はげちゃんの世界

人々の役に立とうと夢をいだき、夢を追いかけてきた日々

第2章 昭和30~32年度

見渡す限り平らな石狩平野の中央部を吹き抜ける強い風、歩くとふわふわゆれる道路、気味が悪いほど赤く濁っている飲料水、新篠津村は泥炭地帯でした。文化祭で三学年の劇「シュテルゼフ峠」演じた仲間は70歳を超えていまなお同窓会が続いています。

1 大きな中学校

1955(昭和30)年4月、入学した石山中学校までは片道が約4km、細い山道を熊に脅えながら徒歩で登校していました。街中へ入るとどこを見ても人の姿が目に入ります。石山中学校は二階建ての木造校舎で生徒数は328名。小学校は先生が2人で一教室しかありませんが、巨大な建物の中学校は人で溢れかえっているようでした。

1年B組で担任は山田先生、ワンダフル・バーチャンというニックネームの中年女性教師でした。放課後にピアノの弾き方を教えていただきましたがうまくいきません。ピアノの弾き方を学ぼうとしたのは、父が出張したり会合で遅くなる日は母が小学校のオルガンを弾いて歌を聞かせてくれたからです。

この当時、ピアノは高価で入手困難な貴重品でした。豊平町立の中学校は10校ありましたが、月寒中学校、平岸中学校に続いて石山中学校は1951(昭和26)年11月1日にピアノを購入していました。

体育の時間に、屋体の高鉄棒に腰掛けていたら後ろ向きに落ち、後頭部を打って気絶しました。同級生が駆け寄ってきたのを大丈夫だと云いながら水飲み場まで行って頭を冷やし、保健室へいくのを断って腰をおろし壁にもたれていたそうです。もちろん、本人に記憶はありません。

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街角で自転車を止めて準備する紙芝居屋さんを見かけましたが、黄金バットなどの紙芝居を見たことは一度もありません。急いで歩いてもしだいに暗くなり、いつ熊が現れるかもしれない山道を1時間かけて帰るのは大人でも恐ろしく感じました。うれしかったのは雑貨屋さんで、直径1.5cmもある飴玉を1円で2個購入できたことでした。

この当時は映画が最大の娯楽でした。1954(昭29)年の文化の日に公開された映ゴジラ第一作のDVD写真画で、三流館で上映されるようになった時期に風邪を引いて参加できなかった中学校の映画鑑賞会。小学生時代に巡回映画を見る機会もありましたが、これほど見たいと思った映画はありません。

当時としては破格といえる1億5,200万円という興行収入を記録したモノクロ映画で、ゴリラとクジラを合成した身長50m、体重2,500トンという怪獣「ゴジラ」の第一作です。DVDを発見して購入し、鑑賞できたのは50年後の夏でした。

校歌の「はろばろと山なみあつめ無意根山たそがれ深し」という一節がすばらしいと感じ、無意根山がどこにあるのか探そうと考えていた一学年終業式の日、父の転勤が決まり転校することになりました。

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2 平野の中学校

2-1 驚異の別天地

見渡す限り平らな石狩平野の真ん中、遥かかなたとなった後志の山々とかすんで見える大雪山連峰。吹き抜ける強い風、歩くとふわふわゆれる道路、気持ち悪いほど赤く濁っている飲料水、新篠津は泥炭地でした。

引っ越した当時は生水を飲むことができず、たった一軒あった中川商店からサイダーやラムネを購入していました。煮沸してろ過した水を飲めるようになりましたが、2~3度風呂へ入ると真っ白な手ぬぐいは赤茶けた色に変色してしまいました。

中学校までの距離は片道4kmでも山坂がないことに違和感を覚えました。体育系の中学校の校舎全景クラブ活動は二期制で、夏は相撲、冬は柔道を選択しました。一年生で身長169cm、体重60kgというのは当時としても大きいほうです。

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2-2 救援物資の脱脂粉乳

当時は弁当持参で、二学期の昼食時から水に溶いて暖められた脱脂粉乳が出ました。脱脂粉乳は、サンフランシスコ在住の日系人浅野七之助氏が中心となって設立した「日本難民救済会」を母体として設立されたララ(LARA ; Licensed Agencies for Relief in Asia アジア救援公認団体)より、食糧難時期の救援物資として寄贈されたものです。

脱脂粉乳は、牛乳から乳脂肪分と水分を除去して粉末状のもので、ボール紙を巻いたドラム缶状の容器で中学校に届きました。蛋白質・カルシウム・乳糖などを多く含んで栄養価が高いことから、現在の牛乳の代わりとして学校給食で使われました。

脱脂粉乳の味を知っている団塊の世代などからおいしかったという評価は聞けません。バターを作った残りの廃棄物で家畜の飼料用として粗雑に扱われたものや、パナマ運河を経由した為に高温と多湿で傷んだからという説もあります。

米作農家の同級生は食べ物にそれほど不自由していたとは思えませんが、わたしにとって脱脂粉乳はご馳走でした。ボール紙を巻いたドラム缶状の容器から塊りを取り出してポケットに入れ、時折食べていた記憶があります。私は食べられるものであれば何でも口にした時期でした。

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2-3 ユニセフと黒柳徹子さん

余談になりますが、脱脂粉乳はユニセフの支援物資と思っていました。就職してから感謝の気持ちとして毎年わずかな金額ですが寄付していました。退職後のある日、日本ユニセフの職員と名乗る女性から電話で「なぜ寄付されているんですか。」と質問されて違和感を感じ、寄付をやめパンフレット類の受領もお断りしました。

ユニセフは国連の機関の一つで「国連児童基金」といい、ニューヨークに本部があります。日本に駐日事務所があり、日本政府との交渉や物資の調達、広報などの仕事をしています。女優の黒柳徹子さんは、1984年にニューヨーク本部よりユニセフ親善大使に任命され、国際連合児童基金駐日事務所がマネジメントをしています。ユニセフ(国際連合児童基金)と日本ユニセフ協会は別の組織で、日本ユニセフ協会はユニセフから委託された民間業者です。

黒柳徹子さんはご自分の口座を、みずほ銀行六本木支店と郵便局に開いて独自に募金活動をされています。ボランティア団体の場合は一部が経費として使われますが、徹子さんは「頂いた募金は一円も無駄にしないで現地に届けたい。」とのご意向です。2015年11月30日現在で、募金総額は5,584,148,590円となっています。これまで30年間に50億円という募金が集まり、世界中の子供たちの役に立てられました。

徹子さんは次のように述べておられます。「募金をしてくださった方に「ありがとう」の御礼のお手紙をお出ししていないのは、80円の切手を貼ってお礼をお出しすると、その分のお金で子どもたちが救えるので、その分も子どもたちのために使いたいと思っているので、お礼状はお出ししておりません。」

国連児童基金「ユニセフ」への募金にご協力いただける方は、最下段の「徹子の小さな放送局」をご覧ください。

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2-4 横綱との出会い

小学生時代は山の中や沢を走り回り、ターザンごっこをして遊んでいたので体力と腕力柔道部員の写真はそれなりにありました。相撲部へ入ると土俵の周囲を兎跳びでまわり、足腰も鍛えることができました。なによりも裸で皮膚を太陽にさらし、はだしで足の裏の皮がはがれるまですり足を繰り返したのが健康の元でした。幼児期に発生した皮膚病は、内股のような皮膚がやわらかい部分に冬場だけ吹き出物が現われる程度に回復していました。

二学期が始まると、全校生徒参加で泥炭掘りが行われました。泥炭というのは、湿地や沼地に水生植物やコケが堆積しある程度炭化したものを言います。15cm幅で長方形の専用スコップを使い、建築用ブロックの厚さ半分程度の大きさに切り抜きます。泥炭は水を含んでいるので非常に重く、力まかせに持ち上げると専用スコップの柄が折れてしまいました。切り抜いて張り出された泥炭を地面に並べて乾燥させ、雪の振る前に集めて中学校の物置へ運び込みます。乾燥した泥炭は非常に軽く、これが冬期間の暖房用燃料になりました。

1957(昭和32)年の夏、大相撲の札幌巡業時に横綱の「吉葉山」が妙武谷以下を相撲の立会写真伴い来校することが決まりました。校長先生の教え子が横綱になったというので、歓迎の意味をこめて急遽村内中学校の相撲大会が開かれることとなりました。ふたを開けると第一中学校は参加を辞退し、第二中学校の相撲部と体の大きい生徒との戦いとなりました。当時私は相撲部の部長でしたから負けるわけにはいきません。勝負を裁くのはプロの行司さんです。

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団体戦に優勝して面子を保ちましたが、横綱の吉葉山に土俵上から呼ばれたときはドッキとしました。俵の上で腰を落とし、両手を広げて構えている横綱はものすごく大きく感優勝旗授与の写真じます。吸い込まれるように、思い切り額でぶち当たりました。横綱の胸はガツンといいません。ふわっと頭を受け止め、すぐに上から体重がのしかかります。重いから両手で押しあげると脇が開きます。両脇を閉めるようにと腕を叩かれました。力いっぱい押しても、横綱はビクともしません。しだいに腰が砕けてきます。まわしを叩かれると腰と足がふらついて土俵下へ転げ落ちました。見上げると、横綱が「もういっちょう」と叫びます。夢中でぶつかりました。土俵下へ転げ落ちるとまた呼ばれました。現役横綱の胸を三度も借りることができたのは光栄です。

起重機と呼ばれた妙武谷はとても背が高かく感じました。腰を低くして構えている胸にぶつかっていくと、妙武谷は立ち上がりました。ガツンという音がして思わず頭を抱え込むと、額の皮が剥けて血がにじんできます。ぶつかったところは胸ではなくて、まわしでした。

夕方、歓迎会から戻った父が吉葉山に「お前を預けてみないかと言われたが断った、いいだろう。」といいます。そのときは相撲取りになろうと考えていませんが、本格的に受験勉強をしなければならない時期がくると、あくびをしながら吉葉山の姿を思い出していました。

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2-5 世界初の人工衛星

中学二年生になってから宇宙の果てに興味を持ち、旭川天文台や東京天文台に何度かハガキで質問をしたことがありました。他愛のない内容でしたがご多忙にもかかわらず基礎を学ぶようにとの励ましをいただき、購入した太陽系に関する本をあきもせずに何度も繰り返して読んでいました。

中学三年生になった昭和32年10月4日、ソ連が世界初の人工衛星スプートニックを打ち上げました。頭上の通過時間を調べて夜空に目を凝らし、ラジオのバリコンをまわして発信音を捉えようと苦心したこともありました。

体力はありましたが、風を引いて3日間意識を失ったこともあります。お腹がすいて目がさめると敷布団と掛け布団が湿っています。トイレから戻って布団を片付けようとしたら、グッショリ濡れていて持ち上がるどころではありません。母の手を借りてたたむと、畳の上にカビが生えていました。

村内陸上記録会では砲丸投げの新記録を出して優勝し、記録は全国レベルだったとあとで聞きました。足止め用具が無く、失格とならないように円の中央部で投げていました。何メートル投げたか記憶はありませんが、6年ほど破られなかったというこの記録は高校受験の役に立ちました。走るのは苦手で真面目に走ったことは一度もなく、1,500mの選手に選んだ担任の先生には申し訳なく思っています。

クリーニングのセールスマンが持ってきたハガキがきっかけで、セブンスデー・アドベンチスト派が主宰する予言の声聖書通信講座「神の探検隊」を受講しました。講座の内容が未知の世界で不思議だったこともあり、この年の10月23日に修了証書をいただくと上級課程である「キリストへの道」へ進みました。翌年の1月15日にこの講座の修了証書をいただくと「通信講座本科」へ進み、本州にあるセブンスデー・アドベンチスト派の高等学校へ進学したいと思うようになってきました。

中学三年になったばかりの4月14日、村内の柔剣道大会に出場しました。柔道青年の部で何人と当たったのか忘れましたが、決勝戦で袈裟固めに押さえ込まれて二等賞となりました。第二位でも準優勝でも同じですが、二等賞という表現は小学校の運動会のような気がしてガッカリしました。

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3 シュテルゼフ峠

昭和32年12月1日の文化祭で、三学年の劇は「シュテルゼフ峠(シュニッツラー原作、佐藤加輔脚色)全三幕」でした。出演者が少ないので舞台に出る配役は無言で演技をし、舞台の袖で演技を見ながら声を出す配役に分かれました。演技者の演技をしっかり見ていないとセリフが合わず、セリフを覚えていないと演技ができないという非常に難しい劇でした。

20フランの金貨は、裏側が金色をしている蜂蜜を蓄える一斗缶の蓋で代用しました。出演者の服装は自宅で調達できたましたが、憲兵用の警察官の衣装と帽子は担任の先生がどこからか借りてきました。私は演出と憲兵役でしたが、練習が思うように進まず土壇場になって3日間で仕上がった記憶があります。劇のあらすじをご紹介します。(シュテルゼフ峠の原作名は「盲目のジェロニモとその兄」です。)

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3-1 第一幕 峠のホテルの玄関前

シュテルゼフ峠はイタリアからオーストリーへ越える国境にあります。峠の手前にホテルがあり、峠を越える馬車の仕度が遅れ客は体をもてあましていました。ホテルへ客が出入するたびに、玄関前の植え込みのそばで盲人のジェロニモはギターを弾いて歌い、第一幕、ホテルの前兄のカルローは帽子で喜捨をうけていました。

客とホテルの従業員の会話から、子供の頃にカルローが窓から吹矢を吹いたとき、庭へ飛び出した弟の目に当たったのが原因でジェロニモは両眼を失明しました。兄は一生を弟の目の代わりをすると誓い、献身的に尽くしていることが紹介されます。

退屈でイライラしていたフランスからの客がカルローへ1フランを喜捨し、ジェロニモには兄へ20フラン金貨を渡したとからかいました。嘘を信じ込んでしまったジェロニモは兄を疑い、カルローが独り占めしたと思い込んで兄の言うことを信じなくなります。

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3-2 第二幕 ホテルの食堂

ホテルの食堂でぎょ者達の求めで歌い終わったジェロニモは、ドロボウみたいなやつに渡さず自分にお金をくれと言い張り、あまりのことにカルローは食堂から出て行きます。ジェロニモは自分で稼いだお金を自分で使いたいと、何か美味しいものを持ってくるよう頼みましたが紅茶だけにしなさいとたしなめられます。

椅子に腰掛けたまま熟睡している客がいます。ぎょ者達は会話に疲れて寝室へ引き取る第二幕、ホテルの食堂と、ジェロニモは一人では何も出来ずにすすり泣きを始めました。紅茶を運んできたホテルの従業員が、明日は仲直りをするよう言い聞かせながらジェロニモを寝室へ連れて行きます。

カルローが夢遊病者のように入ってきました。戻ってきたホテルの従業員に昼間のようすを打ち明けると、退屈でイライラしていたフランスからの客がジェロニモをからかったと知らされます。従業員の半年分以上の給料に相当する20フランという額は、カルローにはどうしようもありません。

ホテルの従業員が眠っていた客を揺り起こすと、上着が床に落ちて重そうな音がしました。上着を椅子にかけ、目を覚ました客を支えながら寝室へ連れて行くのを見送ったカルローは、引きつけられるように上着のそばへ歩みよりました。上着のポケットへ手を入れると、でてきたのは20フラン金貨。これさえあれば・・・。

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3-3 第三幕 暁の峠

シュテルゼフ峠の頂上を少し下ったところまできたカルローは、足が痛い腹がすいたというジェロニモをあつかいかねて金貨を握らせました。ジェロニモは歓喜し、兄が独り占めしようと隠していたが怖くなって出したんだろうとカルローを責めました。

憲兵が峠の下から登ってきます。カルローにお金を盗んだという疑いがかかっているので憲兵隊へつれていくといいます。おどおどしているカルローの様子にジェロニモは、自分のお金ばかりか他人のお金まで盗んだとなじります。そして、憲兵に盗まれた金額を聞第三幕、憲兵が来ておどどしているカルローきました。20フランの金貨1枚と聞いて、ジェロニモはすべてを理解したのです。

カルローに自分がそうさせたことを詫びながら、20フランの金貨を取り出して憲兵に自分を逮捕するよう求めます。憲兵は泣きすがるジェロニモを振り払いカルローを連れ去りました。

木々の間から朝日が差し込み、遠くから郵便馬車のすずの音が近づいてきます。シュテルゼフ峠に、何度も何度も兄に詫びるジェロニモの声がこだましました。

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3-4 幕外 後日談

この当時「シュテルゼフ峠」という劇は全国で取り上げられ、文化祭では必ずと言ってよいほど演じられていました。同窓会に参加されたときに担任の先生のお話ですが、私た当時の中学三年生ちが第一回を演じたあと翌年も取り上げ、中学校を転勤するたびに何度も「シュテルゼフ峠」を演目として取り上げたそうです。なかなか思うように運ばず「観客がすすり泣いたのは、後にも先にもこの時だけだった。お前たちはすごいよ。」と、おっしゃいました。

何回目になったのか誰一人記憶していませんが、70歳を超えていまなおこのメンバーの同窓会が続いています。残念なことに10名は先立ってしまいました。

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4 シュテルゼフ峠の出会い

この日から45年後、インターネットの「シュテルゼフ峠」で見知らぬ二人が出会いました。

早朝にインターネットへ接続すると、平成14年6月29日午後2時28分発信のメールが届いていました。発信者はアルファベット二文字、件名は「はじめまして」とあります。「ファイアーウオール」は黙して語らず、「アンチウイルス」も反応しません。メールを開封しました。

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◆ はじめてお便りいたします。横浜のD(64歳)と申します。貴方様のホームページを拝見し、失礼を省みずお便りいたしました。中学時代の文化祭のシュテルゼフ峠につき記述されておりましたが、私も中学三年のときにカルロー役で出たことがあり、大変懐かしく拝見いたしました。

■ 札幌の山崎(60歳)と申します。シュテルゼフ峠のカルロー役を演じられたとは懐かしいですね。おどおどした表情と動きが難しく、表現力を要した役でしたね。わたし達の年代が中学生の頃、先生方が注目されたのがこの劇のようです。同窓会の時に、あちこちの中学校で採用されたと担任の先生より伺いました。

◆ ご返事ありがとうございます。どのようにしてホームページに辿り着いたか不思議に思われるかもしれませんが、実は昔の中学時代の卒業アルバムを見ていまして、シュテルゼフ峠を調べて見ようと思いつき検索しましたところ行き着いたのです。ご迷惑とは存じましたが、親近感を覚えてメールしてしまいました。

■ シュテルゼフ峠を Googleで検索してみると、劇団たんぽぽが1950年に公演していました。シュニッツラー原作、佐藤加輔脚色だったのですね。私も45年前のカルローにあえたような気持ちがしています。お許しいただき、時々お話ができればと思っています。

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◆ シュテルゼフ峠は、シュニッツラーの「盲目のジェロニモとその兄」が原作ですのでこれで検索をしてみましたところ、千葉県の千葉高校の同期会のホームページに出会いました。ご紹介します。名物先生が授業時間にこの物語を朗読された様子を、A君という方が名文で投稿されており感激いたしました。こんな素晴らしい先生に出会いたいものだと思いました。この先生の返信文の写真も掲載されていますが名文です。

■ お知らせいただきましたホームページを読みました。涙が溢れました。涙が流れ落ちました。と同時に、受験勉強が遅れるという苦情の電話。PTAのお歴々の抗議。校長、教頭、教務主任の苦悩。馬耳東風の名物先生。職員室の様子も目に浮びました。本当に、会ってみたい先生ですね。味のある先生はいなくなりました。個性のある先生も少なくなりました。A君の文章、先生の手紙、そして、感想集などすべてをプリントアウトして職場の仲間に見せました。いつ戻ってくるのか分りません。

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◆ ホームページには菊地先生の読書会の様子が紹介され、サラサーテの「チゴイネルワイゼン」をBGMにシュニッツラー作の「盲目のジェロニモとその兄」や、チャイコフスキーの「花のワルツ」をBGMにトーマス・マン作「トニオ・クレーゲル」を朗読された様子が描かれていました。感化されやすいのか、トニオ・クレエゲル(岩波文庫300円)を買ってしまいました。岩波文庫の本の写真

■ 買いましたね、やっぱり。実は、近くの小さな本屋さんへ寄りましたが置いていません。翌日、大きな本屋さんへでかけましたが取り寄せと云われました。昨日の午後、北海道庁主催のマンション管理講座へ参加する途中で買えました。

「青春の喜び悩み悲しみを美しく奏でた青春の歌である」。表紙にある解説を読むと、菊地久治先生の言葉が頭に浮びました。「きみたちに教えたのは愛なのです。どこまでも人への愛を忘れずにゆきなさいね」』。なぜなの、こんなに夢中にさせるのは。

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■ トニオ・クレエゲルを読み終わりました。表紙の「一少女との恋愛にも堪えられぬものだった」に期待して開きますと、その読みにくいこと。二度目は、学生時代に読んだ翻訳の口調が懐かしく、三度目でやっと恋愛じゃなく片思いとわかりました。

「金髪のインゲ インゲボルム・ホルム」。この言葉だけでトニオの胸の高まりが理解できます。片思いの専門家の判断ですから間違いありません。日本人の名前じゃこうはいきませんね。菊地久治先生はどの部分を朗読されたのでしょう。菊地先生になりきって読み直してみました。

 その結果、岩波文庫版78ページの後ろから三行目「トニオ・クレエゲルは、水浴と足早な散歩のあとの・・・・」からと思いました。80ページの中ほどに「おずおずした甘い喜びをいだきながら・・・」とありますから、79ページ一行目の「インゲボルム・ホルムは、金髪のインゲは・・」という表現が、いかに大きな驚きであったか分ります。

 おそらく、ここで菊地先生は絶句されたでしょう。窓の外へ目を移し胸の高まりに身を任せたでしょう。愛とは絶句、息苦しさを伴うことを生徒に伝えようとしたでしょうね。良い作品にめぐり合えました。A君にもお礼を申し上げます。

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◆ 私もトニオ・クレエゲル読み終えました。途中一寸中断していましたが、13年振りに故郷に帰る50ページあたりから引き込まれ一気に読んでしまいました。30年近く訪れていない、幼稚園から学生時代を過ごした富山県の片田舎の風景を重ねて読んでいました。

 そしてチャイコフスキーの“くるみ割り人形”のDVDが有るのを思い出し、もう一台のパソコンで花のワルツを再生させながら菊池先生はどの場面を読んだのか、A君の記述を読み直しました。まさに、さすがです。山崎さんの推理通りだと思いました。久しぶりに良い読書をしました(^^)。」

■ ウイーンフィルハーモーニーでカラヤン指揮の「くるみ割り人形」をはじめ、ずいぶん多くのレコードを持っていましたが、いまは一枚もありません。自作パソコン電源部のファンが、起動時にものすごい音をたて始めました。古くなったケースを取替え、ついでにマザーボードを更新してからDVDもつけようと考えています。クラシックのDVD盤を購入し、花のワルツを聞きながら菊地先生になりきれるのはいつでしょう。

◆ 今朝、NHKの中学生日記で、授業評価で先生を生徒が採点するという話題が有りました。こんなことをすると菊池先生のような方は居なくなるのかなと、ふと考えてしまいました。

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カルローの愛、菊地先生の愛、A君の作品に滲む愛。「県立千葉高昭和43年卒業生同期会」のホームページより「菊地久治先生の思い出」へリンクさせていただきました。生徒の心の中に刻み込まれた先生を尋ねてみましょう。また、「トニオ・クレエゲル」を読んで自分自身の体験を重ねてみましょう。

・ クリックで「菊地久治先生の思い出」へ移動します。

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・ 参考資料

シュテルゼフ峠 昭和32年11月1日 新篠津村立新篠津第二中学校学芸会シナリオ
 ダカーポ    No.460号・No.461号 「20世紀の常識」 マガジンハウス2001
 読める年表   日本史   自由国民社
 国連児童基金「ユニセフ」へのご協力は 徹子の小さな放送局  の「お願いチャンネル」へ

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