておくれ、わたしに救いを求める人間よ。どうか悟っておくれ、あなたに口で伝えることのできない人生の真実を。あなたの生まれる以前から、このように手を合わせて祈り続ける私の姿に気づいておくれ。あなたの願いをかなえるのはあなた自身の心にあることを。辛くても、苦しくても、そこに人生の真実があることを。

いま思えば観音さまの化身でございましょうか、あの男が残した言葉の意味をこのとき気づいたのです。文句を言いながら現実から逃げてはいけないと。(1988年昭和54年12月20日作)

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3 蜘蛛の糸

先日開催された学校事務研究大会に医師の許可をもらって参加した。腿までギブスをかけた入院患者が外勤するというので、医師と看護婦はあきれ顔である。事前に研究紀要を読んでいたが、当日配付された資料を見て驚いた。悲しくも不思議な光景を垣間見て我が目を疑ったのである。

札幌市女子学校事務職員の現状と課題の中で「もちろん個人差もでてくるでしょうが、いつまでも発注を任されなかったり、伝票整理しかしていないというのでは、本人の仕事に対する姿勢にも係わってくることが懸念されます。」と述べられている。資料を見ると大なり小なりこの状態は、男女共通の悩みのように思われる。たしかに、支出命令書を見ながら意味もわからず伺書に転記し、納品書や見積書を綴じ込んでいるだけでは、高等教育を受けた者には耐えられない毎日だろう。

仕事をしたいと望んでもさせてもらえない苦しみは、四苦八苦のうちの求不得苦にあたる。どんなに求めても与えられず、得ることも出来ないという苦しみは味わった者にしか理解できない。

積もり積もった苦悩に喘ぎながら伝票を整理しているうちに、場当たり的な思い付きや計画性のなさが目についてくるだろう。しかし、どういうやり方が正しいのかはっきりせず、どこまで口を出してよいのかわからないこともあって、行きどまりで張りがない職業とかストレスのたまる職場などと思い込んでしまう。

やる気のしない業務や気に入らない仕事は雑務として排除したり、事あるごとに対立を繰り返しては愚痴をこぼす。教員より身分が低くて給料が安い、職務内容が不明確で立身出世ができないと失望したあげく、学校事務職員という職業に嫌気がさして学校外への配置転換や転職を考える。あるいは、管理職無能論や教育職無知論をくり広げたり、排他的になるか趣味に自己を逃避させることとなる。時には、精神障害を起こすこともあるだろう。

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悲しい「地獄絵図」の世界である。誰れしもこんな嫌な世界を好むだろうか。無限の苦痛に満ちた地獄に魅力を感じるだろうか。ひとたび誤って堕ちたとしてもこのおどろおどろしい世界に身を置き、いつまでも断末魔に喘ぎ続けるのだろう。いつまでも針の山に身を裂かれ、血の池でのたうちまわっているのだろう。

風にゆらぐ一本の糸がある。手を伸ばせばつかむことができる、いまにも切れそうな細い糸、極楽から亡者を救いに伸びた「蜘蛛の糸」である。この糸登れば地獄から抜け出せる。地獄から極楽へ行くにはこれしかない。

必要なのは「発想の転換」である。「いつまでも発注を任されなかったり、伝票整理しかしていない。」という発想が問題なのだ。この発想の中に、求めよさらば与えられんという乳児的人生観、仕事に対する独り善がりな考え方のずれ、およそ民間の職場では通用しない甘え等が含まれている。

むしろ「いつまでたっても、発注を任せられるようにならない。」とか「伝票処理程度の能力しかないようだ。」と思われていることに恥ずかしさを感じないだろうか。ディスコにうつつをぬかしている学生や、マザーコンプレックスの未成年ならいざしらず、職業人となったからには乳ばなれをしなければならない。

伝票処理しかしていないのならば、まず伝票処理のフロフエッショナルになることだ。伺書や伝票を整理するのは監査に備えているのではない。監査に備えるという甘さが身を滅ぼし、監査のためという考え方がプロになれない根拠である。

新採用者といえども、教わりながら前任者と同様の整理をしているうちに疑問を持つことがないだろうか。伝票をながめているといろいろなことに気づく。なんでもかんでも同一業者に発注しているのはなぜだろう。仲間が話していた価格よりも高額で購入したのはなぜだろう。足りなくなったからといい何度も何度も追加発注するのはなぜだろう。

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基準数を無視して高価な指導書を全員に買い与えるのはなぜだろう。消耗品を買ったことにして備品を購入するのはなぜだろう。業者が来たときにながめていると不思議なことに気づく。在庫を調べずに発注したり、贅沢すぎるものを発注するのはなぜだろう。

声ひそめてこそこそ話し合うのはなぜだろう。なんでもかんでもサービスさせようとするのはなぜだろう。大きな学校行事があるときに、酒やビールを持ってこさせるのはなぜだろう。なぜ、なぜ、なぜ。いくらでも疑問はある。これらの疑問をノートに記入して、個々人の性癖を考えながら答えを求めようとしたことがあるだろうか。

伺書をはじめ見積書や納品書は会計証憑と呼ばれる。なぜ5年間も整理保存が必要なのか、伝票整理をしながら考えたことがあるだろうか。法令に定められているから、というのでは答えにならない。必要とする理由があるから法令ができたのであり、原因を見ずに結果だけで判断するから甘さがでる。

会計証憑の整理は文書整理と同意義をもつ。単に証拠を残すだけでなく、業務上必要な時にいつでも直ちに取り出して見ることが出来るようにするためであり、整理する目的はあくまでも記録の活用にある。従って、事あるごとに見聞をひろめ、様々な整理方法を数多く知らなければならない。それらの利点と欠点を調べながら、記録の活用に重点をおいた方式へと改善していく努力が必要である。

過年度の支出負担行為伺書綴りはすばらしいデータの宝庫である。購入年月日に多少のずれがあったとしても、いつ、なにを、どの程度、いくらで購入しているかがわかる。数年分を詳細にながめるとその学校の運営状態がわかってくる。

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主要な消耗品の数量を書き出してみることにより、その学校での平均必要量が算出できるし、ワースト業者との癒着程度も見えてくる。疑問があるから調べ、調べるから進歩する。判らなくても判らないなりに努力を続ける。その努力が尊いのであり、努力はしだいに力へと成長する。

力こそプロフエッショナルに必要不可欠のものであり、その力が新らたな仕事を呼ぶ。やりがいのある仕事や生きがいをもてる仕事が、力を慕ってくるようになる。「あれほどやれるなら、発注をまかせても心配ない。」「なんと的確な処理だろう。それならこの仕事もやらせてみようか。」と思われるようにかならずなる。

蜘蛛の糸を登るのはつらい。十数年たったいまでもこの細い糸を私は登り続けている。いつのころからか私の足に妻と子供がぶらさがり、糸をつかむ腕がしびれてくる。だが、どんなに疲れもどれほど苦しかろうと休むわけにはいかない。うっかり手をはなせば家族を道づれに地獄へ堕ちる。ひたすら登り続けるしかない。

数年後には数多くのプロフエッショナルが誕生するだろう。プロフエッショナルが増加すれば学校事務職員という職業は希望の光につつまれる。その日はかならずくる。その日が近いことを私は信ずる(1989年昭和55年8月10日作)。

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